3.(続)風 景




 冷静さにかけては自信がある。それが人前でのことならば、なおのこと。
 そもそも、多少のことでは動転しない方だと思う。それにもともと感情の制御は得意な筈だった。あまつさえそれは長い長い年月をかけて、もはや完璧なまでに補強されていた、……と思っていたのに。
 なのに一体、どういう訳だというのだろう。


 ――連続して襲って来た激しい咳をようやくやり過ごし、ムウは肩で喘ぎながらゆっくりと、それまで強張っていた身体から力を抜いた。遠くの小鳥のさえずりが、熱の引かない頭に妙に鮮明に刻まれて行く。酷使された気管支はまだ悲鳴を上げていたし、肺が膨らむ度に背中には鋭い痛みが走ったが、しかし呼吸が落ち着いてくるにつれて、だんだんと思考は回復してきていた。
 ……なんて、学習能力の無い。
 自分自身に些かうんざりしながら、ムウは目を閉じたまま天を仰いだ。そもそも息をすることさえ苦痛なほど酷い風邪を引いているというのに、それを忘れてついうっかり大声を出してしまうとは、普段の自分の基準から言って在り得べからざる失態である。冷静沈着で通っている牡羊座の名が泣くというものだ。……しかも、同じ日に二回も。明け方からずっと付き添ってくれている傍らの人にかけたであろう迷惑を考えただけでも、己の愚かさに頭を抱えたくなる。本当ならばもう疾うに、教皇の間へ行っていなければならない時間なのに。
 痛む背には先刻からずっと、温かいものが当てられていた。それがシオンの手のひらであることに、今度はムウも気づいている。激しい咳を耐える間じゅうずっと、背中を撫でてくれていたのだろう。
 「……少しは落ち着いたか」
 頭の上からそっと声が降る。重い瞼をどうにか開くと、シオンの顔が目の前にあった。心持ち眉根を寄せてこちらを覗き込んでいる。その瞳を時折かすめる、心配そうな影。
 ……面目無い。無さ過ぎる。
 本日何度目かの自己嫌悪に陥りながら、ムウは思わず心の中で溜息をついた。……迷惑ばかり、かけてしまって。しかも、こんなに忙しい人に。これでは力になるどころか、負担以外の何ものでもない。あまつさえ――何故なのか――さっきから自分は、この人に反発するような真似ばかりして。
 揺らいだ内面を隠すように再び瞳を閉じながら、咳のせいで済し崩し的に一段落ついてしまった先刻の口論のことを、何とは無しにムウは思う。自分で自分が信じられない。あんな些細なことであんな怒鳴り方をしてしまうなんて、一体どういう訳なのだろう。大人げも冷静さの欠片も無い。……まるで、子供だ。
 憂鬱な気持ちになりながらも、もう大丈夫です、とうっかり声を出しそうになって、ムウは再び呼吸を詰まらせた。肺の奥に重い痛み。瞼を固く閉じてじっと耐えていると、思ってもみないような近い場所から深い声が聞こえる。大丈夫か、と名前を呼ぶ声。手の中の温もりを無意識のうちに引き寄せて、ムウはゆっくりと頷いた。傍らで、少しほっとしたような気配がする。ああ――またしても、心配をかけてしまったようだ。
 己に対して苛立ちすら覚えながら、哀しいような思いでムウはゆっくりと瞼を開く。枕元のシオンは、どこかぎこちなく微笑んだ。めったに見ないようなその表情が、意識の隅に少しだけ引っかかる。
 「……気分はどうだ?」
 さらにそこへ降ってきた声の予想外の優しさに、ムウは思わず眼を丸くした。 ……どうもさっきから先刻と比べて妙に態度が柔らかいのは、気のせいだろうか。もしかして、今しがたの咳の発作に責任を感じているのだろうか。しかし、あれは自分も大人げ無かった訳だし――
 訝しげな気持ちを極力出さないように気をつけながら、ともかくもムウは傍らの人を見上げて、大丈夫だというようにそっと頷く。シオンはもう一度少しだけ笑んでムウの背に当てていた右手を離し、額から落ちて枕元に転がっていた布を拾い上げた。額や首筋の汗を丁寧に拭いてくれた後、傍らの水桶の中にそっと浸す。……しかしそれを絞る段階になって不意にためらうような素振りを見せると、さり気なく作業を中断して、そのままサイドテーブルの上へと手を伸ばした。そこには、雑然と置かれたままの薬壷の列。周りには薬匙の束が散らかっている。……だがこのタイミングで突然後片付けがしたくてたまらなくなったというのは、いくら何でも不自然すぎるのではなかろうか。
 「……?」
 どうかしたんですかと問いかけようとしたその時である。ムウはついに、はっと気づいた。……気づいてしまった。
 先刻からシオンは妙に片手のみを使って作業していた。そして、もう片方の手は。
 ムウは己の思考回路が停止しかけているのを、辛うじて感じた。頬がやけに火照っているのは、熱のせいばかりではないだろう。……そう、もう片方の手は。
 シオンは気づかないでいるかのような振りをしているが、他でもないムウ自身の手が、その袖の部分を(どう見ても明らかに)固く握り締めていたのだった。


