2. 風 景




 それは昇り始めた太陽もそろそろ高くなってきた、ある日の朝のことであった。



 薄墨のような蒼い闇を追い散らし、刺すような光が閉じた窓の隙間から差し込んだ。壁越しにはカタコトと、鳥たちが活動し始める音が聞こえる。だが本来ならば爽やかな朝の訪れであったはずのその音でさえも、熱を帯びて朦朧とした意識にはひどく響いて煩わしい。顔の上に踊る光が苦痛なほどに眩しくて、ムウは閉じたままの目をわずかに背けた。
 連日の無理が祟ったのだろうか。先刻からの身体のつらさは、横になってからも良くなるどころか一層増してゆくばかりで、今やわずかな身じろぎさえもが酷く苦しい。熱く火照った身体は地の底へと吸い付けられるように重く、寝返りを打とうにも、もはや全く言うことを聞いてくれそうになかった。

 その時である。閉じた瞼の向こうから網膜を刺激していた強い日差しが、不意に途切れた。混濁した意識の中で、ムウはぼんやりと瞼を開く。
 ――眼に映ったのは、肌色。
 はっきりと見定める間も無く、その肌色は視界から消えた。それから一瞬だけ額にひやりと柔らかいものが触れ、再び遠ざかる。何とは無しにその後を追うように視線を動かし、ムウははっとして思わず眼が覚めた。
 ――既に教皇の間に行ったのではなかったのか…?

 そこには彼の同居人であるシオンが、窓からの日差しをちょうど遮るようにして座っていた。黙ったまま汲みたての冷たい水に清潔な布を浸している。
 言葉を発しようとして思わず深く息を吸い、ムウは激しく咳き込んだ。酷い高熱のせいだろう、呼吸するだけでも肺の奥が突き刺さるように痛む。咳のために増幅されたその痛みに耐えながら、ムウは心の中で溜息をついた。……これでは当分起き上がれそうにも無い。
 絶望的な気分になりながら何とか身体の向きを変えて乱れた呼吸を鎮めていると、おもむろに背に温かいものが当てられた。じわりと沁みるようなその心地良さに、ムウは縋るように眼を閉じる。熱のために低下した判断力のせいか、それが人間の手の平であることに気づくまでには、思いのほかに時間を要した。
 再びはっとして、ムウは傍らを見上げる。その瞬間、視線の先にいた人の睨みつけるようなまなざしにいきなり射すくめられた。
 ムウの背中に手を当てながら、シオンはにこりともせず言い放つ。
 「気がついたか」
 返事をしようとして再び呼吸器官に苦痛を覚え、ムウはやむを得ず小さく頷いた。無言のままシオンは暫し、ゆっくりと病人の背をさする。……人の手の平とはこれほどに温かいものだっただろうか。漠然とそんなことを思いながら、ムウは呼吸が再び楽になって行くのを感じていた。
 「……すみません。もう、平気です。ありがとう、ございます……シオン」
 浅い呼吸の下で咳に怯えながら出した声は、当然のごとく掠れるように細い。わずかに眉間にしわを寄せ、ちらりとムウを見やったシオンは、不機嫌さを隠そうともしないまま、遠慮も会釈もなく言い捨てた。
 「……で? 何がどう大丈夫だ、と?」
 うっ、とムウは絶句する。このタイミングでそんなことを言われてしまえば、病人にはもはや反論の余地すらない。
 「お前はその齢で自分の面倒も見られぬのか。一体何をどうすればここまで悪化するというのだ」
 「……すみません……」
 「わたしに謝っても何も解決せぬわ」
 吐き捨てるように言いながら、シオンは桶の中に浸してあった布を取って固く絞る。……何となく、必要以上に固く絞っているような気がしなくもないが。ムウはやや青ざめながら、冷や汗をかく思いでその手の動きを見つめた。
 手際よく絞った布で素早く両手の水滴を拭き取ると、シオンはふいに右手を伸ばす。突然視界を覆った手の平に、ムウは思わず眼を閉じた。と、苦笑するような気配があり、幾分厳しさの和らいだ声が降って来る。
 「何を身構えている。いくらわたしでも病人をぶちのめしたりはせぬぞ」
 「別に、……そういうつもりでは、ありません」
 決まり悪さを誤魔化すように、少し視線を逸らしながら答える。シオンは黙ったままムウの前髪をそっとかき分け、冷えた布をそこに当てた。
 「……すみません」
 眼を伏せたムウをじろりと睨み、厳しい口調でシオンは言い放つ。
 「わたしに謝ればその風邪が良くなるとでも?」
 「…………」
 「謝るくらいなら、初めから身体に気をつけろ」
 「……気を、つけます……」
 「ならば良いが」
 軽く溜息をつきながら、シオンは傍らの薬壷に手を伸ばす。……いつもよりも多少、乱雑に。病中の気の弱りもあいまってのことだったろうか。何種類もの植物を手早く選り分けて擂り鉢へ放り込むその動作に、ムウはいささかの心細さを感じた。
 「――シオン」
 「何だ」
 「……もしかして、怒ってますか」
 「当たり前だ」
 「……もしかして、あの……本気で、腹立ててます?」
 暫し手を止めて、シオンはムウの顔を見据える。質問者はと言えば、この時点で既に自らの発言を後悔し始めていた。
 「ああ。もちろん」
 悠然とした口調で答えてシオンは、口元に僅かの笑みを作ってみせる。しかし師のその表情に、ムウは思わず蒼白になった。目が全然笑っていない。
 「少しはお前も懲りるといい。無理の結果がこれだ、わかっているな」
 傍らでこれ以上なく青ざめたムウにもう一度ちらりと視線を投げて、シオンは薬壷に手を伸ばす。申し訳ありませんと再度謝罪の言葉を口にしそうになって、ムウは危うく踏みとどまった。口に出したところで、現実にすでにかけている迷惑が帳消しになるわけではない。むしろこの人の怒りを増すだけだろう。
 「……肝に、銘じます」
 「そうしてほしいものだな。――じきに出来るから、もう少し寝ていろ」
 言いながらもシオンは、手を止めずにてきぱきと薬を調合する。その傍らで眼を閉じながら、ムウは軽い自己嫌悪を覚えた。……忙しい人なのに、すっかり余計な手間をかけさせてしまった。本当ならもうとっくに、教皇の間で執務についている時間だというのに。考え出すと芋蔓式に様々な懸案が脳裏をよぎって行く。そろそろ皆も不審に思い始めているだろう。事情はちゃんと伝わっているのだろうか……。
 思考力の鈍った頭でぐるぐると同じことを考えているうちに、意識は再び混濁して行く。ああいけない、もう少し……薬を飲むまでは起きていないと……。
 思考の片隅でそう思いながらも、いつしかムウは眠りの淵に落ちて行った。


