3.


 聖域に戻ってから、二日目の夜が更けた。昨日よりもいくらか丸みを帯びた月影が西の地平に姿を隠し、人々も寝静まった、丑三つ時。
 控えめなノックの音が、教皇の私室の静寂を揺らした。
 「――珍しいな」
 奥まった個室を独り訪れたその人の姿に、シオンは心もち眼を見張る。いつもは教皇宮を訪れることはおろか、近辺に足を向けることさえ稀だと言うのに。
 お邪魔でしたか、とムウは言って、少しだけ様子を伺うようにシオンを見上げた。
 「今夜までに終わらせる仕事だと言っていたから、もうそろそろ大丈夫かと思ったのですが」
 いや、と微かにまなざしを和らげて、シオンはムウを中へ招き入れる。こちらを見上げた瞳の奥の真摯さに、感付かないほど馬鹿ではない。
 膨大な書籍に埋もれた部屋をざっと見回して、片隅の寝具を視線で指し示す。ムウは遠慮がちにその上に腰掛けた。教皇の私室というその性格上、教皇宮の深奥に位置するこの個室には、誰の訪れも無いのが常である。おそらくはそのせいであろう、他者の不在に慣れきった空間を歪ませて、視界に映ったその人の居姿は、奇妙なくらい鮮やかに見えた。
 ここまで来るのは面倒だったのではないか、と訊きながら、シオンはムウの傍らに腰を下ろす。
 「警護の雑兵がいただろう」
 「いいえ。あなたが忘れ物をして行ったと言ったら、すんなり通してくれましたよ」
 忘れ物、ねえ。シオンは思わず微苦笑する。……まあ、あながち嘘でも無いわけだが。この場合、体よく騙された形の雑兵を叱責するのも、さすがに可哀想というものだろう。
 「申し訳ありません、シオン。良くないことだと判ってはいたのですが」
 ……どうにも、あなたに会いたくて。
 そう呟くと、ムウはほんの少しだけ眼を伏せた。ほのかな灯火の光を受けて、その横顔に陰影が踊る。微かに揺れる、長い睫毛。ほんのちょっとの間だけ、顔を見るだけで良いですからと、冷静を装った声が言う。しかしいくら抑えようとしていても、奥深い感情の揺らめきは隠しようも無い。匂い立つような、そのかたち。……ああ、何て。
 シオンは黙って手を伸べる。衣擦れの音が、二人の間でさらりと鳴った。火照り始めた胸の真芯で、衝き上げるように高まる鼓動。シオンはその人の肩を抱き寄せる。そうして向かい合った唇をそっと塞ぐ。腕の中、ムウはわずかに両眼を見開いた。教皇宮でそんなことをするのは、初めてだったからだろう。しかしそれも、ほんの一瞬。ゆるやかに瞳を閉じると、心得たように微笑んで、そのままシオンの重みを受け入れた。
 身体と身体を重ねながら、柔らかな寝具に身を沈める。回した腕に力を込めると、その人は震えるような吐息を漏らした。恍惚に潤んだ翡翠の瞳が、薄暗い石造りの天井を映し出す。――そのただ中を、ひときわ深い闇色が横切って舞った。
 仮面の奥から滑り出る、おぞめくような影たちの声。シオンの背後で羽ばたきは、たちまち虚空を埋め尽くす。
 ――何と、愚かな。
 ――そのような背徳が、許されるとでも思ってか。
 ――このまま無事では、済まさぬぞ。
 幾百千の割れ声が鳴き喚く。渦巻き流れる闇を背に、シオンはゆっくりとムウを見つめる。艶めいた様子でこちらを見返す、その翡翠の瞳に映っているのは、おびただしい量の黒い影。
 「ムウ。……あれが、視えているのだろう?」
 「……はい」
 「あれの声も、聞こえているな?」
 「ええ」
 わずかに細められたシオンの瞳の、その表情は、窺い知れない。それでもムウは師の視線を、精一杯に受け止める。その顔を見据え、シオンは静かに問いかける。
 「……思い留まっておこうと、思うか?」
 穏やかな低音で紡がれたその言葉。しかしムウは、強い意志を潜ませた瞳で、艶やかにゆっくりと微笑んだ。
 「――まさか」
 いかなる者に対しても、決して怯まぬその強さ。シオンは視線を和らげて、いとしむように口元を緩める。――そしてそのただ一人の例外になれたことを、光栄に思う。
 起こした半身を再び沈め、柔らかく濡れた唇を、もう一度塞ぐ。今度はずっと、深いところまで。白く滑らかな喉の奥から、甘い声が微かに漏れた。腰に、背中に、腕を回す。絡み合った身体の熱さに、騒ぎ立てる影の声さえ遠ざかる。甘い吐息を聴きながら、這わせた指を何度も濡らす。
 いったいどこまで堕ちれば、気が済むのだろう。
 シオンは思って、そうして微笑む。
 ……たとえ地に堕ち泥にまみれても、それが醜いとは思わない。



