10.喪失 -Mu-




 漆黒の風が吹いている。ひび割れた石畳に砂塵を巻き上げ、歪む大気を引き裂いて。神殿の岩場の亀裂から、深く虚ろな音がする。悲鳴のようなその旋律が、体の真芯を擦り抜けて行く。見上げた視界を塞ぐ影。焼け付く痛みに呼吸が止まる。立ちはだかる黒衣の陰に隠れて、傾き捻じれた空ももう見えない。
 ……甦るのは、闇に散る赤。

 十三年前のあの日も風が吹いていた。



 ――聖域の最奥部、岩の隘路を子供は走る。この地上で最も天に近い場所へ。その人の小宇宙が、弾けた方へ。痺れかけた思念のどこかでは、恐らく手遅れだとわかっていながら、それでも子供は一心に走る。その人がいたはずの方向へ。幻の示した方向へ。眼窩の奥に焼き付いて消えない、鮮血の残像を振り払いながら。
 唸るような風が吹いている。その風に乗って、喧騒が聞こえる。虚空を震わす鳴響の中、異変を叫ぶ雑兵の声。遠く十二の宮の方角に、人の気配が恐ろしい速度で増えている。闇のはざまに点々と、小さな篝火が幾筋も燃える。切迫した数多の声の叫ぶ言葉が、徐々に鮮明になって行く。
 子供は耐え切れず耳と目を閉じる。走りながら、諦念と共に。爪を立てた素肌が酷く粟立っている。哀哭のような伝令の呼号。……知らせは、訃報であるはずだ。
 閉ざそうとした聴覚に、その声は飛び込んできた。
 ――アイオロス、反逆。女神殺害を試みた罪で、抹殺の勅命が教皇より下りた。

 鈍く混濁した意識の隅で、違和感は緩やかにやってきた。

 傷ついた足が漸く止まる。心臓が割れ鐘のように鳴っている。体が求める呼吸さえ忘れて、子供は呆然と立ち尽くす。……何かが、おかしい。
 ――そんな訳がない。
 最後に感じた、あの小宇宙。抹殺の勅命など下せる状態にあるはずがない。あんな弾け方をしたのだから。あれだけの血が視えたのだから。……こんなにも気配が、絶えているのだから。仮面の下に隠された、その人固有の波動の形。子供だけはそれを、知っている。知る者だけが、とらえられる。こんなにはっきりと、消えたのに。絶対に変事があったはずなのに。どうして誰も教皇の無事を、確認しようとしないのだろう。無事では有り得ないはずのあの人の言葉が、どうして何事も無かったかのように、今もなお淡々と伝えられて来るのだろう。誰も気づかないのは何故。……いないはずの人が、何故。
 瞬間、崩れ落ちるように、悟った。言葉さえなく、ただ、呆然と。
 そして事実を悟ったその瞬間、子供は自分の役目を知った。

 ……知って、しまった。



 あの日の空にも星が出ていた。満天の宇宙から零れ落ちるように、星だけがいつまでも瞬いていた。見上げた瞳に夜空が揺れる。視界に焼きつく冥府の衣。魂を貫く苛烈な殺気。この世の果てから降り注ぐ、宣告の声をムウは聞く。蔑むように立つ眼前の人の、抑揚さえ消えた声を聞く。怒りの重みを突き付けるような、恩情の欠片も無い言葉。静かな声が、吐き捨てる。この手で自ら殺してくれると。冷たい声が、吐き捨てる。今でもお前が可愛いと。叩きつけられた皮肉のその残酷に、鼓動の止まる、音がした。
 動かぬ体に刻みこまれる、強く明瞭なその殺意。過去のすべてを拒絶する、星より遠い、その心。黒衣の輪郭が溶けて滲んだ。夢の残骸が、見えた気がした。
 軋む心の片隅で、もう貴方の隣には、私の居場所は無いのだと思った。
 熾烈な小宇宙が天を衝く。成す術もなく見上げながら、漠然と思う。幼く愚かなあの頃の私の、一体何が違っていたら、この現在を変えられたのか。
 強張ったままの体に襲いかかる激痛に、最後の呼吸さえ凍りついた、その時。
 遥か背後の闇を破って、蒼白い炎が高らかに燃えた。



