7.星空 -Mu-




 肉を引き裂く苛烈な痛みが、内側から全身を焼いた。巨大な力が体のすべてに食い込んで、あらゆる動きを縛っている。
 「――サガよ、もう良い」
 遠いところで声がする。抑揚のない単音律。ムウは束縛に抗おうと試みる。試みるたびに、総身を走り抜ける激痛に息が止まる。首も胴も手足も動かない。鼓動の音だけが狂ったように鳴っている。思考の吹き飛んだ両耳の奥に、ムウのとどめは私がさすと、冷えた言葉が滑り込んだ。
 うずくまるムウを見やりもせずに、シオンはサガたちに命を下す。一刻も早く次の宮に向かえと、揺るぎなく発されたその指示に、三人は短い返答だけ残して立ち去った。遠ざかる足音を、背中の後ろでムウは聞く。待て、と呼び止めかけた声はしかし、咽喉の奥で絡まり合って、ほとんど空気を震わすこともなく消えた。倒すべき敵はまだ山のように残っているのに。今彼らを白羊宮から行かせるわけにはいかないのに。肺腑を締めつける金縛りの強烈さに、地面に縫い止められたまま、呼吸を続けることさえできない。
 淀んだ空気が頬を逆撫でる。遠くの岩山が、ごう、と鳴り、黒衣の端がひるがえる。振り返るその人の、懐かしい瞳の色が、震える心に深く突き刺さる。見つめ合った、その一瞬。胸骨を突き砕くほどの激しい痛みが、硬直しきった全身を、さらなる強度で貫いた。
 限界を超える衝撃に崩れ落ちかけた身体に、シオンは崩れ落ちることさえ許さない。そのままの姿勢に繋ぎ止められたムウの肢体をたわめるほどの、壮絶な殺気を放ちながら、言葉もなくゆっくりと歩み寄る。歩む姿が近づくにつれ、五体に食い込む力は厳しさと苛烈さを一層増した。石畳を擦る重たい布地の乾いた音が、耳鳴りの間隙をさやさやと埋めた。
 力のすべてを振り絞り、ムウは近づいてくるその人を仰ぎ見る。いかなる想いも撥ねつける、瞳の無音が冷ややかに降る。身の内を刺し抜く凄まじい殺意。底知れぬほど冷たい、怒りのかたち。霞んだ視界が映し出す、その輪郭を見つめながら、ムウは切断の音を遠く聞く。
 十三年。想い焦がれたその人の姿が、闇をまとって目の前に在る。




 あの日、光の溢れたまぼろしの跡に、子供は独り、取り残された。さよならの言葉も言えないままに。どんな言葉も、伝えきれぬままに。
 途切れたその人の気配はどこにも視えず、そうして彼がこの世のどこにも存在してはいないという残酷な現実に、疑いなどはもはや無く。それでも一縷の望みに縋るような想いで幾千回、この身は待ち続けてしまったことだろう。二度と帰らぬ、貴方のことを。亡きがらに会うことさえかなわずに幾千回、想い焦がれてしまったことだろう。その手を、声を、瞳の色を。
 たかだか十三年の月日など、それは二百三十年の孤高を生きてきた貴方には、瑣末なものでしかないのかもしれないけれど。私がどんな想いで貴方のことを考えたかなど、貴方は知ることもないのだろうけれど。
 それでも十三年は長かった。貴方の居ない時間は永遠のように長かった。話したいことがたくさんできた。謝りたいことも、たくさんできた。
 そして伝えたかったことが、あった。

 泣きたいほどに、そこにあった。




 待ち侘びた人がそこにいる。切ないほどに焦がれた瞳の蒼が、この身を真っ直ぐに見下ろしている。戦いはまだ始まったばかりなのに、こんなところで死んではいけないのに、身体が麻痺して動かない。
 静寂の中に、音がする。石畳を擦る、衣擦れの音。強大な小宇宙が砕けるほどに全身を締めつけて、五体のことごとくが悲鳴を上げた。這いつくばった身体の上に、静かに立ち止まる気配がする。抑圧に逆らって無理矢理に、ムウはその人の顔を見る。冷酷といっても良いほどのまなざしが、夜の空を背景に見下ろしている。
 「――ムウよ」
 起伏のない声が落ちてくる。闇を従えて立つその人の、瞳のどこにも血の赤は無い。
 「私に対する反逆の数々」
 静かな言葉の切っ先が、胸の真芯を貫き通す。気が遠くなるほどの、その痛み。
 「――覚悟は出来ていような」
 突き放すように、その人が言う。蒼い氷の山脈よりも、遠く冷たく、懐かしい声。どれだけの想いで見上げても、応えが返ることはない。すくむ身体が本能的に、生命の危険を感じ取っている。ここで死ぬわけにはいかないと、抗わなければいけないと、解っているのに。
 凍りついたように身体が動かない。



 見上げる視界に夜空が映る。一面の星屑を背景に、その人の黒影がくっきりと立つ。背後に続く無窮の闇には、流れる銀の星の跡。
 あの日、一緒に見た星空の。
 どこかおぼろな彼方の場所で、凍る心はゆっくりと、絶望的な落差を理解する。あの日からもう取り返しのつかないほど、遠いところに来てしまったことを理解する。差し出す想いがその人に届く前に透明な壁に弾かれて、さらさらと砕けて零れ落ちてゆく。
 歪んだ亀裂の隙間からムウは、音もなく降り注ぐシオンのまなざしを見る。静まりきった、まなざしを。山脈のはざまの湖のように、気高く静かなその威厳。今はもうこんなに遠いのに、こんなに離れてしまったのに、それだけは変わっていなかった。
 その瞳が今でも、好きだと思った。

 世界で一番なつかしいひと。抗わなければならないとわかっていても。殺されるわけにはいかないとわかっていても。
 貴方を忘れることなど、できない。

 身を竦ませるほどの激痛の下、瞳の真中を横切って、長く尾を引いた星が幾すじも飛ぶ。その人の元まで、たったの一歩。手を差し伸べれば届くのだろう、ほんの僅かな空間に、無限の距離が広がっている。
 なつかしいあの日の星屑が、音もなく横たわる断絶を、しんしんとさやかに照らし出している。



6へ←   →8へ


羊小説一覧へ  羊部屋トップへ
Written by T'ika /〜2005.10.23