 煎じ終えた薬を片手にムウに声をかけようとしたシオンは、微かな寝息を立てて毛布の中に沈没するように眠っている病人の姿に、思わず苦笑した。
 「ムウ?」
 そっと呼びかけてみるが、反応は無い。いずれにせよ薬は飲ませなければならないので即刻この場で叩き起こしても良いのだが、そこまでするのは幾ら何でも気の毒というものだろう。シオンは黙ってムウの枕元に身を屈めた。病人に起きる気配はまったく無い。とは言え、眠りの中でも浅く苦しげな呼吸は、傍目に見てさえ酷く痛々しかった。
 熱を帯びて既に乾きかけていた額の布を再び水桶に浸してから、シオンはもう一度弟子の様子を伺う。身体も相当きついのだろう、額にも首筋にもうっすらと汗が滲んでいた。眠りについたというよりは、どちらかといえば糸が切れたように意識を失った、という印象である。……直前まであれほど無理をしていたのだから、致し方も無い。溜息をつきつつも滲んだ汗をそっと拭いて、シオンは明け方からの弟子の言動を思い返す。恐らくは師である自分に対して心配をかけまいとしていたのだろうが。思わず微かに苦笑が漏れた。……まったく。
 無言のまま、静かにシオンは手を伸ばす。そうして透き通るような金の髪に、長い指をそっと絡める。病人は、それでも起きない。厳しかったまなざしをゆっくりと和らげて、シオンは暫し慈しむように、眠り続けるムウの髪を優しく撫でた。
 閉ざした板戸の隙間から差し込む光が、その淡い色をほのかに染めた。