 異変を察知したその人の眼光が、ゆっくりと逸れる。きつく肺腑を締め付けていた力がほんの少しだけ弱まって、思わず息をつくように、ムウもまた彼方の火時計を振り返る。中空で千切れたまなざしの糸が刹那の間、風に引かれて夜の空を泳いだ。暗闇を切り裂いて輝く十二の炎の色彩に、網膜の裏が少しだけ痛い。

 指先から零れ落ちた過ちのように、そうして呆気なく視線は外れた。
 それが再びの永遠の切断になるとも、知らないままに。



 風鳴りだけが轟き渡る、長く果てしない数秒が過ぎた。驚愕と共に闖入者へと向き直るその人の思念の奥底の、戒めから外れたような僅かな乱れを、安堵とも寂寥ともつかぬ弛緩の中でムウは見た。前触れも無く現れた老人は穏やかな口調で、親しげとすら聞き取れる科白を発した。
 「久しぶりじゃのう、シオンよ」
 けれども幼い頃から長く見知った天秤座の黄金聖闘士の、常ならぬ剣呑な雰囲気にムウは気付く。一見静かな表情の奥で隠然と据わった両の眼が、未だかつて見たことの無いほどの、底知れぬ恐ろしさを湛えていることに。
 対峙した二人の間に張りつめた緊張で、生温い空気がびりびりと震えた。暗い石畳の上を、言葉だけは穏やかに流れ去る。その時、竦んだままの身の内を、不意に悪寒が滑り落ちた。縛り付けられたまま動かない己の体に、酷く冷たい焦燥を感じる。……老師の現れたあの瞬間から、シオンはこちらを一顧だにしない。
 完全に動きを封じこめられた、無益で無様なこの体。何ひとつ役立つことも無い自分の存在を、彼はもう完全に切り捨ててしまったのだと、そんな気がした。
 縋るような心で視線を投げる。先刻よりも開いた空間の先には、無窮の闇へと沈み込むような、背の高い黒衣の後姿だけが見える。佇むその人の横顔は、決して振り返ることは無い。
 もう二度と顧みてくれることは無いのだろうか。
 虚空に漂う風鳴りの音は、置き忘れられた子供の泣き声に似ている。吹き荒れる嵐のただ中で、老人の念動力が鋭く宙を裂き、星を散りばめた夜空を高々と、黒い長衣が音を立てて舞った。

 研磨された冥界の宝石のごとく、闇に煌めく漆黒のアリエス。星明かりの下に露わになった、凛と立つその人の懐かしい姿。心の一番奥底の、柔らかな場所に痛みが走る。気が狂うほど待ち侘びた人。蒼い星が照らす、その横顔は。
 決してこちらを見ることは無い。



 ――あの夜、吹き抜ける風の渦旋の中で、貴方に背を向けて、アイオロスを追った。それが使命だと知ってしまったから。他に道は無いと知ってしまったから。壊れた世界の残骸の上で、真実に気付いてしまったから。仮面に覆われて玉座に座る、その男が別人だということを。そしてそれに誰も気付いていないということを。恐らくは追われる射手座の聖闘士だけが、最後の証人であるのだろうことを。……そのような入れ替わりが行われてしまっている以上、貴方がもはや生きているはずが無かった。
 夜の闇の底に沈んだ岩山の陰で、そうして私は運命を知った。無力なこの身に突き付けられた、胸を引き裂くその事実。大好きだった貴方のために、私には何ひとつできないのだということを。してはならないのだと、いうことを。できることは、ただひとつだけ。命の絶えた人の亡骸を確認するためだけに進むのならば、戻って生者を助けるべきだった。
 それがたったひとつの、正解だった。

