7.

 「……そう云えば」
 差しかかる螺鈿の木漏れ日を見るともなしに見上げつつ、ふと思いついてオルフェは言った。
 「古い楽器なら、教皇が何かご存知という事は無いでしょうか」
 はらり。
 淀みなく頁を捲っていた修復師の、形の良い指が動きを止める。木陰を通り抜ける優しげな微風に、陽の透けた翠葉がさらさらと鳴った。抱えた本の一冊が腕の隙間からついと滑り落ち、失礼、と呟いてムウは屈み込む。樹下の片隅には薄紫色の追憶花が、星の萼を連ねて咲き濡れている。
 「……どうも済みません、何か仰いましたか」
 言いながら静かに頁を撫でる、唇の端には優雅な微笑。拾い上げた本に傷や汚れの無い事を確かめて、丁寧に埃を払いつつ、平素変わらぬ穏やかな声でムウは訊き返す。ええ、と応じて頷きながら、オルフェは僅かに首を傾げた。書物に集中していた所為だろう、どうやら聞こえていなかったと見える。かくのごとき癖者の黄金聖闘士にも、随分と思いがけぬ隙があったものだ。
 意外な心持ちで考えた、その時である。
 静かな気配にふと気づき、反射的にオルフェは口を噤んだ。鼓膜を揺らす幽かな違和感。在るか無きかの密やかな振動。どこから流れてくるのだろう。耳を凝らさねば聴こえぬほどの、淡く透きとおるその響き音は、遥か夜天の闇に零れ散る、銀水晶のかけらのように凛と澄み切って。
 高く低く、たまゆらに木霊しながら、いずこからともなく音楽が聴こえているのだった。どこか切なく胸を締めつける、儚くも美しい音楽が。
 こんな白昼只中に、空耳でなければ、一体どこから。不審げに考えかけてふと、オルフェはムウを凝視する。……いや、まさか。
 常日頃から冷静沈着で知られる眼前の黄金聖闘士は、相変わらず涼やかな表情のまま、特に変わった様子を見せるでもなく、手にした本の表紙を軽く撫でている。泰然自若。このような仙人じみた人物に、こんな抒情的な音は到底似合わない。どう考えても気のせいだろう。だがその一方で重なりあう鳴響の中心に、この牡羊座が居るのも確かではあった。コン・センティメント、心臓の真芯。顔を上げたムウが翠緑の瞳をゆっくりと瞬かせると、その動きに合わせるように、幾つもの透明な音が零れ落ちてゆく。アフェットゥオーソ。プレガンド。……気のせいではない。
 「どうかしましたか」
 「あ、いや、なんでも」
 はたとオルフェが我に返れば、深く謎めいたムウの双眸が、真正面からこちらを見返していた。途切れたままの言葉の続きを礼儀正しく待ちながら、視線だけ静かに寄越しつけている。辺りを気にかける様子は、特に無い。
 そう、常人に聴こえない音を聴いてしまうのは、オルフェにとっては良くあることだ。
 「……どうもすみません、少しばかり考え事を。ええ、それでつまり、教皇ならば、あれだけの齢と博識ですし、こうした東洋の古楽器も、或いはご存知かと思ったのですが」
 「教皇ですか」
 「はい。試しに伺ってみるのも良いのでは」
 ああ、そうですね、と言葉を切って、ムウは少しだけ遠くを見るような眼差しをした。オルフェも釣られて視線を投げる。ライラックの梢が揺れる庭先からは、深い谷の向こう、微かな岩間の陰に、教皇の間へと続く道が見えている。
 遠い道だ。
 それは恐らく物理的というだけではなく、精神的な意味での遠さでもある。元よりごく一般的な聖闘士の大半にとって、聖域の最高権力者である教皇といえば、完全に雲の上の存在だった。この土地で長らく修行を重ね、白銀聖衣まで得たオルフェですらも、直に言葉を交わした経験などは、両手の指で足りる程である。……しかもその殆んど全てが、今思えば偽物の教皇な訳で。
 だからこそ、でもあるだろう。
 あの冥界との壮絶な聖戦を経た現在、十三年ぶりに玉座に帰還した『真の』教皇の存在感は、尊崇や畏怖を遥かに超えて、今や生ける伝説の領域となっている。ゆめゆめ気安い相手ではないし、容易く話しかけられるような雰囲気でもない。遠く届かぬ、星のようなものだ。しかしながら強大無比な力を誇る黄金聖闘士にとってもそうなのかどうかは、神ならぬ身には判りかねた。
