ゴカイ

そう、こいつらは全部聞いていたのだ。
碁盤を運び込んだ先を確認し、隣の部屋を確保。対局が終わった順に、どんどんノゾキ部屋(聞耳頭巾部屋?)へ集まる棋士達。
だって気になる。さっきの”痴話”が付きそうな喧嘩をした二人が、他に誰も聞く者のいない部屋で、どんな検討をするのか、そりゃもう気になる!気にならない方がおかしいじゃないか!そして展開される、微妙なやり取り・・・。これは何?ライバルってこういうものなの?何かがあるとは思ったけれど、これって期待通りって言ってもいいのかなぁ・・・?

そこにあの倉田の話だ。二人はあきらかに親しいのに、それを隠そうとしている。
棋士同士仲のよい者は多い。勝負師同士、戦う相手とはいえ、その職業を理解し合える数少ない人間として、同じ棋士を親友に持つ者は少なくない。
なぜ、若い二人はそれを隠そうとするのか?隠さなければならないような関係なのか?

はは、まさか、でも、あんな風に顔を寄せて、頬に手をやったりなんて、あんまり、いや、普通しないよな・・・
それに、おまえがいるから幸せだなんて、友達どうしで言ったり・・・やっぱり、しないし、
・・・それが嬉しくて忘れがたいなんて、どう考えても、一般的とは言えない、よな・・・。

そうして導かれる答えは一つ。
誰もが同じ答えにたどり着き、そして“二人の仲、後援会”となって何の不思議があろう?

予測される困難を考えなかった筈がない、なのに、あの塔矢アキラが、思慮深く、礼儀正しい、日本囲碁界の次代を担う塔矢二世が、それでも選んだ相手なのだ。
その相手。思い付きのまま行動し礼儀を知らない。しかしそれでも皆に愛される、素直な性格と、それを隠せない容姿。そして何よりすばらしい棋力。他に例を見ないほどの急成長でここまで来た進藤ヒカル。
惹かれたのは何もアキラだけではない。錚々たる人物が名を連ねる。そんな二人を応援してやりたいと思うのは、ごく自然ではないだろうか?

確かに、皆を振り回している二人は、ごく一般的とは言えない人物だ。しかし、それも仕方がないと言えるだろう。

アキラは小さなころから大人に囲まれ、同年代の、友達と呼べる人間など、ヒカルくらいしかいないのだ。それも、これまでの紆余曲折から、素直に友人であるとは言いがたい。そのうえ友達同士の接触の経験値が非常に低いアキラは、友人としての妥当なラインというものを、全くわかっていない。

一方ヒカルは、その多感な時期を常に他人と共有してきた。そのため、無意識に自分の魂の一部が欠けているように感じている。それは喪失感ではなく、不足感だ。他人と触れ合う時、それを補おうとしてしまう。ヒカルにとって不足しているためにバランスが悪いと感じられるところ、それは通常なら他人を踏み込ませない、自分自身に近い非常に柔らかいところだ。

ヒカルは意識せずに、そこを埋めてくれる、自分をそこに迎えてくれる人を求めている。そしてアキラは友人との境界が曖昧で、容易に自分の心にヒカルを入れてしまい、ヒカルの心に踏み込んでしまうのだ。それは本人たちの意図や意識とは関わりないところで、ごく自然に行われている。まして他人には預かり知らないことだ。

二人の関係は実際微妙で大変近しいものだが、このような事情により発生している状態であり、互いに対して特別な感情はない。いや、互いが自分にとって“特別”“大切”であるという感情があるのであって、恋愛や憎悪の対象とはなりえないのだ。
心の自分に近いところを明渡している相手に対するそれは、“自己愛”や“自己嫌悪”と言い換えられるものだから。
そのような感情は、二人にとって余り馴染みがなく、正しく強い目で未来を見つめる彼らは、一時そのような感情に襲われることがあっても、それを振り切り力強く前に歩を進めることができる。

