8. 交叉とねじれ -Intermission-




 セピア色の書物はいつも、世界の向こうからやってきた。
 すり切れた表紙は色褪せて、長い時の経過にくたびれていた。使い古されたページの端々は風化して、触れれば崩れそうなほどにもろかった。危うい力加減でめくってみると、見開きの中心部はまだ柔らかな象牙色に見えないこともなかったけれど、周辺の方になれば焦げた濃茶の変色跡が、粗末な明かりの下でさえも見て取れた。
 それでも主には物珍しさから、ムウはそれらの古い本を繰り返し眺めてはうっとりと溜息もついたし、すべての図版を暗記するほどに何遍も、終わりまで通して読みもした。人里離れた山奥の館に持ち込まれ続ける、古びた書籍の束からは、遥かな海の国の香りがした。前の五冊が終わったら、また新しい次の五冊を。どちらから言い出したわけでもない暗黙の習慣が、二人の間に定着したのはいつの頃からだったろう。いずれにせよシオンと出会うまでは見たことも聞いたこともなかった、そしてシオンと暮らし始めてからは毎日の風景の一角を常に占めるようになったその物体は、子供にはとても明るく暖かく、好ましいものとして記憶された。
 地図や星図や、生き物の似姿。時には数字や記号や色々な向きの矢印が並ぶ奇妙な挿絵を眺めながら、ムウは穏やかな音楽のように耳朶を撫でる、シオンの優しい声を聞いた。書かれた内容をかみくだきつつ、幼い耳にだけ届いては消える、ささやかで贅沢な魔法の言葉。夜もかなり更けた室内は暗く、粗末な灯し火が数本だけ揺れていた。細く放たれる静かな光はわずかな範囲のみを暖色に染めて、部屋の隅には墨汁のような漆黒が、外界の暗闇をしっとりと招き入れていた。閉ざした窓さえ忘れるほどに、いつしか石造りの壁はまるで透き通り、遠い星々の瞬きの気配までもが、刹那の時間に染み入った。
 天の果てから永遠のような、宇宙の静寂が降り注いでいた。



 「――つまり、同じ平面上にあるのならば、直線はほとんどの場合交叉する。交わらないのはこのように、平行になっている時だけだ」
 開いたページの挿絵の中の、いくつかの線を指し示してシオンが言った。手元の机には羊皮紙とペンが細い光に照らされて、淡い金色の世界の中に、長く濃い影を引いていた。
 「平面、というのは二次元の世界だ。奥行きのない一枚の紙の上で起こることだと思えばいい。……わかるか?」
 傍らの子供の様子をちらりと確かめ、足りなかったのであろう言葉をシオンは補う。ムウは言われた内容を反芻するようにしばらく黙して、やがて考え考えしながら答えた。
 「ええと、つまり、同じ紙の上に置けるような関係なら――平面が同じなら、真っ直ぐな線は全部、どこかで交わるんだってことですね?……その、平行になっていない限り」
 「ああ、そうだ」
 出来の良い愛弟子を褒めるように、シオンは口元を緩めて見せた。子供の頬には一瞬だけ、ほんのりと美しい朱が差した。
 ぎこちなくペンを執りながらムウは、教わった物事を記憶するために、広げた手元の羊皮紙に、異国の単語を書き並べた。交叉、平行、同一平面。慣れない書き取りの練習も兼ねて、言葉をひとつひとつ声に出して読みながら、頭の片隅でふと考える。線が交わったらいつかは会える。平行だったら永遠に会えない。それならば余程のことがない限り、二人は必ず会えるのだ。
 声には出さずに子供は思って、伏せた瞳でひそやかに笑んだ。

