対局を中押し勝ちで終え立ち上がる。さっと視線を走らせると、そこに求める者の背中があった。
― 待たせずにすんだ ―
ちょっとほっとして、いつもの場所へ向かうため対局場を出ようとしたとき、場にそぐわない大きな声で呼び止められた。
「し〜んどっ!」
今日は木曜日。高段者の手合い日だというのに、呼びかけはまるでも高校の同級生とでもいった感じで、進学しなかったヒカルの胸に懐かしさが込み上げて来る。しかし、声の主は中学時代の同級生ではなく、院生時代の仲間でもなく、歳の近い棋士ですらなかった。
「・・・・倉田さーん」
その人となりを少しは知っているつもりだったが、このような場所で・・・とヒカルは苦笑する。
「えっなになに?もう終わったのー?まだ早いよね、時間大丈夫だよね?打とうよ、進藤」
意外な申し出に目を大きく見開いて返事をできないでいるヒカルに、対局中にもかかわらず棋士の視線が集まるが、本人にそれに気付く余裕はない。
「北斗杯、絶対、ぜ〜ったい負けんなよ〜!」
特に韓国!と息巻く倉田は、やはりヒカルにとっては扱いやすい。
「もしかして・・・安 太善?」
「あんな奴の名前なんか出すな〜!!」
これだけ騒いでよく誰も何も言わないものだと変な感心をしているヒカルに対する好奇心こそが、この騒ぎを容認しているのだということを倉田は知っている。
そして、今注目のこの 『若手 ぽっと出 無礼千万 大御所達のお気に入り もしかして天才?』 棋士に確認したいことのある倉田は、遠慮の必要のない場面で遠慮をするような男ではなかった。
「いーよね?うんうん、さー行こー」
勝手に話を進められ、ヒカルは慌てて頭を振る。
「駄目だよ、オレ用があるんだ」
「倉田七段が打ってやるって言ってるのにぃ?!」
相変わらずの反応に、思わずヒカルから笑みがこぼれた。
「何笑ってんだよ。ほらほら、打つぞ〜」
「だからぁ、オレ駄目なんだって」
「オレに誘われて断る初段なんていないぞ!」
「ここにいるよ。っていうか、ホント約束があるんだってば」
「約束〜?」
倉田が疑わしいとでも言いたげに、しかめた顔でヒカルの目を覗き込む。
「残念だなぁ、折角倉田さんが誘ってくれてるのにぃ」
ピクリと反応する眉を見て、ヒカルがたたみかけた。
「めったに無いよな、こんなこと!あー残念」
「・・・わかっていればいいんだっ。進藤って・・・なあんか変、なんだよなぁ」
今度はヒカルの眉がピクリと反応した。
― く、倉田さんには言われたくねー! ―
しかし、ここで返すと折角諦めてくれた(ように見える)のに、寝た子を起こしてしまうかもしれない。この後の予定を考え、ぐっと奥歯を噛み締めやり過ごす。それがどうも倉田には笑みと捉えられたようで、
「それって余裕の微笑みってやつ?進藤、変わったな」
なんて言われてしまった。
確かに、自分は変わったかもしれない。いや、変わったのだろう、とヒカルは思う。
佐為を亡くし、胸に開いた穴の大きさに翻弄された。自分の中に彼を見つけ出してからは、思いを継ぎ、真っ直ぐに碁を見つめ、しかしその重さに焦り・・・。北斗杯の予選は勝ち抜いたものの喪失感は拭えず、盤上の石はしきりに何かが足りていないと自分に訴えかける。それが何なのか、力か、覚悟か?いまだ分からずにいる。
それでも、強くなっているとは思う。強くありたいと願う。
だが、倉田と打ったのは佐為がいた時とはいえ自分自身。しかも一色碁一局だけなのだ。ヒカルが大きく変わったその後は打っていない。それにそれほど接触のある人物でもない。
そんな倉田に“変わった”と言われるほど、見た目にもわかるほど自分は変わったのだろうか?
