5.慕情 -Mu-




 闇に囲まれた白羊宮。冷たい炎を噴き上げながら、煉獄のような小宇宙が燃えている。青ざめた貌で、ムウは見上げる。
 ――何を言っているのだろう、この人は?
 頭の中のどこかが思考を止める。物凄い勢いで引き潮のように。何かが強烈に狂った世界に、存在するはずのない声が聞こえる。気が遠くなるほどの懐かしい響きで。口元に笑いさえ滲ませながら、迷わぬ鋼の冷徹で。
 あの人が語るはずのない言葉を語る。



 あの別離から、13年。幾度となく挫けそうになる私の心を、貴方の遺した道筋が、この世へと未来へと繋ぎ止めた。残された者を押し潰す永劫のような時間を前に、貴方のいない世界への執着を失いかけても、それでも私が戦いをやめなかった理由。復讐でもなく、奇麗事でもなく。
 貴方が守ろうとしたものを、消さないために。

 それなのにいったい何を言っているのだろう、この人は。こんなにも平易なギリシア語が理解できない。
 ――アテナの、首を?



 「……おそれながら」
 震える唇で言葉を紡ぐ。眼差しの先には石畳がある。黒衣を纏って立つ人の、闇色の影が落ちている。
 緩慢とムウは、錆びついた儀典書の記憶を手繰る。玉座の前で最上級の礼を取る時の、正確なギリシア語の言い回し。――如何に貴方様の御命令と言えども、それだけは――
 でも、ああ、待って。その前に。何かがとても狂っている。
 言葉にもならない焦燥感。眼の前に立つこの影は、貴方だ。この世にはもう居ないはずの、貴方だ。そしてその周辺に濃厚に立ち込めている、禍々しい闇の気配は、敵の……?
 遠くで思考が空回りする。何かがとても狂っている。この三段論法は成り立たない。成り立つ道理が無い――どうか。
 ひざまずいたままムウは、憑かれたように答えを捜す。決して存在しない答えを捜す。感覚も意識もこれ以上なく鮮明なのに、紡ぐ言葉は己の意志とは裏腹に、妙な所で幾度も途切れた。深く垂れた頭の上から、見下ろすその人の視線を感じた。
 背中の奥に灼熱の痛み。突き刺さるばかりの小宇宙の刃が、容赦なく全身を責め苛んでいる。まるで憎めと言うように。三歩の距離から見下ろしている、氷の視線は射殺すほどの。俯いた瞳をかすかに上げる。まなざしとまなざしが交叉する。懐かしい瞳。懐かしい、姿。

 ……ずっと、貴方に会いたかった。

 鼓動も呼吸もない静寂の中、二つの視線がぶつかり合って、張りつめたように、時が止まった。遥か彼方の天空を、無音のなかで星が流れた。
 見開いた眼窩の奥でちらちらと、青い炎が点滅している。遠ざかってゆく世界の片隅で、空は奇妙に歪んで見えた。闇に沈んだ神殿も、間近に佇む人影も、何かをこらえているような、おかしな曲率で歪んで見えた。



 だがそれも、ほんの一瞬。
 声はその人の背後から、矢継ぎ早に二つ上がった。



 「お前たち――」
 碧の瞳を見開いて、掠れた声でムウは呟く。ふつりと半ばで途切れるように、シオンの殺気が虚空に消えた。
 沈黙を切り裂いて現れた二人の知己へと向き直りながら、ムウはゆっくりと現実に回帰する。狂って止まった時計のような、壊れた思考の向こう側で、世界が再び不確かな像を結び出す。
 ――デスマスクに、アフロディーテ。死んだはずではなかったのか。
 地底の闇で染め抜いたような二つの長衣。両の端から間合いを詰める二人の影は、丁度ムウの視界から、シオンの姿を遮った。幽霊か、と思わず問えば、可笑しむようなデスマスクの声が、幽霊ではないと嘲笑う。冥府の王に忠誠を誓い、新たなる命を与えられたのだと。
 ……冥府の王に?忠誠を?まさかアテナの聖闘士でありながら、仕えた神を裏切るとでもいうのか。
 ありうべからざる答えの中身に眉を顰めながら、しかし同時に思念の淵の奥底には、ぼんやりとした何かがひっかかっている。理性を囁くその存在に、ムウの中の何処かは気付いている。畢竟、この種の糾弾はもっと前に、そう、この二人に対してよりも先に、なされるべきものではなかったか――
 物も言わない無意識の底、扉を閉ざす音がする。息を殺した空間に、静かな鼓動がひとひら落ちる。
 その問いと答えは結びつかない。……決して。

