6.

 「丁度良かった。そろそろ今の絃も替え時だったんですよ」
 言いながらオルフェは、磨きこまれた真鍮の螺子回しで小さな糸巻を手早く緩め、竪琴の絃を一本外して見せた。さらに真新しい絃の先端を二、三回、器用に捻って底部の緒止めに固定すると、もう片方の端を慎重に、頂部の糸巻へ取り付ける。そうして丁寧に確実に螺子を巻く。僅か数分。手馴れたものだ。
 一言も発することなくその一部始終を眺めていたムウは、作業終了を確認すると、触れて見ても構いませんか、と丁重に竪琴の持ち主の了解を取った。
 しばしば誤解される所だが、オルフェの楽器は聖衣ではない。オブジェ形態の琴座の聖衣に取り付けられた白銀色の絃糸は、実を云えば単なる紛い物に過ぎず、装着時にはごっそり纏めて胴部に収納されていたりする。色気の欠片も有りはしないが、構造機能上の問題なので致し方ない。故に楽器はオルフェの純粋な私物である。
 畢竟、ムウは初めて見る訳だ。
 初めて見るからには不慣れな点も多かろう。ふと思い至ってオルフェが目をやれば、ライラックの樹下に座った牡羊座は相変わらず涼しげな顔つきのまま、受け取った竪琴を仔細に観察しつつ、糸巻の構造に沿って確かめるようにゆっくりと、形の良い指をなぞらせていた。その動きはごく滑らかで、何の迷いもなく見える。もしかしたらあの指を通して楽器の内側まで透視しているのかも知れない。狐狸妖怪の如き所業だが、有り得る話だとオルフェは思った。この人物ならやりかねない。
 いつしか辺りには水晶硝子のような透明な沈黙が満ち、標準的な聖闘士の小宇宙とは明らかに質の違う不可思議な気配が、その場一帯を支配していた。オルフェほどの手錬れでなければ、それが小宇宙であるという事にさえ、気付くのは困難だったろう。破壊ではなく再生を志向する、修復時特有の燃焼法と思われた。だが一見無害な静けさの奥には、底の知れぬ強大さがひしひしと感じられる。
 玻璃の向こうに拡がる奈落の深淵。
 かくも空恐ろしい規模の小宇宙を何のてらいも無くあっさりと放出しておきながら、しかし当のムウは不条理極まりないほど優しげな、芙蓉花の如き女顔をしている。やはり狐狸妖怪の類に違いない。白皙の頬には長い睫毛が濃い影を落とし、冷たい月光を縒り合わせたような金の髪には真昼の木漏れ日が綺羅星となって、千花模様を描いていた。確か東洋の出身という話だが、古来より西との混血が著しい事で知られるシルクロード周縁の民族の血も、少し入っているのだろうか。目鼻立ちははっきりしているけれども彫りが深すぎるという程でもない、亜細亜系の綺麗な面立ちに、違和感なく組みこまれた髪と瞳の金碧色は、古い詩歌に唄われた絲綢之路の、異国情緒を強く思わせた。
 「成る程、良く出来ているものですね」
 独り言の様に、小さな呟き。何事かを納得したらしく緩やかに集中を解いてオルフェの方へ向き直ると、ムウは絃の張力や楽器の強度、巻き取り器具の構造について、幾つかの短い質問をした。初見にもかかわらず問いの要点が一々的確なのは、理解が人並み外れているのか、尋常でないほど勘が良いのか、或いは修復師ならではの器用さか。恐らくはそのいずれもであるのだろう。答えながらオルフェは舌を巻く。話が早い。
 「……では、絃の材質はどうですか。張力の負荷を考えるならば、やはり楽器ごとに決まっているものなのでしょうか」
 「いや、必ずしもそうとは限りませんね。むしろ一番大事なのは音質かな。同じ楽器でも目的に合わせて絃を変える事もありますよ。鉄絃だとか、ナイロン絃だとか」
 「そうですか。ちなみにこれは」
 「ああ、僕が今使っているのはガット絃です。羊の腸から作られていて、それなりに傷みも早いのですが、やはり音の深さが違うので」
 見たところこちらの楽器も伝統的な仕様だし、ガットの方が良いんじゃないかな。折り畳んだ布の上に丁寧に置かれた問題の品へと視線を投げて、考え考えオルフェは言った。一見色々な物に似ているようで、その実いずれにも似ていない。つくづく不思議な楽器である。何やら修復師同様この品もまた、微妙に妖怪めいているようでもあった。
 「ガットなら結構余分があります。見たところ太さも丈も問題ない様ですから、この楽器にも使えると思いますよ」
 「構わないのですか。貴重な物なのでは」
 「いえ、大した事じゃありません。どうぞご遠慮なく」
 済みません、助かります、と物腰柔らかな振る舞いは変わらぬものの、珍しく驚いたような表情をちら見せて、ムウは感謝の科白を述べた。まさか一から自作するつもりだったのだろうか。顔色ひとつ変えずに羊を絞め殺すムウの姿をかなり具体的に想像してしまい、オルフェは内心冷や汗をかく。勘弁して欲しい。
 「……いえ、この程度の事なら喜んで。あと、そうだ、それからこちらの方は、もしかしたら専門的に過ぎるかも知れないのですが」
 つい先だって調弦の道具と共に部屋から引っ張り出して来た書籍の束は、正直オルフェ自身も敬遠しがちな七面倒くさい代物で、音響物理学の理論だのデータだのを織り交ぜながら、頭痛のするような難解な数式がぞろめいている。戸棚の奥でうっすらと埃をかぶっていたのを、慌てて払って持って来た所だ。
 「もしかしたら余りお役には立たないかも知れませんが――」
 「いいえ、わざわざ痛み入ります。少し拝見しても構いませんか」
 遊びの欠片も無い黒表紙の専門書を、かなり嬉しそうにムウは受け取った。目次の処からすらすらとめくって、平然と流し読んでいる。全く気を遣うだけ馬鹿らしい。
 「……よろしければ暫くお貸ししましょうか」
 「ああ、それはとても有り難い。助かります」
 「何なら当分の間でも良いですよ」
 半ば以上本気で付け加えつつ、修復師の仕事など自分にはやれそうもないなとオルフェは思う。かくも楽しげに物理学の専門書を読み漁るなど、良識ある聖域人の所業ではない。狂気の沙汰だ。
 そんなオルフェの思念は全く歯牙にもかけぬまま、相変わらず仙人とも妖怪ともつかない牡羊座の黄金聖闘士は、浮世離れした書籍の束を器用に抱え、数と音の世界へ没頭している。静かに伏せられた長い睫毛が午後の光をひとしずく宿して、一応黙っていれば人形のようではある。



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Written by T'ika /〜2014.7.7