4.

 ひんやりと立ち込めた朝靄のなか、忘れな草色に染まりゆく大理石の神殿の合間を抜けて、細い小道をムウは行く。まだ薄暗い黎明の聖域には、人の気配も殆んど無い。静まり返った石畳に足音だけが響く。
 肩越しに背負った例の布包みは、棒や剣の類にしては余りにも珍妙かつ奇天烈な輪郭で凹凸しており、案の定、明らかに異彩を放っていたが、流石にこの時間帯であるならば、野次馬の目に留まる心配も無い。重畳である。まだ休んでいるシオンと顔を合わすことなく家を出られたのも、好都合。……瑣末な拘りではあるが、やはりシオンには見られたくなかった。無論、依頼品の修復法が皆目判らぬというこちら側のふざけた事情など、先方には疾うに知れ渡っているのだろうが、こうして実際に四苦八苦している姿となれば、やはり目撃されたくないのが人の情。どんな残酷な眼差しで見られたものか、想像するだけで心が沈む。……そのくらいの見栄は許されても良いはずだ。
 程なく目指す場所に着く。石造りの建物の奥深く、ちらちらと仄暗いランプの灯りに薄ぼんやりと浮かんで見える、聖域の巨大な書庫は、古い紙の匂いに満ちている。
 かなりの骨折りをした末に、室内を埋め尽くす本棚の坩堝から目的に合った書籍を選び終えると、担いで来た楽器を卓上の良席に鎮座させ、ムウは手際よく作業にかかった。
 サズ。セタール。リュート。サンシェン。
 金の縁取りの革表紙の中には、古今東西、ありとあらゆる時代と土地の様々な弦楽器の詳録が、百科全書の如くに収められている。何頁にも渡って長々と記された微細な解説文字の合間には、美しい絵図の類も多く添えられていた。砂漠の遺跡から発掘された、遥か昔の古文書の写し。聖堂の壁に描かれた、色彩り豊かなモザイクにフレスコ。機械のように精密な、近代の版画や図鑑の挿し絵。
 順繰りに頁を追って眺めていく資料のうちには、今はもう滅びたと思しき貴重な楽器も散見される。バルバット。パンドゥーラ。ヴィオラ・ダ・マーノ。しかし、やはり目当ての楽器は何処にも見つからなかった。余りにも辺境すぎて記録に採られることもなかったのだろうか。故郷の地形ならば無理もないことだと、半ば諦めの気持ちでムウは、切り立った急峻なヒマラヤを想起する。鉄壁の守護神。絶望的だ。
 だがそれならば、と似たような構造の楽器を探してみれば、幾つか参考になりそうな物も無いではなかった。とりわけ古代ペルシアのクーブーズや元朝モンゴルの琥珀詩などは、全体的な見目形といい、特徴的な胴部の稜角といい、まるで時空を超えて来たかのように、眼の前の楽器とそっくりである。絵図のうちに描かれた小振りの駒も、手元の依頼品には生憎と残っていないが、もともとは共通していた物なのだろう。この辺の資料を当たってゆけば、修復の導べに出来そうだった。
 ここに来て漸くムウは、些かの安堵を自覚する。……或いは何とかなる、かもしれない。
 ただし、もちろん文献情報だけでは限界があるのも確かではあった。当の修復師がこの分野に疎すぎるというばかりではない。そもそも書物に採録されない情報は、初めから知る術が無いのである。例えば資料の中で参考にできそうな古楽器は、いずれも調律に関する記録が残っておらず、絃の音程や張力といった重大事が、ごっそり不明となっていた。肝心要の情報だけに、口伝に限られていたのだろうか。脆い紙の頁を一枚一枚繰りながら、ムウは頤に手を当てる。無論、時代と地域の事情を思えば記録の不備もやむを得ぬことではあるのだが、他に頼みのないこちらとしては、些か困った事態ではある。こんな時、あの人だったらどうするのだろう。
 ……是非も無い。
 備え付けの銅皿にそっとペンを置き、書物から顔を上げて長い息をつく。流石に少々、根を詰めすぎた。苦笑しながら無意識のうちに右手を伸ばし、手遊みのようにして傍らの楽器を弄んでいると。
 はらはら、はら。
 ひらいたままの本の頁が風も無いのに何枚か捲れて、リラの項目で不意に止まった。ヘルメスの才知。アポロンの芸術。
 ――星の竪琴。
 静まりきった湖面に水滴が落ちるように、ふと思い至る。



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Written by T'ika /〜2014.7.7