1. 風 邪




 それはごく何気ない、ある日の暁の刻のこと――



 「どうした、ムウ。どこか具合でも悪いのか」
 いつもよりも幾分遅い時間に起きてきた弟子の動作が何となくぎこちないように見えて、シオンは思わず問いかけた。心なしか呼吸も少しだけ苦しそうに見えるし、普段よりもほんのりと、頬も紅いような気がする。
 「いいえ?」
 さらりと笑って、ムウは伸ばされてきた手のひらをさり気なくやり過ごす。シオンはかすかに顔をしかめた。
 「ムウ」
 「はい?」
 「額、触らせてみろ」
 「大丈夫ですよ、ご心配なく」
 軽い口調で言葉を紡ぎ、ムウは柔らかく微笑んだ。するりとシオンの手をすり抜けて石の壁で仕切られた部屋を横切り、小屋の隅に置いてあった水桶を取る。そのまま足早に外へ水を汲みに行こうとした瞬間、しかし戸口の前には、シオンが立ちはだかっていた。
 「シオン」
ムウは驚いたような顔で笑う。
 「意外と心配性なんですね、あなたは。わたしのことでしたらお気遣いなく。この通り何も悪いところなどありませんよ」
 その言葉に頭を振って、溜息ひとつ。板戸に寄り掛かりながら、シオンはぞんざいにムウの持っている水桶を指した。
 「ともかく、水汲みならわたしがする。貸しなさい」
 右手を差し出して、ムウを促す。申し出を受けた方は戸惑ったように、その手を見つめた。
 「良いのだ、ちょうど外に用事もあったから」
 言い終えぬうちにシオンは風のようにすっと歩を進め、水桶ではなくてそれを持つムウの手を、いきなり、物凄い速さで鷲掴みにした。


 ……いや、しようとした。


 一瞬触れた右手の感触だけ残して、ムウの姿は突然その場から掻き消えた。声がしたのは背後から。
 「な、なにするんですかシオン」
 「おまえこそ何のつもりだ。会話の途中で前触れなく瞬間移動とは、このわたし相手に随分と礼を失した真似だな」
 「いきなり掴みかかってきておいて何をおっしゃるのです」
 「とぼけたことを。大丈夫だと言うのなら逃げ回っていないで、大人しく額を触らせろ」
 牽制の姿勢で両者対峙することしばし。ふっと笑いを含んで、困ったようにムウは言った。
 「シオン、見ての通りわたしは健康ですよ。いったい何を気になさっているのかわかりませんが、そんなに心配しないで下さい」
 もう一度、シオンは大きな溜息をつく。さっき少しだけ触れた右手は、酷く熱かったような気がした。
 「ムウ。いいからこっちへ来なさい」
 「……あなたはもうそろそろ時間でしょう、教皇の間へ行かないと」
 「いいから」
 じり、じりと二人のあいだで間合いが測られる。夜明け前の静寂を、小屋の隅々で震え始めた無数の物体の微かな音が、断続的に破った。
 「ムウ。わたしの言うことが聞けぬのか」
 「……ですからそれはあなたの杞憂だと、何度も申し上げているでしょう。わたしは元気です、見ておわかりになりませんか?」
 不穏な気配が室内を満たす。強大な圧力を伴った黄金の小宇宙が二つ、相手を説き伏せるかのように、ゆっくりと膨張し始めた。お互いの動きに備えて両者睨み合ったまま、もはや迂闊に動くこともできない。時間だけがのろのろと、嘲るように過ぎて行く。
 乾坤一擲。先に痺れを切らしたシオンが、光速の動きでムウの眼前に迫った。間一髪。瞬間移動で逃れたムウが、そこら中の危険物を浮き上がらせて己の周りを取り囲む。素早い動きで再度向き合った両者の枷は、ほとんど同時に弾け飛んだ。
 「熱を測らせろと言っているのがわからんのか!!」
 「熱などありません!!」


 ……戦闘勃発。


 それからほんの数分。鑿だの金槌だの錐だの薬缶だのが部屋中を飛び交い、はたき落とされたそいつらが深々と床に突き刺さり、病人のカロリーがこれ以上ないほど無駄に消費された挙句、決着は呆気なく付いた。術者の意識が遠のいたのか、空中に浮かんだ大鍋がぐらりと揺らいだその瞬間、丁度ムウに向かって発動したシオンの金縛りが見事に決まったのだ。
 「ムウ!?」
 まさかここまでまともに食らうとは。慌てて金縛りを解き、内心うろたえながら、崩れるように倒れこむ弟子の体を受け止める。
 そしてその腕の中の体温のありうべからざる感覚に、シオンは目を見開いた。
 「……馬鹿者が」
 「…………」
 受け止めた体は、燃えるように熱かった。



 「大丈夫とは、いったい誰の話だ?」
 縛り付けるようにして病人を布団の中に押し込めながら、シオンは容赦なく怒りのオーラを発していた。ムウは俯き、眼を伏せる。
 「……大したこと、ありませんから……」
 「この状態の、どこが大したことないと?」
シオンはムウを睨みつけた。
 「…………」
 「いいから今日は休め。これは命令だ」
 「……でもシオン、修復が終わっていない聖衣だって山のようにあるんです」
 「そんなものは後でいい。聖衣より先に治すものがあるだろう」
 「修復は有事の備えです、ないがしろにするわけには行きません。大体、わたしにそう教えてくださったのはあなたでしょう」
 「人の教えは正しく応用しろ!わたしはおまえに聖闘士には自己管理能力が不可欠だとも教えたはずだぞ」
 「そんなこと言ったって、聖戦の後始末で大変なこの時期に、わたしだけ寝ているわけには行かないじゃないですか」
 「呆けたことを言うな!おまえは聖衣の修復と自分の体とどっちが大事なんだ!」
 「それを言うならあなただって、ご自分の体も省みずに教皇の間に缶詰状態じゃありませんか!」
 「それとこれとは話が別だ!!」
 「同じです!!」


 戦闘勃発!!


 ……それからさらに数分。これ以上なくどうしようもなく為す術もなく、極めて非常に甚だしく不毛な口喧嘩が繰り広げられた挙句、しかし流石に我に返ったシオンが病人を押さえ付けるように床に寝かせて、闘いは漸く終了した。
 「……まだ黄金聖衣の修復さえ終わっていないんですよ」
 「……」
 「早く終わらせてしまわないといけないのに」
 「……」
 「いつまた闘いが起こるかわからないじゃありませんか」
 「……」
 「この人手不足の中、他の皆が牛馬のごとく働いているというのに」
 「……」
 「……あなただって眠る暇もないくせに」
 「…………」
 「シオン、やはりアテナの聖闘士としてわたしには……」
 「そんなことどうでもいいから、おまえは寝ているんだ!」


 ――それはごく何気ない、ある日の暁の刻のことであった。



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  もうごちそうさまって感じですね!好きなだけ痴話喧嘩繰り広げるがいいさ!
  しかしどさくさにまぎれてものすごい問題発言してる人がいるなあ。
  そんなことどうでもいいから……?
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Witten by T'ika /2004.2.8