 立ちはだかる二つの人影を、まなざしを引き締めてムウは見る。現れた敵に対峙した今、胸中はいつものように冷静だった。醒めた唇からは理知に適った罵倒の言葉が、淀みなくすらすらと流れ出る。
 ――お前たちほど愚かな人間は無い。生命と引き換えに冥王の走狗と成り下がり、女神の命まで狙うとは、恥を知れ。
 言いながら心を掠める何かの存在に、ムウは今も気付かない振りをしている。なんだと、と呟いたデスマスクの表情が、無言で見据えるアフロディーテのまなざしが、かすかな違和感を浮かべていても。……恐らくは白羊宮の守護者があっさりと平静を取り戻したのが、彼らには計算外のことだったのだろう。大した事ではない。
 反逆を咎めるムウの科白を受けて、間髪入れずデスマスクが黙れと叫ぶ。それを合図とするように、二つの長衣が勢い良く剥ぎ取られて宙を舞った。瞳の奥に飛び込んでくる、冥界の宝石のような漆黒の光。
 ――それは、まさか。
 既に疑いの余地も無かった裏切りに、冥衣という確実な証拠を突きつけられて、それでも動揺を覚えたのは何故だったのだろう。息を殺したまま、うっすらとムウは思う。かつての仲間を信じていたかったとでも今さら、云うのだろうか。この心は既に彼らのあの得意気な姿を見るだけで、苛立ちすら感じ始めているというのに。
 「さあ、そこをどけ、ムウ――」
 石畳を蹴る音が高らかに響き、かつての黄金聖闘士である二人の敵は、一瞬のうちに間合いをつめて眼前に迫った。無言で佇むシオンの姿を、背中の後ろに連ねながら。視界に飛び込むその人影に、ムウは一瞬、躊躇する。……これでは、まるで。
 懊悩を振り切るように目を閉じる。私は白羊宮を守る聖闘士だ。貴方にそう、教えられた。
 阻むような形に両手を広げて立ち上がるムウの姿に、お前はあのお方に逆らうつもりかと、詰問の口調でデスマスクが言った。歪んだ扉に亀裂が走る。誤魔化しようのない矛盾を突き付けられて。だがしかし同時に胸の奥では、赤い火花が不穏に散った。……あの人に従わぬ事の、罪悪を語るのか、その口が。13年もの間ずっと、偽物のあの人にひざまずき続けていた癖に。
 その傍らで誇らしげに笑うその姿。不愉快だ。
 静から動へ、一刹那。張りつめていた空気が一瞬のうちに弾け飛ぶ。向かって来る二人からは殺気をはらんだ小宇宙が奔流のように溢れ出し、心を過ぎた苛立ちの正体を自覚する間も無く、ムウは戦闘の態勢を整えるために、瞬時に歯車を切り替えた。凄絶極まる強大な小宇宙がぶつかり合い、幾つもの衝撃波が乱れ飛ぶ。

