9.言葉 -Sion- 夢の残骸を、見下ろしている。さざめく無数の星屑の下、その人のすべてを焼き尽くしながら。 身の内を切り裂く激痛に、耐え切れず歪んだ瞳の苦悶。切情を滲ませたその奥底で、音もなく砕ける見えない亀裂。壊れた翡翠に夜空が映る。映った夜空のただ中に、長く尾を引いて星が飛ぶ。淡く儚い、ねじれの軌道。すれ違ったまま離れて行くその永遠の隔絶を、哀しいと言ったのは誰だったか。静まり返った漆黒の空間をどこまでも、白銀の直線は伸びて行く。 那由多の距離に、隔てられて。 ――時の流れさえ死に絶えたような無音の中で、シオンは足元にうずくまるムウの双眸を、まばたきもせずに見下ろしている。忘れ得ぬあの頃の面影を変わらずに残した、何よりも愛しい、翠緑の瞳。浅く苦しげな呼吸の下で、血の滲んだ唇がかすかに動く。何かを言おうとするかのように、何かを伝えようとするかのように、途切れ途切れの乏しい息が、沈む闇夜を刷いている。渾身の力で絞り出されたのだろう呼気の流れはささやかすぎて、どんな声にもなりはしない。ただ繰り返されるその試みだけが、世界の静謐を乱している。 差し出されようとする言葉のひとつも許さずに、シオンは愛弟子のあらゆる動きを封じ込める。肺腑を押し潰すほどの苛烈な力で、僅かな呼吸さえ断ち切りながら。決して声になど出させはしない。聞けば進めなくなると、判っている。きつく食い込ませた桎梏の強さに、震える息には喘鳴が混じった。つらそうに喘ぐ体は身じろぎもできぬほど固く締めつけられて、それでもまなざしだけはかろうじて、眼前の黒影を見上げていた。声にもならない無音の言葉。いつの間にか大人びた懐かしい色彩が、黄金の聖衣と長い髪に映えて、哀しいほどに、綺麗だと思った。 戦いを決意したその瞬間から、この手で殺すと決めていた。自ら選んだこの結末を、他者の手に委ねないことだけが、私に示せる唯一のせめてもの証だったから。 見据えた視線は逸らさない。消えた言葉も推し量らない。闇に紛れた黒衣の下で表情も変えず、シオンは投げかけられたその人の想いを切り捨てる。落ちた破片を見やることもなく。切断を突きつけるそのたびに、その人の気配の奥深いところで、音もなく何かが砕けて散った。爛れた傷口のような亀裂から、血が噴き零れては冷えて行く。すぐ目の前に横たわる、果てしなく遠いその場所を、氷のまなざしでシオンは見下ろす。手を差し伸べることは、決してできない。触れ合うことも、決して無い。切り刻まれて行くいとおしい輪郭を、仮面の両眼でただ見つめている。 何よりも酷い仕打ちをしている。むごい行いを、しようとしている。教え授けた真理も価値も、自らの足で踏みにじり、それでもなお寄せられ続ける一途な思慕さえ踏みにじり、二人の過去を繋ぐささやかな証にまでも、拒絶の意思を叩きつけて。孤独の中から救い上げられた幼な子にとって、それがどんな意味を持つ光だったのか知っている。そして今それを根こそぎ滅ぼし尽くそうとするような己の行為が、あの山脈で孤独な十三年間を生きてきたという彼に対する、どんな裏切りなのかも、知っていた。 傷跡も慕情も何もかも、懐かしいその瞳が映していたから。 すべて分かって、踏みにじった。 残酷な振る舞いだと知っていた。残酷な振る舞いを、敢えてした。思い出のかけらも蘇らないように。愚かな思慕など消え去るように。迷いさえ残らぬほど強く深く、この身を憎んでもらえるように。僅かの狂いも不自然もなく、お前の鼓動を止められるように。 哀しみは外には現さない。どんなに心が引き裂かれても。この胸の内の痛みになどは、何の救いも力も無いと知っている。許してほしいなどとは思わない。贖罪さえも、望みはしない。願いひとつであがなえるほど、たやすい罪でも、絆でもなかった。 ただ、切り刻まれて行くお前から目を逸らさずにいることだけが、そしていかなる容赦も減免もなくその痛みを独り受け止めることだけが、お前のために許される、私のたったひとつの誠実の形だったから。 ……だからこの胸の真情さえも、お前に届く必要は無い。 冥府の闇に囲まれて、まばたきもせずに見下ろしている。殺されて行く、その人の姿を。冷たく降らせた視線の先に、低くうずくまるその身体。想像の中で幾度も思い描いた、しなやかな青年の輪郭をして。輝く黄金の聖衣の挟間には、長く伸びた金髪がさらさらと流れて、石畳の上にまで散っていた。かすかな星屑の輝きにも似た、その淡い光が美しかった。 地を這う無防備な背中を透かして、左胸の急所がほの見えている。 固く閉ざした扉の向こう、軋んだ音を閉じ込める。とどめる術はどこにも無い。手を差し伸べる方法もどこにも無い。戦いに習熟したこの腕は寸分違えることもなく、お前の心臓を貫くだろう。血に濡れたお前の屍を固い靴底で踏みしだき、振り返ることもなく私は行くだろう。一滴の涙も落とさない。どんな哀悼も残さない。記憶を諦め、記憶を裏切り、お前の生さえ否定して、血塗られた道を私は行くだろう。地上の安寧を、守るために。 呼吸を鼓動を、言葉を殺す。乾いた胸の奥底に、最後の姿を焼き付ける。見開かれたその双眸に映るもの。……闇をまとった私の姿に、お前は何を見るのだろうか。 微笑むことは、もうできなかった。 遠く遥かなあの日々の、優しい輝きを想い出す。時の果ての孤独に射し込んだ、たった一条の美しい光。お前はきっと、知らなかっただろう。長く冷たい暗闇に沈んでいた私の世界の色彩を、お前の存在がどれほど鮮やかに変えたのかを。 その声を、微笑みを、憶えている。まるで大切な呪文をささやくように、繋がれた絆を確かめるように、忘れられたこの名を呼んでくれた。仮面の下に隠された素顔をまっすぐに見つめて慕ってくれた、翡翠のまなざしは温かかった。永遠のような天と地の片隅で、重ね合った時間は至宝のようにいとおしかった。ただ、そうやって降りつもって行った想いの中身が口にされることは、ついに最後まで無かったけれども。 ……望んではならなかったその時を、訪れるかどうかも判らなかったその時を、心の片隅で夢に見る。仮面のくびきから解き放たれて、届く言葉のその瞬間を。胸の内を伝える短い言葉に、お前は微笑んでくれただろうか。澄んだ瞳ではにかんで、染まった頬を綻ばせて。 冷たい雪の山脈に、光の花が咲くように。 夜を蝕む闇のただ中で、シオンはムウの双眸を見下ろしている。乾いた仮面の両眼で、那由多の距離の彼方から。見返してくる翡翠の瞳の奥には、今もなお湛えられた想いの残滓が、かすかな動きで揺れている。そこに憎しみの影は無い。ただ哀しみに近いものだけが、さざ波のように満ちている。 食い込ませた力は苛烈で強い。苦しげな吐息をつきながら、それでもなお懸命に、辛うじて見上げてくる愛弟子の表情を睨み据えるようにして、シオンは闇夜の底に立っている。差し出され続ける想いの糸は、氷の視線で断ち切るように。慕う気持ちなど捨て去ってほしかった。追憶の指先も届かぬほどに遠く切り捨てて、決して顧みないでほしかった。……それなのにこの期に及んですらも、お前は私を忘れ得ぬのだろうか。 過去を殺す。記憶を殺す。お前の想いを、魂を殺す。孤独な子供を置き去りにした、かつての己の無慈悲を思う。そして今また彼のすべてを殺し尽くそうとしている己の、残酷なまでの非情を思う。お前に慕われる必要は無い。慕われる価値は既に無い。この心が流す涙など、誰にも知られなくていい。お前の方から私を想う、理由などはもう、どこにも無い。 ……ただ。 それでも、私は。 背いたこの身に悲しみなどが、許されるとは思わない。それでもこの心の深奥が今もなお、お前にささやきかける傲慢が、ほんの少しなりとも許されればと願う。 絶望のような気持ちで、願う。 遥か彼方で筋交いながら、幾つもの尾を引いて流星は飛ぶ。冷たい夜空に残された、まぼろしのようなかすかな軌道。届かないと知りながら言葉を発す。ただ一言の、本当を。 お前のすべてを踏みにじりながら。 愛している。 |