 こごるようだった闇の色が、心なしか薄くなった。窓の無いこの部屋にさえも、洩れ射してくる微かな陽光はあるのだろう。もう間もなく、夜も明ける。
 シオンは傍らの温もりへと手を伸ばす。横たわった身体のあちこちに、うっすらと、紅い跡。何度も求め合った時間の名残を、優しくそっと、指でなぞる。
 と、眠っていたとばかり思っていたその人が、閉じていた眼をふいに開けた。
 「……起こしてしまったか?」
 静かに降って来た言の葉に、ムウはゆっくりと首を振る。そのまま両手で縋リ付くように、シオンの方へと身体を寄せた。
 ……あなたはこんな場所で、230年も過ごしたのですね。
 吐息ともささやきともつかない声で、ムウはぽつりと呟いた。殺され続けたその人の『人間』を思いながら。
 「こんな時に、何を考えていたのかと思えば」
 幾分呆れたようにそう言うと、シオンはムウの額に、ついばむような口付けを落とす。実際、おまえのおかげでどれだけ楽になったか知れないというのに。ムウは黙ってシオンの手を取ると、ほのかに熱を持った唇で、浅い口付けを丁寧に返した。
 「……あれの正体を、聞かぬのだな」
 ちらりと口の端に笑みを覗かせて、シオンは一瞬だけ背後の方へと視線を投げる。刻一刻と明けて行く夜に、その漆黒の領域も、随分と部屋の片隅まで追いやられていた。
 「だいたい見当はついていますから」
 ほう、と眼を見張った師に向けて、ムウは口元だけで微笑んでみせる。
 「コロニスの行状を逐一アポロンに言い立てた挙句、そのご不興を買った生き物が、いつかあなたの教えてくれた昔話に、いたでしょう」
 表面的には穏やかな、その口調。しかしシオンを見上げた瞳の色は、笑っているとは言いがたい。
 「……もっとも、あそこでしつこく騒いでいるあれのあるじは、アポロンではないのでしょうけど」
 「そこまで予想がついているのならば別にいいが――」
 判っていますよ、とムウは言う。突き詰めてしまえばその存在に、あなたは仕えているわけなのでしょう?
 「それを言うなら、おまえもだろう」
 「それはあなたが仕えた神だからですよ」
 思わず絶句するシオンに、ムウは笑う。
 「大丈夫、判っています――女神アテナは、人であることの価値を捨てない神だから」
 ……だが、もしも、そうでなかったとしたら。
 視線の先に鋭いものを閃かせ、ムウはきっぱりと言い放つ。
 「たとえそれが何者であれ、あなたが人であることを、禁じる神など滅びればいいのです」
 その背の向こうの片隅の闇で。
 ぱちんと大きな音を立てて、影たちが跡形も無く消え去った。



《END》

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物凄い度胸ですね。この人たち。ていうか私。
しょっぱなからすみません……変で……

ええと、ある時たまたま眼にして「素敵だ!」と思った某維新志士作の都都逸に、
ミーシャの「冬のエト○ンジェ」を足して2で割った結果、こうなりました。
ちなみにその都都逸は、「三千世界の鴉を殺し ぬしと朝寝がしてみたい」。
拙稿では鴉の解釈が、相当ぶっ飛んだ事になってますが。


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Written by T'ika /〜2005.2.28