鴉


 1.


 蝶番を微かに軋ませ、淀みない動きで戸が開いた。
 弓張月もとうに沈み、静まり返った神域の夜。思いがけない出迎えに、シオンはゆっくりと瞬きをした。室内から漏れ出したささやかな灯火の跡が、漆黒の暗闇へと細く長く伸びて行く。ノックをしようと伸ばしかけていた右手は、簡素な板戸にはまだ触れもしないまま、はるか手前の中空にあるというのに。
 ――この、タイミング。
 よもや一晩中まんじりともせずに、待ちかまえていたのではあるまいが。相変わらず勘の鋭いことだ、とシオンは内心で舌を巻く。しかしまあ、この聖域で、この家に無断で押し入るような命知らずの輩もおるまいに――はなから下ろす必要の無い錠など下ろさずにおけば、わざわざ迎えに出なくても良いものを。
 思わずうっすらと口角を上げつつも、口に出して言うような野暮はしない。直接室内に瞬間移動できる癖に、敢えて家の外へと降り立つ自分にも、同じ矛盾があることを知っているからだ。
 無言のままでゆっくりと、シオンは光の方角へ向き直る。静けさの中で絡み合った二つの視線の間に、どこか共犯者めいた微笑みが交わされた。距離にしてわずか、半歩先。その人の涼やかな声が秘め事のように、おかえりなさいとささやきかける。まっすぐにこちらを見上げる、芯の通った碧の瞳。凛と伸びた、しなやかな背筋。媚びる色などは何処にも無い。にもかかわらず、戸口に立つムウの雰囲気からははっきりと、シオンの前でしか見せないような華やぎと色香が滲み出ていた。
 「眠っていると、思ったが」
 心にも無いことを言って、シオンは緩やかに笑って見せる。胸の深くに根差した想いが、鼓動のひと打ちごとに、確実に熱量を増して行くのを感じながら。それでも、扉を開いて迎えてくれるその姿が見たかったとは、決して言わない。それは、お互い様のこと。
 「もう今日も、帰らないのかと思いましたよ」
 ふわりと視線を和らげて、ムウは静かに片手を伸ばした。待ち侘びていた、とは決して言わない。
 「……正装なんですね、珍しく」
 白い指が、触れるか触れないかの瀬戸際で、シオンの法衣の袖をついと掠める。風さえ凪いだ夜闇に、古を感じさせる薫香が、ほんの一筋流れて消えた。仄かな明かりを受けて茫漠と浮かび上がるのは、常にも増して重厚な仕立ての教皇の礼装。法衣を飾る装飾品も、上品な簡素さこそ保ってはいるが、いつもの略式のものに比べれば、仰々しいの部類に入る。
 「今回の相手は少々厄介だったのでな。こちらの方が、何かとやりやすかったのだ」
 身に纏ったものを目線の先で指し示し、シオンは小さく苦笑を閃かせる。小脇に抱えた黄金の仮面が、暗がりの中で有翼の怪物像を形取りながら、重たく鈍い光を放った。そりゃあそんな格好のあなたに凄まれたら、どんな無理な交渉だって立ちどころにまとまるでしょうけど。冗談めかして、ムウは笑う。けれどもその瞳はどこか上の空で、まるで何かに引き寄せられているかのように、じっとシオンを見つめていた。
 「何だか、昔を思い出しますね――あなたのその姿を目にするのは、本当に久しぶりだ」
 己に呟くような口調で言って、ムウはかすかに瞼を細める。
 「……すまないな、ムウ。替えて来る暇が、無かった」
 神域に特有の張りつめたような静寂の中、抑えた低音でシオンは囁く。深いまなざしの奥底が、少しく真顔になっていた。
 「すまないなどと――あなたが謝ることではないでしょう」
 さらりと答えて、ムウは微笑む。揺るぎない、その瞳。しかしきらびやかな法衣や黄金の仮面を、本当は心密かに苦手にしているその人のことを、シオンは誰よりも深く知っていた。悪夢のような13年間の記憶と、分かちがたく結びついた半神の装束。身に付ける者の素顔を消し去り、すべての真実を覆い隠し続けた――
 そう、できることならば略式の法衣に着替えるか、せめて仮面くらいは教皇宮に置いて来たかったのだけれども。5日ぶりに戻れた聖域にも、やるべき仕事は山積している。逢瀬の暇さえままならないこの頃とあっては、わずかな道草の時間も、惜しい。今を逃せばまた幾日かは、忍び会う機会も無いのだから。