 途切れがちな意識の表面を掠めるような感覚に、ムウはふと眼を覚ます。重い瞼を閉じたまま、その心地よさに暫く浸った。何か……とても暖かい。手……?誰かが、髪を撫でている。一体どうしたというのだろう。信じられないほど、優しい――
 次の瞬間、冷水を浴びたようにムウは正気を取り戻した。うっかり声を漏らさなかったのは奇跡に値するだろう。内心動揺しつつも辛うじて眼を閉じたまま、何とか冷静になってもう一度考える。 ……しかしやはりどう考えても、今この家にいるのは自分以外にあと一人しかありえなくて。というか、傍らの小宇宙はどう考えてもその人のもので。
 ――さっきまで、あれほど怒っていたくせに。予測外の事態に内心かなり混乱しながらも、ムウは本能的に寝た振りを続けた。何となく、今ここで眼を覚ましては……まずい。多分。
 ポーカーフェイスの修行があるとしても、これほどの試練はそう無いだろう。半ば思考停止状態のまま、ともかくも必死にムウは寝息を装った。

 ……だから本当にこればかりは、運が悪かったとしか言いようが無い。己の全神経を一点に集中しつつ、細心の注意を払いながら持てる小宇宙の全てを賭して、まさしく全身全霊の命がけで寝たふりをしていたムウにとっては、それは全く予測範疇外の出来事だったのだから。
 そう、極めて微妙かつ絶妙なバランスで成り立っていたその空間に、その時突如として――しかも思ってもみなかった方向から、激しいノックと共に大音声が降って湧いたのだった。

 「おはようございます! 教皇様はおいでざんすかー!」

 来客!?こんな時に!?
 普段は冷静沈着で知られる牡羊座のムウも、今回ばかりは余りにも不意を突かれすぎたらしい。張りつめていた集中力を忘却の地平の彼方に置き忘れるほどにうろたえて、閉じていた眼を思いっきり開けてしまったのであった。
 そしてもちろん次の瞬間には、心なしか手を止めたまま固まっているように思われる様子のシオンと、まともに眼が合ってしまったのであった。
 沈黙が、5秒ほど落ちた。

 「……起きていたのか」
 「……いえ……そういう、わけでは……」
 「……なるほど」
 「シオン、ちょっと……待っ」


 それは昇り始めた太陽もそろそろ高くなってきた、ある日の朝のことであった。一軒の小さな家の前で太陽の光を背に浴びながら、一人の男が困ったように佇んでいた。中の住人に言伝があるのだが、どうも入るに入れない。扉の向こうから漂ってくるのは、何やら殺気めいた不穏な気配。そうこうしているうちに、部屋の中がやたら騒がしくなり出した。その内容まではよく聞き取れないが、辺りには言い争いでもしているかのような喧騒が漏れ聞こえてくる。男はほとほと困り果てた。入るに入れないが、用件を伝えるまでは帰るに帰れない。

 「――五月蝿い!いいからお前はさっさと薬を飲んで寝ろ!」
 「そんなに逆上しなくったって、いいじゃないですか!病人病人、言わないで下さい!」
 「病人だろうが!」
 「明け方その病人相手に本気で戦闘モードになっていたのはどなたです!」
 怒鳴り声の応酬が止んだかと思えば激しく咳き込む音。窓辺で遊んでいたスズメが数羽、ぱたぱたと音を立てて飛び立って行った。

 「あのう、ええと、い……いるんざんすよね?」
 内部の騒音に思わずしり込みしながら、どうしても二度目のノックができないでいるヒドラの市だった。



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  救えないほどの照れ屋が2人もいるよ…。今回一番気の毒でしたで賞は文句なしにヒドラの市さんに。
  いやしかしほのぼののままで終わらせようかと一応何日かは悩んでみたのですが、
  勢いって怖いですねえ……ウワーッハハハハ。
  お後のことはご想像のおもむくままに。

  ……とか言っておきながらこの話、まだまだ続きがありますの……(いやー!)

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Witten by T'ika /2004.4.5〜