つまり、聞耳頭巾どもの考えたような関係に至るには、彼らは近すぎるのだった。
ヒカルが佐為に対してそのような感情を持ち得なかったのと同様に、アキラに対してもありえない。ヒカルにたいするアキラも同様だ。
それは男同士であるとか、ライバルであるとかいう以前の問題なのだ。
おかしな話だが、それを期待するのなら、一度彼らは切り離されなければならない。離れて、自分を明渡さず、完全なる一己の人間として向かい合わなければ。彼ら二人ともが、もっと成熟しなければ、それを期待するほうが無理なのだ。

だから、いくらその言動が他人の目に妖しく映ろうとも、二人にはそんな意識は全く無く、何おかしなことを言い出すのかと呆れるばかりだ。
「オレと塔矢が?そんなわけ無いじゃん!どうしちゃったの?」
「いくらなんでも冗談が過ぎます。倉田さんも・・・何かあったのですか?」
怒りではなく、非常な驚きと呆れがやって来て、それが収まると、次に二人の胸に訪れたのは心配だった。本当にどうしちゃったの?何かあったの?ヒカルとアキラの心配げな目が、労わるように大人たちに向けられた。

その視線に、二人を取り巻く棋士たちはいたたまれなくなった。
そんな目で見ないでくれ!いくら否定されたって、自分たちにはそういう風に見えてしまうんだ。心配しているのは、こっちなんだ。そんな風に、優しく心をくだいたりしないでくれ!

互いに次の言葉を紡ぐことができず膠着状態に陥ろうとした時、風穴を開けたのは、認識に誤りはあったものの、一度は二人の若者を救った人物だった。
「なんで黙ってたんだよ?前から仲、良かったんだろ?」

倉田の言葉に、アキラはヒカルを窺ってから答える。

「良くはありませんでしたよ。今もどうでしょう?良いというのかな・・・?そういうのとはちょっと違う気がします。知り合いではありましたし、ずっと気になっていました。ボクには進藤がよくわからなかったから。それは今も同じですね。何故って?詳しいことは・・・言えません。言いたくないのではなくて、やっぱりよくわからないから。説明のしようがないんです。ええ、名人戦の予選での対局がプロ初対局で、その後はよく父の碁会所で打っていました。それを黙っていたのは、進藤が森下先生に知られたくないって言って・・・。はい、理由はそれだけです。え?ライバル?・・・はい、そう思っています。進藤はボクの生涯のライバルです」

アキラの告白は静かなまま終わり、広間にはまた静寂が訪れた。しかしアキラは熱くヒカルを見つめていて、その目は今にも言葉を発しそうだった。キミは?キミはどうなの?と。

「仲は、かなり良いと思う。今はね。オレたちにしては。一時期かなり辛かったから。塔矢はどうだろ?オレより辛かった、かな?悪いことしたって思ってる。本当に。え?何?どういうこと・・・って、そんなこと言えねぇよ。本人にも言ってないのにさ。・・・ああ、うん、始めて会ったのって小六ん時。オレ全然碁界知らなくてさ、塔矢アキラって聞いても、オレ進藤ヒカル6年生とか自己紹介しちゃったよ。同じ歳じゃんってさ、笑っちゃうよな。塔矢名人の息子なんて言われてもわかんなかっただろうなぁ。子どもが打つなんて思ってなかったから、嬉しかったの覚えてる。・・・恐かったよ、真剣で。オレの言葉なんて、聞いちゃいなくて、悔しかった。え?何言ってるかわからないって?あそ。詳しい話なんてできねぇもん。とにかく、それでオレは碁を始めたの!塔矢の真剣な目をオレに向けさせたくて!んで、黙ってたのは、森下先生にはやっぱ言えなくって、和谷も、あ、同期のヤツね、うるさそうとか思っただけ、そんだけっ!・・・って、わぁ!こえーよ、塔矢。ンな目で睨むなよ・・・えー、言いたいことはわかる、うん。でも、聞くなよ?オレさ、これ以上おまえに嘘つきたくない。だから言えない事は黙ってるしかないんだ」

ヒカルの告白はほとんどの者にとって要領を得ないものだったが、アキラにとってはそれどころではなかった。
だが、今この状況では訊けない。この人たちは、よくわからない思考の持ち主なのだ。これ以上情報を提供する訳にはいかない。ヒカルに関しては歯止めの利かないアキラも、ここは踏みとどまった。

