2.

 「妙な物を持っているな」
 長椅子にゆったりと腰掛けたまま、部屋の向こうからシオンが言った。
 耳に心地良い低音で、夜の凪のようにただ淡々と。先刻と変わらぬ姿勢のままで軽く無造作に片肘をつき、分厚い古書の頁を繰りながら、尋ねる口調は穏やかではある。けれどもそのまなざしは真っ直ぐにこちらへと向けられていて。
 ……やはり見過ごしてはくれないか。
 「面目ありません。うっかり押し付けられました」
 断ろうとは思ったのですが。両腕を占める長い弦楽器を慣れない手つきで抱え直して、決まり悪そうな顔でムウは苦笑する。解けかけた布地の間隙からは縁の欠けた木彫りの天神飾りが、見知らぬ場所を窺うように、うっすらと小顔を覗かせている。緊張の糸が緩んだかのように、腕の中の木片がからんと鳴った。
 横目でちらりと流し見しつつ、シオンは再び書物へと視線を落とす。
 「それで?修理の当てはあるのか」
 「……これから調べます」
 「直せぬ物を受け取ってどうする」
 「すみません。足が無かったので、つい」
 闇に溶けるような僧侶の佇まいを思い返しながら、ムウは小さく肩を竦める。恐らくはこの世の者ではなかっただろう。表情の仔細も衣の質感も誠に申し分なかったが、腰から下はかなり透けていた。典型的すぎる。
 「あの様子では、どうやら下半身の方までは意識が及んでいなかったと見えますね」
 「それはまた気合の足りない霊体だな」
 聞きながらシオンは事もなく断じた。無茶を言う。
 「そうは仰いますがシオン、此処にはアテナの結界があるのですよ。善戦していた方でしょう。それにジャミールの谷の亡者共に比べたら、相当まともな部類に入りますよ、あれは」
 軽く苦笑を閃かせ、ムウは一応公平な所見を申し述べ添えた。そもそも聖域の結界の中で足まで生やしていたら、そちらの方が遥かに尋常ではない。……貴方じゃないんですから、とは勿論、言わぬが花だが。
 しかし結界と云えばひとつだけ、未だ腑に落ちぬ事がある。結局あの僧侶はどうやって、この神域まで入って来たのだろう。この世の者であろうがなかろうが、聖域の結界とは本来いかなる侵入者をも許さぬものだ。規格外の力を備えた神籍の輩でもあるまいに、一体どのようにして越えたのか。
 考え込むムウを見透かすように、唇の端でシオンが薄く笑む。
 「――香が」
 ああ。
 思い出したようにムウが見やると、ほんの僅かだけ開いたままの窓の下、銀の象嵌の器に置いたチベット式の香の煙が、音もなく流れて揺らめいていた。……そう云えば久々に焚いていたのだったか。
 「道をつけてしまったようだな」
 「思い至りませんでした。消しましょうか」
 「何、構うまい。悪い気配はしていなかった」
 「……そうですか」
 相変わらず妖怪じみた視野の持ち主である。死角のひとつくらい無いのだろうか。
 「それに元々その香は、邪気を祓う為の魔除けが起源だからな。その煙に引かれて来たのなら、悪い物ではないだろう」
 顔色ひとつ変えずにあっさりと言って、シオンは不意にムウを見る。問いを掛けるように、視線でひと刺し。
 ――それで、お前はどうするつもりだ。
 直せる心算なのか、と言外に問いつめられたような気がして、一瞬だけムウは言葉に詰まる。しかし一旦受け取ってしまった物を、今さら無理だと言って通用するはずもない。出来もしない依頼を受けるなど、修復師としての良識にもとる。
 ……何より、無能極まりない。
 「兎も角、預かってしまったものは致し方ないので」
 内心の揺らぎを押し隠すように、腹を決めてムウは優雅に微笑う。平然とした顔はせめてもの矜持だ。
 「何とか、してみます」
 「そうか。ならば好き様にするが良い」
 窓辺の風に古の薫り。開いたままの頁に視線を戻し、拘りもなくあっさりと言って、シオンは再び沈黙の淵へと降りて行く。



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Written by T'ika /〜2014.7.7