 「――!?」
 動転したムウは、慌ててシオンの片袖から手を離す。その動き、まさしく光速。シオンはなおも気づかないでいるかのような振りをしているが、……しかしながらどう考えても、気づいているのは明らかだろう。しかも恐らくは、先刻からずっと。
 一体、いつから。考えかけて、ムウはまたしても固まった。そう言えばさっきから、何か温かいものをずっと握り締めていたような気が……。それも、ここ数分の話ではない。咳の発作を耐えている間中、ずっと。
 自分の顔なのに、頬に朱が差すのがはっきりと判った。どうしようもない。
 「…………」
 何とは無く不自然な沈黙が周囲には漂った。もぞもぞとわずかに身体の向きを変えて、ムウは辺りに視線をさまよわせる。枕元のシオンはさり気ないふうを装っていたが、その表情は些か困惑しているように見えなくも無かった。サイドテーブルの上には薬壷の他に、煎じたばかりの薬を入れたカップが静かに湯気を立てている。どこか懐かしい土地の香りが、ほのかに鼻腔をくすぐった。ゆらゆらと揺れる蒸気の跡を何とは無しに眼で追いながら、ふと、昔飲んだその味が今でもまだ記憶という形で口の中に残っていることに、ムウはゆるやかな驚きを覚える。無言のまま、シオンが再び水桶の中に手を伸ばした。……今度は無論、両手で。もっとも、いつもは流れるように優雅な所作も、今はどこかぎこちなかったが。
 と、その時である。ふと辺りの空気にさらに別の違和感を覚えて、ムウは再び固まった。

 かたん。

 ……玄関の方から音がする。それから、どう考えても、人間の気配が。
 確認する必要も無いほど鮮明な直前までの記憶を再びさらい、ムウはくらくらと眩暈を覚える。何故今までそれを忘れていられたのか、今となっては甚だ理解不能だった。絶望的な気分で、思わず天井を仰ぐ。

 そう――そう言えば、表に人が来ていたのだった。さっきから、ずっと。



 先程のノックからいったい何分が経過したのか――背中から照りつけるギリシアの暑い陽射しをまともに浴びながら律儀にドアの前で待っていたと思しき可哀想な来客は、声と小宇宙から判断するに、海蛇座の青銅聖闘士であるようだった。名前は確か、市。どう考えても留守とは思えない訪問先を後にする訳にもいかず、かといって中からは人が出てくる気配も無く、待ちぼうけを食わされたまま十数分。流石に足の筋肉が突っ張ってきたのに違いない。戸口の方からはもう一度、かたん、と心細げな音がした。
 ……しかし、もしかすると(もしかしなくとも)、これは。考えかけて、ムウは思わず青ざめる。先ほどの怒鳴り合いをすべて聞かれてしまった、ということではなかろうか。まるで子供の地団太のような、大人げの欠片も無い自分の言動。
 「…………」
 それ以上の思考を拒否し始めた己の頭を持て余し、ムウは師の表情を恐る恐る仰ぎ見る。と、傍らのシオンは、白々しい顔で視線を逸らせた。
 「そう言えば、来客があったのだったな」
 取ってつけたように、ぼそりと科白が落ちた。

 「わ、わかっていたんですか……!」
 あまりの衝撃に思わず声が出た。咳の後遺症で酷く掠れて、しゃがれていたけれど。シオンは黙ったまま少しだけ視線を上げる。動転のあまりそれ以上声も出ない、といった様子のムウをしばらく見やって、ちらりと笑った。
 「今度から大声を出す時は周囲に気をつけるのだな」
 「…………」
 ムウは絶句しながら、どうしようもなく火照り始めた頬の色を自覚する。もし仮にこの場に第三者がいたならば、定めし今の自分は拗ねた子供のように見えたことだろう。