引退してなお碁界の中心にいる、現在最強の棋士に気にされ、碁界の大御所が目にかけ、今油の乗り切った次世代のトップと目される二冠棋士にチェックされ、やがてそれらをも乗り越えていくつもりの自分が動向を探る。ヒカルはある意味若手一番の注目棋士であるのに、そんなことには全く気付いた様子が無い。
― “変わった”とわかるのは、注目していたからなんだぞ、進藤 ―
でも本人に伝えるのはなんだか悔しくて、自分や他のコイツを気にしている棋士なんて目に入っていないその様子に、素直に口に出してなんてやれなくて、倉田は口を“へ”の字に曲げて突き出した。
「とりあえずさ、出ようよ、ココ」
ヒカルが促すと渋々といった様子で倉田の足が出口を向いた。
「進藤」
突然背中から呼ばれて驚いたのは、今日二度目だからでも、声が大きかったからでもない。いや、むしろ周りを気遣い小さかったと言っていいだろう。しかし、澄んだ通りのよい声は、その意図から外れ、対局場全ての棋士の耳に届いた。
「塔矢?・・・おまえまだ」
そう、アキラの対局はまだ終わっていない。なのに。立ち上がり、ヒカルの前まで歩いて来た。
「・・・倉田さん、すみません。少しお借りしていいですか?」
きょとんとした倉田とヒカルだったが、アキラの手が伸ばされた先を見て、それが“倉田の時間”ではなく、“倉田が話している相手”であることに気付く。
「いーけど!オレも今振られたばっかりだよ。聞いてたと思うケドね」
倉田は故意に“聞こえていた”とは言わなかった。
そう、聞いていたのは明らかで、声を掛けるタイミングなんて憎らしいくらいだ。
ヒカルが注目を集める理由の一つ、それも大きな理由が彼、塔矢アキラだ。アキラがライバル視している、という噂がまことしやかに囁かれているが、その現場を目にしたことのある人は少ない。いや、二人の存在がこれだけ大きなものになっている今、少なすぎるといっても過言ではない。なにしろ接点がない。
それはもう不自然と言えるほどで、白スーツの二冠棋士に真相を確かめようとしたら 『自分で確かめるんだな、すぐに上がってくるだろう』 などと言われてしまい、チェックしてるって本当だったんだ、なんて他の噂を肯定する返事をもらう始末だ。
「ありがとうございます。・・・進藤?」
アキラはそっとヒカルの肘に触れ、部屋の外へと促すが、ヒカルのほうはすっかり不機嫌顔だ。
「えっと、ゴメン」
「何謝ってんだ、おまえ。言ってみろ、絶対違うから」
妙に強気なヒカルに、アキラは何気なく時計を気にする素振りで時間の無いことを知らせてくる。
ヒカルはフーっと息を吐き出し、アキラの促した方へ先に向かった。怒っているのだ。素直に話を聞こうとするのは対局中であるからで、そうでなかったら声も掛けさせないであろう相手に、アキラは苦笑した。
― わかっていたのに、ゴメン。今日は森下先生も白川さんもいらしているのにね。うん、二人ともこちらを見ているよ。白川さんなんて、首だけではなく体の向きまで変えている。・・・なんだか他の方々もこちらを窺っているような・・・? ―
碁界に長いアキラは、他人の目に対して鈍いところがあった。注目されてあたりまえ、視線があって当然。そんな生活をしてきて、慣らされてしまっているのだ。
そして倉田は今のたった一言二言のやり取りとその様子で、二人が本当にライバルであることを感じ取った。対等な者同士の間で交わされる空気。二人の間にあるのはそういったもので、噂は本当だったし、気になって自分で調べてみたこともやっぱり本当だったんだと、幾分気の抜けた頭で考えていた。
既に対局を終えた棋士、相手の長考に一息入れている棋士、未だ見えぬ活路を別の視点から見出すべく座を外した棋士・・・対局場の外には、思っていたより多くの棋士がいた。
「で、なんだよ」
機嫌は直ってはいないが話を早く進めたい。ヒカルは手を伸ばして後からついて来たアキラを引き寄せる。
「今日の予定なんだけれど」
「何か入ったんだ?」
苦虫を噛み潰したような顔でアキラが頷く。
「取材なんだ、八時から出版部で。打ちかけの時言われて」
「ずいぶん急なんだな」
