6.断層 -Sion-




 乱れた髪が一筋、流れ落ちている。閉ざした過去の彼方から、滴り落ちてくるような金糸の光。血の滲んだ口元を掠めて、さらさらと。記憶を揺さぶるその色彩は、あの頃のまま変わりもせず、しかし過ぎ去った歳月の痕跡は、今はもう既に、腰よりも長い。
 視線の先の光景に、シオンは温度のない両眼を眇める。見せ掛けの余裕で瞳を閉ざし、手負いを隠してその人は立っている。何事も無いように振る舞ってはいるが、恐らく傷は痛むのだろう。最小限の抑えた動きは却って、内側のつらさを偲ばせた。
 無限の宇宙の二直線。……例えば今ここで手を差し伸べたなら、お前を死なせずに済むのだろうか。
 黒衣に覆われた表情の下、かすかな力が張りつめる。瞳の奥に微細なひずみ。彼方の天空を横切って、星が幾つも飛び交っている。

 誰も死なずに済む方法などは、疾うに幾度も考えた。けれども恐ろしく不利な戦いの中で、すべての道は閉ざされていた。針も通さぬ監視の中では、二言三言の会話はおろか、思念を送ることさえできず。死を司る冥界を相手には、偽りのとどめを刺すこともできず。
 失敗の許されぬ状況で少しでも怪しまれることを避ける為に、判断を下したのは自分だった。淡々と言い放ったのも、自分だった。とりわけ第一の宮では、敵の監視も厳しかろうから。
 初めの相手は、殺すしか無い。後の仕事がし難くなる、と。
 ……あの黄金のアリエスを纏って其処に立つ、見違えるような姿を眼にした今でも、間違えたとは思わない。

 過ぎ去った歳月は星屑の底に。かつて自らが守護した白羊宮を、乾いた瞳でシオンは見やる。天馬星座の聖衣を纏った少年が、石畳に這いつくばり叫んでいる。
 「嘘だ、そんなこと、信じない――」
 信じない。俺たちが用済みだなんて、信じない。声を振り絞る彼の問いかけを、眉一つ動かさずにムウが切り捨てる。感情の欠片も揺らがせぬ、どこまでも平静なその表情。諦めようとしない少年に冷酷とも言える声音で退去を命ずる、遠い横顔を見つめながら、シオンはかすかな微苦笑をする。
 ……信じない、それはお前も同じだろうに。
 先刻までの彼の言動、それはまさに不条理としか言いようがなかった。混乱と、呼び替えてもいい。デスマスクとアフロディーテをあれほど手酷く罵りながら、それが傍らの師への罵倒でもあることには気付かない。彼らの罪と私の罪と、中身は全く変わらないのに。否、それどころか、むしろ命令を下している私の方が責任が重いことくらい、少し考えれば判るはず。
 素顔を覆い隠す陰影の奥で、シオンは見据えた両眼をわずかに細める。狭められた視線の先には、真っ直ぐに立つその人の姿。あのペガサスが現れてから、瞳ばかり閉じている。自分で気付いているのか、知らないが。だが隠そうとしているのならば無駄なことだ。お前が目下の青銅聖闘士の前で今またどれだけ平静の仮面を取り繕っても、私の目までは誤魔化せない。たとえ何を隠そうと、していても。
 器用すぎるほどの指先が紡ぐ、稚拙なまでのその矛盾。そこにはお前の過去と囚われと、血の滲むような想いが見える。……痛ましいまでに、見えている。
 凛と伸びた遠い輪郭を見つめながら、苦くかすかにシオンは笑う。傷跡を踏みしだかれてそれでもなお追慕を止めぬ、愚かな一途さがいたわしいと思った。頬を横切った微笑みは陰の中で静かに歪んで、憎しみにも哀しみにも似た形になった。



