2.


 『――シオン?』
 「それ」が何かは問わぬまま、潜めた声で名だけを呼ばう。そうして静かにこちらを見つめたその人の身体を、それでも手離したのは何故だったのだろう。
 薄暗い教皇宮の、さらに深奥に配置された個室で独り、闇を見つめてシオンは思う。手元の文机には書き散らされた羊皮紙の山が、目を悪くするような灯火の下で、ほのかな陰影を躍らせていた。先程まで袖を通していた正式の法衣は、教皇宮に戻った時点で、既に脱いで替えてある。だが、上等な布地に焚きしめられていた独特の薫香は、シオンの髪にも身体にも深々と染み付いて、今なおその名残を留めていた。少し離れた背後の台座の上には、夜に馴染んだ黄金の仮面。相変わらず塵埃ひとつ無い輝きで、おぼろな光を反射している。最近では装着の機会もめっきり減っていたが、その威光に衰えの色は全く無い。
 ――やはり、あの格好のままで行くべきではなかったのだろうか。
 シオンは静かに息をつく。ペン先の走る音が止み、羊皮紙を埋め尽くす文字列の末尾には、出過ぎたインクがわずかな滲みを作った。
 もちろん、事前にいささかも逡巡しなかった訳ではない。だが、昔ジャミールでムウの修行を見ていた時には、何度も正装のままで会いに行っていたにもかかわらず、あれらが姿を見せたことは一度もなかった。そればかりかこの教皇宮の中にあってさえ、影たちがああもはっきりと姿を現したことは、自分が知る限り、絶えて無いというのに。そう、だから恐らくは――表面的に見るならば、変わったのは自分たちの関係の方なのだろう。
 書斎と寝室を兼ねた石造りの古い部屋に、澱のように凝るよどんだ空気。その重苦しさを払うように、シオンは癖のある長髪をかき上げる。染み付いた香りの残滓が、ほのかに辺りに広がった。あの時、人の眼には見えぬはずの黒影がムウの眼に映っていたかどうかに関しては、シオンは露ほども疑っていない。答えなど判り切っているからだ。たとえこの世の存在ならずとも、自分に見えるものならば、あの碧の瞳に見えないものはない。
 シオンはじっと、記憶を辿る。渦巻き流れる闇の中、この名をそっと呼んでくれた、静かな声音を思い出す。そうして、その眼を思い出す。大丈夫ですかと、まなざしだけで訊いて来た。まるで気遣うように、こちらを見上げて。
 天を仰いで瞳を閉じる。我知らず、溜息が漏れた。
 「……馬鹿か。おまえは」
 心配されるべきは、誰の方だと思っているのか。
 ざわり。胸中の声に反応するかのように、背後の空間が音を立ててさざめき揺れる。だが、シオンは決して振り向かない。そこにあるものが何なのかなど、243年も前から知っている。
 ゆっくりと開いた瞼の縁へ、忍び寄るのは夜の陰。嘲笑にも似た羽音の渦が、狭い室内を埋め尽くした。片隅の暗がりを睨み付けたシオンの視界を、ひときわ濃い色の闇が幾つも掠め飛ぶ。案じているのか、と影たちは哂った。今さら遅い、と嘲りながら。
 ――愚か者めが。雛が長ずれば危害を加えられぬとでも思ったか。
 ――畢竟、弟子など取りおった時から気に食わぬとは思っていたのだ。
 ――黄金が育てば女神の威光、それ故見逃してやっていたと言うに。
 この仮面の意味くらい知っていよう。243年前のあの時から、おまえは神の代行者なのだ。すべての人間から平等な場所に立ち、いかなる私情も排除するのがその使命。よもや知らぬとは、言わすまい。
 影たちの声が唱和する。シオンは眉ひとつ動かさない。頭の中に直接響く言葉の群は、一刻ごとに強さを増して、やがては耳を聾する程の轟音と化した。
 次なる黄金聖闘士の育成を超えた。仮面が定めた限度を超えた。おまえのそれは罪だ――それは罪だ。
 「……黙れ」
 思考をかき乱す雑音を払い除け、シオンはゆっくりと言葉を発する。辺り一帯で破鐘のような声が、嘲笑うようにわっと鳴いた。――現を抜かした、お前が悪い。それは罪だ。疑うことなく、それは罪だ。このまま無事では、済まさない。
 シオンは無言で、飛び交う黒影を睨み据える。いくら声高に脅されようとも、今のムウはもう、子供ではない。この程度のものたちにたとえ何をされようと、もはや押しも押されもせぬ黄金聖闘士、自分の身くらい守れるはずだ。それにこの影たちも結局は、聖地の理が生んだ、神の下僕。仮にも聖域の黄金聖闘士を、主の許可も得ることなしに、単独でどうこう出来るとは思えない。……心を乱す、必要は無い。それこそ相手の思う壺なのだから。
 そこまで考えを巡らせた時。ふと、胸に引っかかった。
 ――待て。それならば自分は、一体何を恐れている?