 音楽は、止まない。
 「確かに博識な方ではいらっしゃいますが――」
 涼やかな声が緑陰を揺らす。視界の隅でオルフェがムウを見やれば、光の映り込んだ透明な翡翠のまなざしは天涯万里の彼方を見つめ、果てもなく穏やかに凪いでいる。その深奥は窺いようも無い。
 「聖衣や武具の類なら兎も角、あの方も楽器は専門外でしょうから」
 闇雲に尋ねてご迷惑をおかけする訳にも行きません。そもそも、多忙な方ですし。遠い陽射しに眼をやったまま柔らかく笑う。揺るぎない静寂を湛えていた瞳がほんの少しだけ、眩しさに耐えかねた、ようにも見えた。
 蜃気楼。
 「そんな事より、この六絃ですが」
 口元に笑みを刷いたまま、何の未練もなくあっさりと従前の話題を断ち切ると、ムウは己の近傍をすらりと指した。その動きがあまりにも優雅で確信に満ちているので、思わずオルフェも釣られて見やる。視線の先には遠い昔の異国の楽器が、さざめく光の小紋を纏い、青い木陰に横たわっている。
 「修復の際に音の響きを確認したいので、可能であれば本来の正確な調弦が知りたいのです。何かしら見当は付きませんか」
 ああ成る程と呟いて、オルフェは顎に手を当てた。確かに修復師には必要な情報だろう。しかし。
 「そうですね……やはりこのタイプの撥弦楽器だと、時代や地域によって調律の基礎音も色々と変わってきますから、残念ですが僕の知識では何とも言えません」
 「そうなんですか」
 「ええ。何しろ同じ楽器の中でさえ、奏法によって調弦が全く違うこともあるくらいなので。……お役に立てず申し訳ありません」
 「いいえ、とんでもない。無理なら無理で何とでもしますよ」
 何より、判らないという事が判っただけでも大いに助かりました。どうも有難うございます。目礼と共にさらりと微笑。噂に聞こえた牡羊座は、相変わらず超然としたものである。ふと気がつけば先刻の音楽はいつの間にか、跡形もなく止んでいた。何となく名残惜しいような心持ちで、オルフェは樹下の古楽器に手を伸べる。花唐草に、月と星。壊れてはいるが、見事な細工だ。
 ……独り言のようにふと、言葉が口をついて出た。
 「まあ、どうしようもなければ最悪、弾き手が適当に決めてしまえば良いんですけどね」
 「そんなものですか」
 僅かに首を傾けて、深い色の翡翠がオルフェを見やる。黄金蝶の羽がはたりと合わさるように、長い睫毛が瞬いた。
 「はい。此処だけの話ですが、実を云えば僕のこの竪琴も、本来の調弦は全く不明のままなんですよ」
 「……それは、また」
 あまり知られていない事実ではあるが、数々の神話伝説で有名な古代ギリシアのリラもまた、今の世には現存しない幻の楽器である。音階も奏法も、絃の本数すらも、全ては過去の闇の中。G線を攻撃に使用するなどという甚だ非常識な事情も手伝って、必然、オルフェの調弦も自己流であった。
 「要するに楽器の立場からしたら、ちゃんと綺麗な音が出て、折々忘れずに触ってくれて、たまには歌でも奏でてもらえれば、それで十分良いんじゃないかな」
 絃のない楽器を撫でながら、眼差しを和らげてオルフェは笑う。神の心さえ動かした名手の面影が、そこには確かにほの見えている。問いかけるでもなく聞き流すでもない穏やかな無言で、ムウはその横顔を静かに見つめる。
 「結局、初めに在るのはいつも心で、音も唄も全てはそこから生まれてくる。正統だとか流儀だとかは、それ程大切なものじゃない」
 ――重要なのは形じゃなくて、弾き手の意図だと思うのですよ。
 確信めいた口調でオルフェは言って、高い空の彼方へ視線を投げる。樹下の古楽器が一声、出し抜け様に、明るく澄んだ音でからんと鳴った。
 傍らの墓標のほとりには、追憶花が揺れている。


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Written by T'ika /〜2014.7.7