10. 黒瑪瑙の髄を溶かしたような濃闇の中、細くひらいた窓の隙間から、チベット香の煙が広がってゆく。再び巡ってきた新月の夜、神域の静寂はどこまでも森閑と奥深い。 修復の終わった楽器を抱え、ひんやりとした戸外に佇みながら、ムウは暗がりの向こうにじっと眼を凝らす。召喚術と呼ぶには余りにも粗略な仕掛けではあるが、今回に限っては確信があった。 待つほどのこともなく虚空が揺れる。黄泉路の果てまで澄みわたるような、五鈷鈴の音色がちりんと鳴った。 ……案の定。 見据える闇の奥から幽かに浮かび上がってくる、緋色の袈裟に、骨の数珠。物音ひとつない暗晦の中、輪郭は徐々に明瞭に、濃くなってゆく。 合掌、三拝。 ――私をお呼びしましたか。 ひと月前と寸分違わぬ姿格好で、件の僧侶は蕭やかに笑んだ。その唇に呼気は無い。思念によって直接脳裏に語りかけてくるのも、先日と変わらぬ様式である。 この期に及んで前置きも無用であろう。ムウは単刀直入に要件を切り出した。 ――依頼の品です。あらかた問題なく直したつもりですが、必要ならばお確かめください。 手元の楽器を引き渡そうと、闇に向かって差し出してみる。が、僧侶は微塵も動こうとしない。しれっとした顔でこんな事を言う。 ――受け取れません。 ――は? ――私のものではないのです。 「……何ですって?」 思わず声に出して問い返してしまった。 耳を疑う、と言わんばかりのムウの反応など何処吹く風で、僧侶はのんびりと言葉を続ける。 ――絃の楽器は俗世の象徴、出家の身には適しません。私はこれを預かっただけです。しかるべき人へと受け渡すまで。 やはり主の無い楽器は寂しいものですからね。追い打ちのようにそう言って、にっこりと笑う。……眩暈がしてきた。 もういっそ無理矢理にでも押し付けて、後も見ずに帰って寝てしまおうか。そんなやけくそな衝動をどうにか耐え忍びつつ、ムウは努めて己の中の理性を呼び起こす。表面上は冷静を装いながら、なけなしの反論を試みるために。 「……そちら側の事情は解りました。しかしそれならば尚のこと、私の手元にあっては意味がない。この楽器にしても、きちんと弾いてくれる所へ行った方が良いでしょう」 何ぞ不可解な事でもあるのか否か。理路整然と紡がれるムウの主張を聞きながら、僧侶は僅かに首を傾けた。 「それに聖闘士の世界は闘いの絶えぬもの。音楽などとは程遠い。場違いです。しかも」 最後まで言い終わりもせぬうちに、紅の僧衣が音もなく夜の闇を滑る。楽器のすぐ傍までつうと近寄ると、淡く透きとおる右手が伸びた。 もの言わぬ六絃を、さらりとひと撫で。 ――ちゃんと弾いて貰っているではありませんか。 「……たった一度です」 ――でも既に魂が込もってしまっているようですけど。 「………………」 能面のごとき無表情でムウは黙り込む。いったい何を言い出すのだこの霊体は。 ――悪い事ではありません。心のこもった演奏の証です。 こちらの顔色などお構いなしに、やけに自信ありげに僧侶は頷いてみせる。もしかして激励のつもりなのだろうか。反論の気力すら無くなってきた。 ――そういうわけで、ご心配には及びません。この楽器は既に居場所を見つけたようです。 満足そうな様子できっぱり断言すると、のほほんとした笑顔でこちらを見やる。燐火の揺らめく青い目元には、いかにもおめでたいといった風情で満開の虹がぱあっと立った。 冗談ではない。 「……あ、あれは!たまたまです!今後そんなに弾いてくれる機会があるとも思えない。絶対に他を当たった方が、」 懸命に抗えども、時、既に遅し。浮かんだ笑みの影もそのままに、僧侶の姿は忽然と闇に掻き消えた。後にはひとすじの気配も残らない。 ……またか。 もはや憤るだけの気力もなく、ムウはがっくりと頭を垂れる。つくづく人の話を聞かない霊体である。いや霊体とはそもそも人の話を聞かないものか。どうしようもない。 「……参ったな」 独り言のように呟いて、聞き取れぬほどの小さな溜息をつく。……あんな風に弾いてくれることなんて、今後そうそうある訳がないのに。 浮かない気持ちでぼんやりと落ち込んでいると。 ――かたん、からん。ぱちん。 沈鬱な気分に拍車をかけるが如く、腕の中の楽器が楽しげに鳴った。 ……どうしろと。 眉間を押さえてムウは溜息をつく。明らかに調子に乗っている。無闇やたらと音の切れが良い。 ……此奴をこの先、どうしたものか。 本日三度目の溜息を深々とついた、その時。いつぞや耳にしたオルフェの言葉を、ふと、思い出した。 ――重要なのは形じゃなくて、弾き手の意図だと思うのですよ。 考え込むように瞳を閉じれば、瞼の裏には抑えようもなく、満月の夜の光景が蘇る。今もまだ鮮やかなあの歌声は、この耳に、心に強く焼きついて、色褪せることなど決して無い。どんなに深く隠していても、たとえ言葉にはされずとも。 ……言葉にされることのない想いこそ。 少しくらい夢を見ても良いのだろうか。 あの日の面影を手繰り寄せ、記憶だけを頼りに真似てみる。撥を持つ右手はゆるりと柔らかく、絃を押す左手はしなやかに、力を込めて。 胸の中のその人に聴かせるように、思いきって一音、弾いてみる。神域の底深い闇を震わせて、心なしか、前よりも美しい音がした。 ……またいつか機嫌の良さそうな折にでも、教えて欲しいと頼んでみようか。 《END》
*** シオンもムウも妖怪なので、恋のキューピッドは物の怪ばかりです。笑 萌えの限りをつめこみました。 →謝辞とあとがき |
Written by T'ika /〜2014.7.7