 灯火を入れた机上の器が、小さな炎を反射して光る。破壊されたチベットの僧院で遠い昔に使われていた、バターランプのくすんだ黄金。弱くて優しい素朴な明かりは、暗い夜空の底から浮かび上がる、六等星の瞬きに似ていた。薄く乏しい高山の酸素に火勢は強まることもなく、炉の中の焚き火も随分と控えめにくすぶっていた。
 しんしんと冷える山脈の館は、もう間もなく夜が明ける頃だった。
 シオンは何も語らなかったし、ムウも何ひとつ問うたことなどなかったが、それでも事情は知れていた。聖域との時差のせいで、深夜に教皇の業務を終えたシオンが遥か東のこの土地を訪れるのは、ほとんど明け方になってしまう。もっとも、日の出ないうちから起きて働くのは物心つく前からの習慣だったから、ムウの方はそのような毎日を、とりわけつらいなどと思うことはなかった。そればかりか僅かでもその人の傍らで時間を過ごせる今の境遇に、むしろ感謝の想いさえ抱いていた。ただ、眠る暇を削ってこの場所を訪れてくれる師父の身にかかる負担のことを、考える時にだけ心が痛んだ。
 そしてシオンは子供の瞳を時おり掠めるその哀しみの陰を見て、これまでずっと孤独だったのだろう幼い愛弟子の過去を思い、また、その彼を今も独り待たせ続けている己の、呪いのような無慈悲を思った。



 透徹し切った静寂の中、羊皮紙をかするペン先の音がふいにやむ。伏した視線はそのままに、わずかに小首を傾けながら、ひとり言のようにムウが問うた。
 「だけどシオン、同じ平面の上にない時は、この直線はどうなるのですか?」
 じっくりと突きつめて考えて行くうちに、独力でそこまで気が付いたのだろう。促さずとも自分からこの種の質問をしてくるところに、この子供の本当の聡明さがある。深い色の双眸を、ほとんどそれとは判らぬほどに和らげながら、シオンは密かにそう思う。
 「良い質問だ」
 唇の端をほんの少しだけ持ち上げて、弱くて脆いページを一枚、シオンは慣れた手つきで器用にめくる。その一連の動きの跡を、ムウは惹かれたような表情で見つめた。
 「もし仮に完全な二次元の世界ならば、今教えた通り、直線は交叉するか平行になるかのどちらかしかない。しかしお前も気づいたように、三次元の空間では事情が違う」
 言ってシオンは法衣の袖を静かに掲げ、夜の染み入った室内を示す。その手を追って、ムウも見上げる。金色に輝く灯し火の明かりが、漆黒の空間のただ中に、まるく球形を成しているのがふと見て取れた。切り絵のようなその光景は、暗闇に鮮やかなほどの印象を残した。
 「我々の周りの世界をご覧。例えばこの床の縦の枠線と、あの天井の横の枠線を、どれだけ伸ばしても交わらないだろう。現実の世界は三次元で出来ている。そこでは、物事は常に同じ平面の上で起こるとは限らない」
 ――縦と横との広がりは、無限の高さに貫かれている。この三次元空間の世界には奥行きというものが発生するから、放たれた二直線が本当に交わることはほとんどない。たとえ見かけ上は二つの線が重なって、交わっているように思えても。
 ささやくシオンの指が書面を示す。引かれてムウは、視線を戻す。古びたページに刻まれた文字列。挿絵の中の点線と実線。低く穏やかな声が降る。同じ平面上にはない状態、交わったように見えて交わっていないこの状態を、数学の言葉ではねじれと呼ぶ。ねじれの位置にある二直線はすれ違うだけで、触れ合うことは決してない。
 「あの流れ星を、見ただろう?」
 無言で問いかける子供の視線を受けて、静かな瞳でシオンが微笑う。白銀の軌道をムウは思い出す。ぶつかることもなく、流れて消えた。
 部屋に染み入る、暁の闇。透き通るような静寂が音もなく擦れて、澄んだ空気に冴えてこだます。世界で一番空に近い土地で、宇宙の時間に包まれて。
 山脈の夜がもうすぐ明ける。


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Written by T'ika /〜2005.11.28