「新しい人・・・古瀬村さんって言ったかな?・・・泣き付かれたよ」
二人は他の人に拾われないよう、声をできる限りおとしている。そのため自然立ち位置は近くなり、当然顔も近い。声を拾おうとしたら耳を寄せるしかないのだから。
近すぎず、遠すぎず、大きすぎずに小さすぎない。そんな微妙なラインを探るように、二人のセンサーが互いを意識しているのがわかる。
しかし視線だけは別で、そのほぼ全てで互いを感じながらも、目は何を見るともなく彷徨っている。
「八時か。おまえもっと早く終わりそうじゃん。なんか半端だなぁ」
「悪いけれど、少し待っていてくれないだろうか?」
「終局まで?取材が終わるまで?」
「・・・終局まで。取材は・・・詳しい話を聞いていないんだ。すぐ終わるのかどうかもわからないから」
「フーン。で、さっきの理由なんだけど」
「返事は後なの?」
彷徨っていた視線をキッとアキラに向けて、
「当たり前!さっさと言え!」
今まで抑えていた分怒りが溢れ出してきたかのようなヒカルの様子に、アキラはもちろん、その場に居合わせた全ての棋士が息を飲んだ。
「ボクたちがよく打っていることを知られたく」
そこまで言ったアキラの両頬を、ヒカルの手がパチンとよい音をさせながら挟んだ。
「違う!そんな個人的なことじゃなくて!おまえ、馬鹿にするのも大概にしろ!」
「馬鹿になんて!」
「してるだろーが、今!」
急に大声で喧嘩を始めたように見えなくもない二人に、居合わせた棋士たちはやるせない気持ちになっていた。
なにしろ、近いのだ、立ち位置が。おまけにヒカルの両手がアキラの頬を包んで・・・そう、包んでいるように・・・見える。これは喧嘩、なんだろうか?もしかしたら、その前に“痴話”とか付いたり・・・しないよな?
二人は今ではしっかり互いを見ているため、全センサーを互いに向けてしまっている。
もちろんみんなのやるせなさになんて気付くこともできず、次の言葉を用意することもできず、アキラは仕方なく自分がヒカルに声を掛けたところからを頭の中で再生させ、怒らせた理由を検討し始めた。
きつい視線が急にはっと見開き、揺らいで、ヒカルは相手が気付いたことを感じた。
「やっとわかったのか?オレの時はすげー怒ったくせに」
既に声に怒りはない。気付くことが大事なのだと知っている。
「・・・ゴメン」
「オレに言ってどーするよ」
「そうだね、でも、そんなつもりはなかったんだ」
「わかってるよ」
「それが恐いよ、本当にそんなつもりじゃなかったんだ」
アキラにとって碁とは、自分の全てをかけ、真っ直ぐに向かい合うべきものだ。
それを、対局の途中で相手の棋士を放り出し、棋戦の予選を蔑ろにした。
― あの時気になったのは、次の一手ではなく、キミのこと・・・ ―
席を離れたのは一息つきたかったからではない。ヒカルに声をかけたのは、対局に心が向かっていなかったからだ。
これだけの事をして、そのつもりはない、などを平然と言う。馬鹿にしているつもりなどない、と気付きもせずに平然と。
「悪かったな」
「え?」
一瞬ヒカルが何を言ったのか理解できず、思わずアキラは聞き返してしまった。謝った?進藤が?なぜ?
「おまえがさ、大多数の人間に”塔矢アキラらしい”と思われている範囲を超える行動をとるときは、大抵オレが原因なんだ」
何気ないことのようにさらりと言うヒカルに、アキラは絶句してしまう。
「だから、今日のこともオレがいなければ起こらなかっただろうし、これからも起こらねぇ。今まで通り毅然としてればいいんだよ、おまえは」
「・・・そう、なのかな?」
「そうだよ。安心しろって。あ、だけど、オレが傍にいる時は用心しろよ。オレはさ、激情家で誰よりも熱い塔矢アキラを知ってるし、それがおまえだって思うけれど、世間一般では受け入れられない意見らしいから」
先ほどまでの不機嫌顔とは打って変わり、不戦敗から抜け出してから見せるようになった穏やかな笑顔で、柔らかな声色で。
「んで、さっきの返事はOK!」
もう完敗だ、とアキラは笑った。
最初は小さい微笑みだったものが、だんだんと波にさらわれるように大きくなり、しまいにはおなかを抱え、頬が痛くなるほど笑った。