 内心ずっと気にしていたのだろう。さり気ない調子で、ムウが訊く。
 「そのご様子では、今夜もこれから教皇宮に泊まりですか?」
 「ああ。明日の夜までに終わらせなければならない残務処理があるのでな」
 「……あまり無理はしないでくださいよ。お体に障ります」
 口に出したのは、ただそれだけ。しかし平気だという顔をして立ってはいても、眼差しの奥には確かな本音が、一瞬ちらりと交錯する。隠し切れない、感情の色。シオンは黙って右腕を伸ばす。そうして結局最後まで法衣の表面に触れては来なかった愛弟子の手を、強い力で静かに捕らえる。ムウは意表を突かれた格好で、わずかに両眼を見開いた。しかしやがてほんのりと目元を染めると、シオンの腕に引かれるままに、逆らうことなく身体を寄せた。密かに期待していたものもあったのだろう、触れ合った箇所が少しだけ熱い。形の良い顎に手を当てて促すと、すっかり艶めいた碧の瞳が、心奪われたようにこちらを見上げた。
 からかうようににやりと笑って、シオンは悠然と問いかける。
 「どうした。見惚れてでも、いるのか?」
 「……誰が、ですか」
 威勢のいいのは、口調だけ。わずかな明かりの中でさえも、白い頬に朱が差すのがはっきりとわかる。さっきまであれほど揺るがずにいたその瞳が面白いように崩れて行くのを、シオンは憎からぬ思いで見つめた。……意外に素直なのだから、こういうところは。
 戸口から漏れ出るささやかな光を受けて、一段と深まった夜の闇。互いの面影のみを映しあった、まなざしとまなざしが交差する。先に境界線を踏み越えたのは、ムウだった。諦めたように微笑んで、その言葉を口にする。
 「シオン、……会いたかった」
 どこか泣き笑いにも似た、その表情。シオンは軽い、目眩を覚える。強さと弱さを一杯に抱え込みながら、それでも泥にまみれた両脚で、苛酷な世界に凛と立つ。その輪郭がたまらなく美しく見えるようになったのは、一体いつの頃からだったろう。今となってはもはや、わかりようもないけれども。
 背中に回した右腕に力を込める。左の腕には、黄金の仮面。間近に佇む柔らかな唇に、シオンはゆっくりと唇を重ねた。身を震わせたムウの腰を引き寄せて、さらに深く、口付ける。衣擦れの音だけがさやさやと、二人の隙間に絡みついた。
 ――と、その時。
 ぱさり。
 どこか遠くで、鳥の羽ばたくような音がした。……否、気配の在処は意外に、近い。ただ、あまりにも幽かな、まるで実体があるのかないのか判らぬほどの希薄さのために、遠くで聞こえたように思っただけだ。
 ……ぱさり。
 薄皮一枚隔てた背後で、おぞめくように、もう一度。針の先ほどだった違和感が、瞬く間に膨れ上がる。腕の中のムウの身体が、わずかに緊張するのを感じた。細めた瞳の眼光が、思わず知らず、険しくなる。
 次の瞬間。
 眼前の闇がぐらりと揺れた。そう、思ったのもつかの間。圧倒的な存在感で、何百何千もの鳥の羽音が鼓膜を打った。シオンはとっさに鋭い目線で、正面の真空を睨みつける。漆黒の中に、あれがいる。……いや、あれが「在る」、と言うべきか。
 神域の闇がそのままのっぺりと切り取られたかのような、その質感。夜の中に溶け込んだ姿形は殆んど見えないが、そこには二次元のような影の広がりが、まるで生き物のように、おびただしい数量で虚空を乱れ飛んでいた。幾つかの塊が真正面から身体を通り抜けて背後へ消える。しかしそれも、ほんの数瞬。影たちはあっという間に、闇に溶けた。
 そうして程なく周囲を取り囲んだ烏染色の空間がついと流れ、脇に抱えた仮面の奥へ滑り込んで行くのを、シオンは視界の片隅で、ちらと見た。


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Written by T'ika /〜2005.2.24