形なきものたちへ



 1.

 何処か聴き憶えのある鈴(りん)の音色に扉をひらいてみると、さらさらと冷たい墨を流したような新月の闇の真暗がりに、僧侶がひとり佇んでいる。
 今さら肝を潰すほどの事でもないが、意表を突かれたのは嘘ではない。音もなく後ろ手に戸を締めながら、ムウは内心、小首を傾げた。十重にも二十重にも張り巡らされたこの聖域の強固な結界の中では、闖入者の訪れも流石に稀だ。一体どうやって這入って来たのだろう。
 緋色の袈裟に骨の数珠。小さな五鈷の金剛鈴。古いギリシアの神殿跡に、異国の僧衣は場違いな風情で酷く浮いている。銀の星明かりを幽かに浴びて、夜の底に辛うじて判別できる、顔には勿論、見覚えなど無い。
 敵味方知れぬ。
 ムウは穏やかな微笑を崩すことなく、単刀直入にさらりと訊いた。
 「わたくしに何か、御用ですか」
 どちら様ですか、の類を問う習慣は、ジャミールで過ごした十三年間のうちに早々に消えている。要は慣れたのだ。侵入者の得体の知れなさにいちいち素直に心乱すような、殊勝さも可愛げも疾うに無い。
 身元よりも意図の方が遥かに重要である。
 目蓋にほの暗く、燐の青。僧侶は静かにムウを見返す。やがて真空に一音一音浮かび上がるようにその唇が幾つかの言の葉を象って、それからゆっくりとほほ笑みの形になった。
 ――ああ、漸く見つけました。
 ――私を知っているのですか。
 思いがけず流れてきた故国の言葉に一度だけはたりと瞬きをして、墨染の闇へとムウは問い返す。今度はチベット語に切り替えて。……しかし郷里に知己など居ないはずだが。
 知らぬげに僧侶は笑んだまま。
 ――この頃では一族の修復師も、殆んど居なくなってしまいました。
 ――確かに私は修復師ですが。
 要領を得ない。いったい修復師に何の用があるというのだろう。聖衣の修理を頼みに来た、などというのは流石に妙だが。
 思慮を巡らせながら様子を眺めていると、漣ほどに微かな衣擦れの音がして、物言わず僧侶は虚空に手を伸べる。次の瞬間、不意に両腕の中にずっしりとした重みを感じ、ムウは己の手元を見つめた。そこにはいつの間にか奇妙な形の長い布包みが、まるで初めからその場にあったかのように、しっかりと抱え込まれていた。
 表情ひとつ変えぬまま、ムウはちらりと僧侶を見やる。これを直せということか。
 幾重にも巻きつけられた布越しにどうにか判別できるのは、堅く細やかな木材の質感である。指先の向こうに微かに感じる、優美な曲線と彫刻の凹凸。軽く包みを傾けてみれば、何やら小さな破片のような物が、幾つか転がる音がした。
 からり。からから。
 何かの道具か、装飾品か。随分な骨董のようだが見当も付かない。恐ろしく古びた織布を注意深くめくってひらいてみると、風化しかけた繊維がぱらりと崩れて、乾いた土埃の匂いが立った。
 ……これは。
 布の中から現れたのは、壊れた古い弦楽器。
 ムウは密かに眉根を寄せる。ぼんやりと霞んだ脳裡の霧の奥、確かに何処かで、見覚えがある。遠い遠い過去のこと、あの人に出会うよりもさらに前、私の世界が色も温度も持たなかったあの頃に……そう、道端や軒先や街角の片隅で、幾度か見かけたような、気がする。
 記憶の彼方を手探りして、漸くその名を思い出した。

  sgra snyan

 優しい音、と名付けられた、これは遠い遠い故国の楽器だ。耳に残る微かな旋律と共に、音色もおぼろげながら甦ってくる。……だが、流石にこれは、手に余る。専門外だ。武器や防具であれば良い、装飾品までならば何とかなるが。……楽器など。
 ちりん。
 再び澄んだ音が虚空に響いて、ムウはゆっくりと視線を上げる。……居ない。
 緋色の袈裟衣は既に消え失せて、影も形も見えなくなっていた。滴り落ちるほど深い闇の中、辺りには気配も痕跡もない。
 蛍火のような淡い星明かりだけが、朽ちた六絃をうっすらと照らし出している。


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Written by T'ika /2010.4.6〜2014.7.7