 間違えてはいなかったと知っている。あの選択が正しかったことを知っている。けれども酷く、悔やんでいる。あの運命に至る道を止められなかったことを悔やんでいる。叶わぬ追慕のような心で悔やんでいる。貴方を守ることができなかった。守ろうとすることさえできなかった。そしてその後の十三年間、この世の全てよりも大切だった貴方のために、私は何ひとつできなかった。気が遠くなるほどの長い長い間。葬送も追悼も、復讐さえも。
 誰もいないあの山脈でたった独り、幾千回も考えた。貴方を死なせたあの夜のことを。過ぎ去ったその後の歳月の意味を。あの日かろうじて追っ手から逃がすことができたアイオロスも、受けていた傷が元で程なく死んだ。幼い女神は帰らないまま。遠い真実は失われたまま。証明するすべなど何ひとつ無かった。玉座の彼が別人だということを。本当の貴方は違うのだということを。けれども射手座の逃亡を助けた反逆者の牡羊座が、たとえ言ったとしても信じては貰えなかっただろう。私の正しさの根拠はすべて、この世の誰ひとり知ることのなかった、貴方とのあの日々の中にしか無かったのだから。そしてあの仮面の下の素顔を今さら知っていたと言い張ったとしても、その真否を確かめられる者はもはや、同じ反逆者となってしまった五老峰の老人以外に、誰ひとりとしていはしなかったのだから。
 篝火が燃えさかるあの夜に、踵を返して射手座の小宇宙を追った、その一瞬の分かれ道のまま、私は貴方を見殺しにした。傍らに駆け寄ることも無く。亡骸を確かめることも無く。そのまま二度と、会うことは無かった。打ち捨てられた遺体を葬ることもできず。その死を世界に知らしめることすらできず。さよならの一言さえ、言えないままに。
 それが永遠の、決別だった。
 慕う心が自分を責める。何ひとつ役立つこともできなかった、無益で愚かな己のことを。あの時倒れた貴方の元にたどり着けていれば、もしかしたら運命は変わっていたのだろうか。それが叶わなくてもせめてあの時、教皇の正体を人々に信じさせることができていれば、そんなに冷たいまなざしで、貴方に切り捨てられることもなかったのだろうか。
 遠い昔流れ星に望んだように、私は貴方の傍にいられたのだろうか。
 届かぬ想いに引き裂かれながら、数歩の距離からただ見つめている。寂光の下に顕わになった、黒いアリエスの貴方の姿を。老師と向き合って問答を続けるその気配からは、いつしかあの凄まじい殺気が消えていた。哀しみにも似た透明な感情を心の片隅によぎらせながら、先刻までこの身に向けられていた冷たさを思い知る。呼びかけに一度も答えなかった貴方の、凍るようなまなざしを思い出す。名を呼び合った過去を否定する、それは絶対的な拒絶の表明。その眼は今も、私を見ない。重なり合った星々を隔てる永遠のように。
 本当はその傍らにはもう初めから、私の居場所は無かったのだろうか。


 記憶の深淵を彷徨うように、繰り返す問いの迷宮の中。遠くから不意に名を呼ばれて、ムウは我に返る。声のした方角を振り向いてみればそこには、いつものように深く、けれども真意の読み取れない眼差しで、こちらを見つめる老師の姿があった。
 「……ムウよ。あの火時計が消えるまで十二時間」
 全ての聖闘士にとって判り切っているはずの明白な使命を、敢えて老人は語ってみせた。
 ――その十二時間は何としても、女神を守り抜かねばならぬ。
 老人の手の杖が高く掲げられたかと思った瞬間、軽い衝撃が全身に走る。五体の全てを圧し砕くほどに締め付けていたシオンの金縛りは、第三者のたやすさではらりと解けた。
 決然とした声で促すように、サガたちを追えと老師は言った。乱れた心を見透かすように、意味深く降るその視線。……老人は全てを知っている。

 そうして再び、道は別たれた。言葉を交わすことさえも無く。

 衝き動かされるように、言われるままに、引き裂かれるようにその人に背を向ける。待て、と鋭く呼びつける、懐かしい声を肩越しに聞いた。
 視線をやることはできなかった。
 ……たとえどんなに間違っていても、貴方の瞳につかまれば、私は何処へも向かえなくなる。

 馴染んだ白羊宮を過ぎ去って、神域の暗がりをただ駆け抜ける。頭上の空には一面に、撒かれたような星屑の砂。次宮へ連なる石段へと足を踏み入れながら、ほんのかすかな視線の端で、一度だけ密かに振り返る。刹那の視界に焼き付いたのは、闇の中に凛と立つその人の、あまりにも懐かしく、遠い影。太く揺るがぬ小宇宙を放つ、黒い冥衣の、届かぬ背中。もはや傍らに場所は無い。私の立つ場所も、追いかける場所も。
 唸るような風が吹きすさぶ。乾いた瞳で泣きじゃくる、遠いあの日の子供のように。
 ……あなたのそばにいたかった。



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Written by T'ika /〜2006.11.28