 いつしか青銅の少年は抵抗を止めていた。地に伏すその姿を見下ろして、デスマスクが嘲笑うように言い立てている。
 「信じるも信じぬもお前の勝手だ。――だが、嘘ではない」
 もののついでに教えてやろう。あのお方が我らの側にいる限り、ムウは決して我らに逆らえはしないのだ。
 シオンはわずかに眉を顰める。あまり嬉しい話題ではない。無論デスマスクに他意など無いのだろうが。
 星明かりの下、不意の突風に黒衣が煽られてばたばたと打音を立てる。デスマスクはゆっくりと拳を振りかぶった。
 「冥土の土産に教えてやろう、あのお方の名は――」
 しかし科白はそこで途切れた。
 それ以上の音が発せられる前に素早く割り込んだムウが、彼の言葉を完全に止めたのだった。

 「余計な手出しをするな、デスマスク」
 静かに降ったその声に、感情の痕跡は一切無い。しかしシオンには判っている。タイミングを見ればあからさまである。思い入れの深い名を裏切り者のそれとして、口にされるのが耐え難いのだろう。聞きたくないのか聞かせたくないのか、それはどちらでもあったろうし、どちらでも同じことだった。
 巨大な小宇宙が渦を巻いて捩じれる、独特の鳴動が岩壁に木霊す。闇夜の中でおぼろげに、大理石の列柱が白い燐光を発している。
 そうしてムウの生み出した明滅の中に、ペガサスの身体は跡形も無く消え去った。

 星影を集めたような光の輪。その残像に固唾を呑んで、デスマスクとアフロディーテが立ち尽くす。だが、シオンは気付いている。消滅の形は見知った本来のものとは、確実に違っていた。
 ――あのペガサスを、庇ったか。
 シオンは頬の表で緩く笑う。消えた少年は死んでいない。恐らくそれはすぐに敵方の知るところとなるだろう。死を支配する冥界軍にとって、その種の勘査は造作も無い。しかし結局はたかだか青銅の子供、しかも大して戦局に影響も与えまいとあっては、一々取り沙汰されることは無いだろうと思われた。
 神殿の四隅に澱のごとく屈む闇。生ぬるい風が吹いている。夜のはざまに長く伸びた金の髪が揺れている。
 ……私にも同じ事が出来るのならば、どんなにか良かったろうに。

 「――ムウよ」
 頑なに瞳を閉じたままのその人に、シオンは敢えて泰然と呼びかける。相変わらずの恐ろしさよ、とかけた言葉に一瞬間だけ、褒められた子供の高揚にも似たものが、その青白い相貌を横切った。感情の起伏を現さぬように、シオンは深く息をする。……どこまで、お前は。
 「だが私の目まで誤魔化すことはできぬ。ペガサスを、何処へ飛ばした」
 詰問調で言葉を発す。場には一瞬の緊張が走った。問われたムウは僅かの間、凍りついたかのようにも見えた。まさか気付かれぬとでも思っていた訳ではあるまいが。背後ではアフロディーテが微かに眉根を寄せている。何故わざわざそんなことを、とでも言いたげなその視線を、しかしシオンは黙って受け流す。ここで形だけでも問うておかねば、こちらまで怪しまれないとも限らない。
 石造りの神殿が呼吸を止める。辺りには闇色の不快な瘴気。切り裂くような濃度のそれが、皮膚の層まで貫き通す。大気が刺し込むように張りつめて、五月蝿い。囲まれている。完全に。
 「……まあ、良い」
 ややあってぞんざいに投げた科白に、無表情を装うムウの顔にはそれでもほっとした様子が漂った。シオンは無言で視線を逸らす。万が一にも馴れ合いの雰囲気は出したくない。疑われてからでは遅いのだ。
 「デスマスクにアフロディーテよ」
 背後に控えていた二人に呼びかける。――女神の首を取って参れ。ムウはここから、一歩も動けぬ。
 ……もうしばらくだけ持ちこたえてほしいと、頭の片隅で思いながら。シオンは二人に命を下す。その遅延が目の前のアリエスにとって、何の役に立つと思った訳でもないけれども。
 ――だが、その刹那のことだった。
 闇に呑まれていた白羊宮の空気が、ぐらりと大きく反転した。