 決まり悪さを誤魔化すように、ムウは表の方へと意識をやった。今さらながら戸口の人物に対して幾分の申し訳無さを感じつつあったためでもあるが、……しかしそれにしても、こんなにも長い間戸口のところで立ち竦んだままとは。帰らぬところを見ると、何か重要な用向きでもあるのかもしれない。
 「……行かなくても、いいんですか?」
 「そんなに私に出て行って欲しいのか?」
 「――――」
 再び絶句したムウをちらりと見やって、シオンは楽しそうにくつくつと笑う。……からかわれている。
 憮然としつつも、ムウは咳に気をつけながら言葉を繋ぐ。
 「大事な用件でも、あるのでは」
 「いや。大方想像はつく」
 ややうんざりしたように、シオンは肩を竦めた。……しかし。ムウは気遣わしげに眉を顰める。教皇宮に出社拒否中のシオンが居座るこの家に、朝っぱらから青銅聖闘士の使いがあり、しかもそれが火急の用件であるとしたら。どう考えてもそれは、教皇の仕事に関わる重大な用件ではないのだろうか。やはりここに繋ぎとめてしまったのは、まずかったのではなかろうか。……もしかすると迷惑をかけてしまったかもしれない。表の気配は、未だに動く様子もなかった。
 「……しつこいな」
 ここになって漸く玄関の方を見やったシオンは、今にも舌打ちしそうな表情で呟いた。普段よりも、心なしか低い声で。彼を良く知っている者であればその声音を聞いただけで取るものも取りあえず逃げ出したくなった所だろうが、先程から戸口で固まり続けていると思しき気の毒な人物には、そんな事の判る由もない。……と言うかそもそも最初の第一声以降、表の海蛇座は取り立てて叫ぶ訳でもなければ扉を叩いて騒音を立てる訳でもなく、しかもどう考えても困りきっているというのに、その彼に対して「しつこい」というのは、あまりにも酷い言いようなのだったが。
 ともかくも、シオンは漸く重い腰を上げる気になったようである。立ち上がってふとムウの方を振り返ると、安心させるように表情を緩めた。
 「いいからおまえは寝ていなさい」
 ……余計な気遣いは、無用。言外の意味は明らかであった。すべてお見通しという訳か。ムウは思わず溜息をついて、毛布の中に沈没した。

 「待たせてすまなかったな」
 戸口の方から、穏やかな声が聞こえてくる。少し前に弟子を怒鳴りつけながら全身から発散していた怒涛のオーラはどこへやら。漏れ聞こえてくる声音は、もうすっかり「教皇」のそれへと豹変していた。ムウの寝ている場所からその姿は見えないが、何食わぬ顔で平然と応対するシオンの表情が、声を聞くだけでもありありと想像できる。……しかし、彼とて海蛇座に先程の怒鳴り合いを聞かれてしまったことに変わりはないはずだが、一体その辺はどう誤魔化しているのだろう。あの憎々しいほどに涼しげな顔で。
 「……少々、取り込んでいたものでね」
 だが引き続き聞こえて来るシオンの声にふと違和感を覚えて、その時初めてムウは気付いた。
 ついさっきまで自分たちがずっと、チベット語で会話していたのだということに。
 そう言えば意識したことなど無かったが、考えてみればシオンとの間では、プライベートな会話はすべて故郷の言葉でやっていたのではなかっただろうか。初めて会った時から、ずっと。別にわざとという訳ではなかったけれども、それはもはや何か、癖のようなものだった。
 ……ということは。先刻の怒鳴り声の応酬も、外の人間には全く意味不明だったということか。
 横たわったまま思わず脱力する。……ああ、まったく。
 光の漏れる戸口からは相変わらず、正確無比な発音のギリシア語が流れて来ていた。

   ☆

 薄暗い室内を出てシオンが扉を開けると、眩しい光が瞳孔を刺した。その強い日差しの中に海蛇座の市がぽつねんと佇んでいるのを見つけ、シオンは僅かに眼を細める。流石に少々可哀想だと思わなくも無いが、タイミングの悪さは自業自得というもの――運も実力の内なのだ。それに幾ら聖戦後の後始末で忙しい時期だとは言え、ここ最近の教皇職の激務はもはや強制労働の世界である。このくらいの八つ当たりはさせてもらってもいいんじゃないかと、シオンは思う。
 「お取り込み中、申し訳ないです」
 散々待たされたのは自分の方であるにもかかわらず、恐縮したような顔で海蛇座は切り出した。無理もない。目の前に立つ教皇は声音こそ穏やかであるが、明らかにその眼が座っている。
 「すまなかったな。早めに連絡をすれば良かったのだが、なかなか手が空かなかった」
 謝罪の言葉や表面的な穏やかさとは裏腹に、さっさと部屋の中に戻らせろとでも言わんばかりの性急さで、シオンは単刀直入に自分の用件を切り出した。
 「悪いが、今日は行けそうもない。……使いの主にはそう伝えておいてくれ。子供が熱を出したので」
 さりげない笑みの底には、入って来るなオーラが明確に醸し出されている。だが海蛇座は怯みながらも素直に疑問を述べた。つくづく、人のいい男である。
 「……?貴鬼が風邪でも引いたんざんすか?」
 「まあ、そんなようなものだ」
 と、部屋の奥でガバッと起きる気配がした。すぐ後にガタン!ガシャン!という派手な物音が続く。
 「……やれやれ。寝ておれと言ったものを」
 肩をすくめながら、さり気ない調子でシオンはうそぶいた。

