3.

 ……という次第での、この惨状である。
 折れた糸巻に、散り散りの絃。砕けた何かの残骸らしき、紅木紫檀の小さなかけら。
 取り散らかした工房の片隅で、卓子に広げた古い弦楽器を漠然と眺めながら、ムウはひとり途方に暮れている。シオンの手前、平気そうな顔こそして見せたものの、実際の所はどこからどうしたものか、さっぱり見当すら付きはしない。
 本当は楽器の類など、触れたことさえ無いのである。
 永遠(ペルベウ)を象った優美な響き孔。天神には一滴のトルコ石。当てもない答えを求めるように、小慣れぬ手つきで撫でてみる。上品な木造りの棹や胴体は、昔風の唐草模様で淡く彩られ、所々には花や星や月の小さなレリーフが、標のように刻まれている。幾つか細かい傷もついてはいるが、これは修復できるだろう。
 ゆっくりと感覚を研ぎ澄ましながら、注意深く指先を滑らせていく。稜角の突き出た涙型の共鳴胴には、音の響きを深めるためか、極薄の鞣し皮が張られていたが、今やその表面は無残なまでに大きく裂けて、無防備な内側を曝け出していた。風化しきった皮の破れ目は、まるでセピアの過去のかけらのように、触れればぽろぽろと崩れおちてゆく。根こそぎ張り替えるより他に無い。
 斯様に古びてしまうまで、一体この楽器はどれだけの長さの歳月を、壊れて眠っていたのだろう。
 かつては色鮮やかな詩歌を奏でていたはずの絃も、今は悉く千切れて失われたまま、僅かな残骸だけが辛うじて幾筋か、緒止めの端に絡みついている。天辺の六つの糸巻は、或いは丸ごと失われ、或いは半ばから派手に折られて、いずれも原型すら留めていない。卓上に散らばる小さな木片。
 ……痛ましいものだ。癒えぬままの傷跡を見るのは、いつも。
 壊れた聖衣にするように、静かにそっと手を当てる。だが、さて、どうやって治したものか。外見の美しさだけならば小手先の技術でも何とか繕えようが、肝心の音まで蘇らせるには、圧倒的に知識が足りぬ。しかし鳴らない楽器に意味など有るまいし、この惨状を如何したものか。
 破損の箇所に気をつけながら、両手でそっと抱え上げてみる。ぎこちなさに自ら苦笑が漏れる。持ち方さえ全く様になっていない。やはり鳴り物の類には疎いのだ。調弦や奏法の基本はおろか、音の出し方すら微妙に怪しい始末。元々の楽器の形状にしても、細部の記憶は甚だ曖昧で、音響や共鳴の構造に至っては、推理幻想の範疇である。
 ……間近で見た事もなければ、致し方ないか。
 視線を上げて小さく溜息をつく。果たして自分などの手に負えるのだろうか。直せぬ物を受け取ってどうすると、いみじくも真っ先に指摘された通りである。人並みの蘊蓄すら持ってはいない。
 無論、自覚の上ではあったが。
 そもそも育ちからして音楽とは無縁の人生なのである。欠落していると言っても良い。生来より肉親の縁には薄く、聖闘士を目指すと決めたのもごく幼い頃。普通の子供ならば誰もが自然に覚えただろう、楽器にも唄にも馴染む暇はなかった。……もっともそれはシオンも同じはずだから、助力を求めても無駄ではあっただろうが。
 加えて状況をいっそう悪化させたのは、ジャミールがいかなる人間をも寄せ付けぬ魔境地帯だったということもある。その様な場所で外界との交わりを一切絶って暮らしていれば、土地の民族文化など、殆んど観察不可能というもの。己の選んだ道に後悔は無いが、些か情趣に欠けたことは否めない。
 そうしてこのような経緯を辿った結果、人生の大半を故郷で過ごしながらも、故郷の楽器ひとつ知らない人間が出来上がる訳で。
 翠緑の瞳をひらいて困ったように笑う。あの僧侶も随分と気の毒な事だ。まだその辺の村人の方がましだったかも知れぬのに、なぜ自分の所になど持って来てしまったのだろう。結果的に引き受けてしまった以上、それなりに何とかするつもりではあるが。
 腕の中の楽器は声もなく、深い眠りについたまま。昔はどんな唄を奏でていたのだろうか。……こんなに間近に見るのは初めてだった。
 それはかつて幼いみなし子の胸を通りすぎた、ほんの微かな憧れの。
 誰もいない工房で、見えない絃をつまびいてみる。チベタンランプの灯りの下で、遠い記憶の音がした。



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Written by T'ika /〜2014.7.7