 わずかな光の塵芥だけを後に残し、デスマスクとアフロディーテはその場から完全に消え去った。とどめられなかった己に対する僅かの呵責を胸の内に覚えながら、シオンは俯いたムウの後ろ姿を見る。結局のところ従いはせぬだろうと、思ってはいたが。まさかこれほどはっきりとした抵抗を示してくるとは。
 ……だがそうやって葬り去った二人と私が同じ罪状の咎人であることを、一体お前はわかっているのだろうか。
 「……ムウよ」
 低めた声で、シオンは囁く。最前のその人の苦しげな声が、耳朶に残って軋みを立てる。未だに私を切り捨てられぬ、葛藤の色さえ隠せぬ声が。『これが貴方への反抗になるというのなら、一死をもって償いましょう』――
 感情を消し去った瞳でシオンは、蒼ざめたその人の背中を見る。
 ――愚かなのはむしろ、お前の方だ。

 見据えた視線のわずか先、背を向けた彼の長い金髪が、微風を受けてそよぐように流れる。その二人を消したところで、戦いが終わるわけではないのだぞ。ゆっくりと話しかけるシオンの声にも、ムウは決して振り向かない。振り向かないことで、保っているのだろう。
 「……お言葉ですが、それでも」
 それでも私は引く訳には行きません。わずかに震えるその声の中にはしかし、憎悪も軽蔑も幻滅も、理不尽をかこつ嘆きさえも無い。
 ただ、苦悩の跡だけが在る。
 シオンは無言でムウを見下ろす。瞳の奥がかすかに疼く。これだけの事実を前にして、想いを切り捨てる素振りも無いとは。それどころかムウにはどこか、かつて師から教わった言葉を忠実に守り続けることで己を保とうと、決意しているような節さえあった。
 ……ああ、なんて、馬鹿な子だろう。この期に及んでお前はなおも、私を切らぬと言うのだろうか。
 黒衣が裹む陰の中、シオンは静かに瞳を閉じる。閉じた瞳の内側で、金糸の光が揺れている。想いの届く術は無い。
 私はお前を死なせねばならぬ。




 合図の言葉に答えるように、立ちのぼる三つの巨大な小宇宙が、荒々しく虚空に渦を巻く。愕然と見開かれる、瞳の水晶。新たに姿を現した3人の知己を前に、彫像のようにムウは立ち尽くした。身動きすら出来ないその身体を、鋭い打撃が幾つも打った。
 シオンはわずかに眉間を歪める。戦いはあまりにも一方的だった。呆然自失といった様子のムウは、混乱に思考を奪われ反撃すらまともにできていない。己を失いさえしなければ、たとえ相手が三人だとは言え、そんなにも無力なお前ではないのに。成す術もなく諾々と技を食らうムウは、自分の身体を防御することなど、一切考えていないように見えた。ただ理解の範疇を超えた目の前の事態に、得られぬ答えを問いかけるだけ。……そんなものは初めから、判り切っているだろうに。
 信じられないと信じたくないと、受け入れられずに揺れるひと。その振る舞いが最前のそれと、重なるように交叉する。胸の真芯をえぐり取るような、惨く理不尽な命令さえも、聞き入れてしまうその心。
 あの時の子供が、そこに居た。ただ真っ直ぐに、私を慕う。
 閉ざした瞳でシオンは消し潰す。脳裏に焼き付く、残像を。
 破砕の音が耳朶を打つ。石造りの床に叩き付けられたその人の身体が、激痛を堪えるようにうずくまっている。切情を滲ませた翡翠の瞳。シオンは無言でそれを見る。……思い出も記憶も、お前には要らぬ。

 そのようなものなど、捨ててしまえ。

 私にはもう、資格がない。お前の想いに値するような。
 ゆっくりと静かにシオンは見下ろす。広い世界の、ただ一点を。そうして黒衣の右手を上げる。

 その人の動きを、止める手を。



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Written by T'ika /〜2005.9.29