 お大事に、とは言いつつも、海蛇座は首を傾げながら帰って行った。微妙に納得していない様子だが、それもまあ当然だろう。そもそも家にムウがいるのに、何故シオンが貴鬼の風邪のせいで外出できなくなるのか、どう考えても謎である。しかも実のところ、貴鬼は現在一週間ほどの泊りがけで魔鈴と共に日本の城戸邸まで仕事に行っていたのだった。海蛇座がそのことを知っていたのかどうかは判らぬが、……まあ知れるにしても時間の問題だろう。
 しかし、今はそんなことはどうでも良い。
 急いで戻ると案の定、寝具から身を起こしかけた病人が再び沈没していた。
 「馬鹿者が。寝ていろと言ったろう」
 顔を顰めたシオンの声に、ムウは弾かれたように顔を上げた。
 「――シオン!」
 顔が赤い。先刻と比べても随分と。見た所どうやらそれは、熱のせいだけではないようだった。
 「下手な嘘は、やめてください。すぐばれるんですから」
 「嘘、ねえ」
 子供が熱を出したとか、貴鬼が風邪をひいたようなものだとかいう、先程の話のことを言っているのだろう。シオンは可笑しそうに口元で笑った。
 「私は嘘を言ったつもりは無いのだが」
 「…………」
 どう反応していいのかわからずに、ムウは視線を彷徨わせる。
 「シオン。それは、ええと」
 貴鬼が風邪を引いたのも同然だ、という意味なのだろうかやっぱり。恐る恐る見上げると、傍らの師匠はどう見ても楽しそうだった。
 ……八歳児同然。
 間接的にそう言われてしまった自分に愕然として、ムウはまたしても毛布の中に沈み込んだ。言葉を失っている弟子の様子を横目で見ながら、シオンは笑って声をかける。
 「薬、飲めそうか?少しだけなら起きられるな」
 どうにか微笑を返して頷きはしたが、心中では密かに自問する。自分はそんなに頼りないのだろうかと、少しだけ切ない気持ちで。
 辺りにはどこか懐かしい薬草の香りが、湯気に乗ってたゆたいながら広がってゆく。



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何で私が書くとこういうことになって行ってしまうのだろう。砂吐きムーミン。砂!砂!
てか、いったいぜんたい何なんだこれは。ラ、ラブコメ?(違う)
私は冷静沈着なムウ様以外見たくない!という方、すみません。本当に。

ええとちなみに、2人っきりの時の親しい会話は、チベット語。
修行中とか訓練中とか執務中とか、聖闘士業務に関するシチュエーションでは、ギリシア語。
あとプライベートであってもチベット語のわからない同席者がいるときの会話は、同じくギリシア語。
とかいう設定を作って1人で悶えていたりします。

なお、前作(「風景」)を読まれたある方から、「二人の時間を邪魔してしまったヒドラの市はこの後無事だったのか」という趣旨のご質問を頂いたのですが、ここのシオンさんとムウさんは物凄く猫気質(別名・シャイ)なので、もし仮に相手の前でヒドラの市さんに酷いことをしてしまうと、実は「あの時間がもっと長く続いていて欲しかったのに!」と思っていることが図らずしもお互いにばれてしまうので、そんな恥ずかしいことにはどうしても耐えられなかったのです。(ビッグバン)

というわけで結果的にこの日の市さんは、危うく難を逃れたのでした(いやもう既に十分酷い目に遭っているのではないかという説もありますが…)。ただしこの後日、彼がどうなったのかは、まったくご想像におまかせしますが!(笑)あとは、本能的に2度目のノックをしなかったのも、市さん的には◎かと。

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Written by T'ika /〜2004.7.29