 影の存在自体が怖ろしい訳では、決してない。その人の身が危ないと、本気で思っている訳でもないらしい。しかしそうであるならば自分は何故あの時、突如現れたあれらの存在に、ムウの身体を手離して去った?
 淀んだ空気の中、乱れた羽音が耳朶を打つ。教皇宮の闇に同化した、濡れ羽色の醜い躰。思いを巡らす間にも引っ切り無しに、けたたましい嘲笑が降りかかる。おまえはあの者に現を抜かした。仮面が定めた禁忌を犯した。それは罪だ、まごうことなき背徳だ。
 ああ、……そうか。
 纏い付くような闇を見つめ、シオンはうっすらと口元で笑う。漆黒の夜の襞に、はたりはたりと翻る翼。私はただ、かの人に、これを見られたくなかっただけなのだ。そして、このような忌まわしい存在を背負った、この身を。
 鳴き交わす、幾千もの声がこだまする。それは、罪だ。おまえが犯した、それは、罪だ。シオンは闇に向かって顔を上げる。そうして鋭い眼差しで、傲然と笑む。
 そんなことは、知っている。……だが、だとしたら何だと言うのだ。
 影たちは一瞬沈黙した。嵐の前の、静けさのように。数拍を置いて、狂ったような嘲笑が静寂を切り裂く。
 ――不届き者。己の業の深さを知れ。
 ――傲慢な。他者をも巻き込んで良いと言うか。
 だがシオンは、怯まない。たとえ奴らの言葉が事実でも、それが正しいとは、思わないから。
 緩やかに、記憶をたぐる。夜の中でこちらを見上げる、その人の眼を思い出す。すべてを愛する神の愛を、美しいと聖書は言った。しかし現実の世界で現実に人を愛するということは、他の誰かのためにも使われ得た可能性を、その人のために捨てることだ。ならば何ものをも犠牲にしない愛などは、誰も愛していないのと同じだろう。……ああ、無論、判っている。他者との愛を望むことは、己の運命に否応無しに、他者を巻き込んでしまうことだ。だからきっとその意味では、愛とは迷惑への欲求に他ならない。だが、それが何だと言うのだろう。巻き込まれてもかまわないと、叫ぶ人がそこにいるのに。
 思念が絡まる闇の中。それは罪だと、影たちが喚く。
 ……つくづく、五月蝿い。
 問答は、既に無用。シオンは背後を振り返り、鋭く手首を一閃させた。闇の中に銀のペン先が吸い込まれ、砕けるような金属音が、石壁の室内に高く響いた。
 「いい加減に、喧しいわ」
 呟くように、シオンは毒づく。影たちの姿は跡形も無く消えていた。しかし嘲るようなその笑い声は、冷たい個室にいつまでも残っていた。



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Written by T'ika /〜2005.2.27