「これ以上って、いったいどれだけの嘘があるんだ?!」
「だからぁ、聞くなってば」
周りの棋士たちから開放されると、アキラは早速ヒカルを責め立て始めた。
「これが黙っていられるか!真実を告げろとは言わないが、何が嘘なのかくらいは教えろ!」
「馬鹿か、おまえ!そんな事言ったら、嘘までついた意味ないじゃん!」
「開き直りか?進藤。人を騙しておいて」
「誰でも言えないことの一つや二つあるだろがっ!」
「だから良いと言うのか?キミはっ」
「そうじゃない、そうじゃないけどさ・・・」
「碁を始めたのは、ボクとの対局の後だって?いったい、どこからどこまでが嘘なんだ!」
「そんなにねぇよっ!ああっ、もう!!」
たまらなくなったヒカルは、髪をかきむしり深呼吸すると、アキラの目をひたと見つめた。

「いつか言う。そのいつかまでは二度と言わねぇ。いいか?」
それは、今、一度言うという事だろうか?アキラは息を飲み、こくりと頷く。
「何が、までは駄目だ。でも、いつ、は言える。オレがおまえに嘘をついたのは一度、いや一つ、じゃないし、うん、まぁ、短い一回の会話の中だけだ。他にはない」
真剣な目で、アキラはまた頷いた。
「始めてあった日、オレが口にした言葉に、一つの嘘もない」
「でも」
「本当だ。嘘は言ってない。二度目の時もそう。嘘はない」
では、いつ?アキラの頭に浮かんだのは、浮かんだのは・・・。

「中一の・・・夏の終わりの日、覚えてるか?」
ドクン!もう胸は早鐘のようで、ヒカルにも聞こえるのでないかと思えるほどで、アキラは思わず右手で押さえた。そしてヒカルも、自分の声が震えていないのが不思議で、そっと右手を口元へ運ぶ。
「忘れるはずがない」
「だよな、うん。そう。あの日、オレが言ったこと・・・」
「嘘?」
「うん」
「全部?」
「どうだろ?一言一句覚えてる訳じゃないから」
「ボクは覚えているよ」
「言うなよ。詳しく説明なんかしないぞ」
一時の沈黙。
「・・・他にはない?」
「ない」
ヒカルの返事は即答だった。

「じゃ、やっぱり、キミじゃないんだね」
何が、とは言わない。そんなこと、言わなくても二人にはわかるから。
「うん、違う。オレじゃない。それから、そうだな、言ったこと全部が嘘じゃない。だって、最後の台詞は本当になったろ?」

最後の台詞?確か・・・
 ― オレの幻影なんか追ってるとホントのオレにいつか足元すくわれるぞ! ―

その内容に似合わず、ヒカルはとても素直な微笑を見せた。
― ほらな、言った通りだろ?って、悪戯っぽく笑ってくれればいいのに。そんな顔をするから、ボクはどうしたらいいのかよくわからなくなるんだ ―
アキラは俯きため息をついたが、ヒカルの目には笑ったように映る。
「・・・もう、すくったつもりなの?」
「じゃあさ」
ヒカルが言いかけ言葉を切る。目が合うと、アキラも同じことを考えていることがわかり、嬉しくなった。合図なんてなくても、声が揃う。 

「「“いつかと言わず今から打とうか?”」」

暗いトンネルから抜け出したように、二人は明るく笑った。

* * * * *

今日対局のあった棋士たちは、自分達の見聞きしたことを無かったこととして封印しようと誓いあっていた。このような騒ぎになったのだから、彼らはまたそれほど親しくなどない振りをするだろう。だからそれに乗ってやとう、と。ただ、二人は否定したが傍目に非常に睦まじく見えたことは間違いなく、もし彼らが互いを求めたら力になることも誓いあっていた。
そう、所詮彼らも碁界という大きな家族にあって、子供がかわいくて仕方のないのばかな親なのであった。

「約束したのに〜!塔矢君、どこ行っちゃったんだよ!」
編集部では時間になっても現れないアキラに、アポを取り忘れ当日の打ちかけ時に無理やり約束を取り付けた事など棚に上げた古瀬村が怒りを回りにぶちまけていた。誰も同情しなかったのは言うまでも無い。

++ 4 ++
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++ color of the shine ++