 だがおもむろにその激突を止めたのは、他でもないシオンだった。

 「――いい加減にせぬか」
 流れた声音の、何という静けさ。ムウはその場に立ち尽くす。理由も無いのに、息が止まった。……どうしてこんなに、懐かしい声が。
 「この二人は私に従って来た者」
 強張った身体はどうにもならない。慣れ親しんだ声が初めて聞くような抑揚の無さで、言葉のつぶてをささやいている。
 「お前のしていることは全て、この私への反逆になるのだぞ」
 先刻からムウがどうしても理解しようとしない事を理解させようとでもいうように、噛んで含める言い方で、シオンは答えを突きつける。星空を映しこむ翡翠色の瞳で、ただ声もなくムウは見つめる。どこか遠くて近い場所、ガラスの砕ける音がする。
 「……ムウ」
 鼓動が止まる。名前を呼ばれるそのたびに。闇の重なる神殿に、星の記憶が降り積もる。……けれど。けれど、それでも。私は二人を通すわけには行かない。
 戒めを断ち切ろうと試みる。よせ、と鋭い声が飛ぶ。再び反射的に身体は動きを止める。追い討ちをかけるように、シオンの声が胸を刺す。
 「その二人は私に従っていると言ったはず。彼らに拳を向けることは、私自身に向けることだと思え」
 迷い子のごとくムウは立ち尽くす。星明かりの下、蒼ざめて。異なる声に引き裂かれ、動くことさえできないその身体に、デスマスクの拳がまともに入った。一発、二発、それから沢山。当然それは理想的な戦闘状況だったに違いないのだが、しかし当のデスマスクは酷く驚いたような顔をして、それからどこかひるんだように見えた。訳が判らない、そんな顔をしている。
 ……ああ、訳など判るはずもないだろう。私があの人と何を共有していたか、お前などには知りようも無い。
 貫くような痛みに耐えながら、唇を引き結んでムウは前を見る。銀砂を散りばめた頭上の天に、目蓋の奥でゆっくりと、あの日一緒に見た夜が重なってゆく。なつかしい星空の下、今この白羊宮に立つのは貴方だ。遠い昔に消えた、貴方だ。……13年もの間、夢見続けた。
 さよならの言葉さえ交わせぬままに、世界が途切れた別離の日。この手にはただひとつの形見さえ残されることはなく、思い出の他には何も無く。そうして貴方が守ったものを、守り続けた永劫のような13年。受け継いだ意志の存在だけを、幾度も幾度も、確かめるように。他には証など何も無く。目に見えるものなど何も無く。残された私を貴方へと繋ぐ、それがたったひとつの方法だった。
 たじろぐように、デスマスクが攻撃を止める。理解し難いものを見るような眼で、抵抗すらしないこの身を見ている。ああそうだ、私は矛盾している。矛盾していると、判っている。
 ……しかしその人は仇にはなり得ないのだ。
 私にとっては、永遠に。



 不意に殺気が渦を巻く。それならば死ねと、デスマスクが拳を振り上げている。ムウはゆっくりと視線を向ける。幾ら何でもこんなところで殺されるわけには行かない。
 身を守るため迎撃の姿勢を取ろうと構えた、その時だった。
 突然デスマスクの姿が吹き飛んだ。
 ムウは思わず目を瞠る。瓦礫を踏み越えて現れた予想外の人物に、鋭く振り返ったアフロディーテが柳眉を逆立て、地面に叩き付けられたデスマスクが、身を起こしながら短く呻いた。
 「星矢……!」
 全く、何と間合いの悪い少年だろうか。今迂闊に出てくることがどれほど愚かな事かも判らないとは。
 驚きと僅かの羞恥と、そしてもはやそれらを凌駕するほどの呆れさえ感じながら、しかしムウは混沌の淵に溺れていた己の思考が、音もなく醒めて行くのを自覚した。年若いこの聖闘士を、こんな所で死なせる訳にはいかない。そう、放っておけば彼は間違いなく命を落とすだろう。相手はかつての黄金聖闘士と――そして最強を謳われた、あの人なのだから。
 視界を翳らせていた暗幕が、緩やかに残酷に引いて行く。止まっていた時計が動き出す。ひと打ちごとに正確さを取り戻してゆく容赦ない律動が、真っ直ぐな針で指し示している。
 ……そう、私は貴方に逆らわなければならぬのだろう。命を賭して貴方が守った、世界の光を消さないために。



 さよならさえも言えなかった、あの別離から13年。幾度となく挫けそうになる私の心を、貴方の遺した道筋が、この世へと未来へと繋ぎ止めた。
 引き継いだ使命と記憶を胸に。血の滲むような、想いを胸に。この身を支え導いた、すべての言葉をおぼえている。たとえ誰がその忘却を迫っても。
 孤独な幼な子に貴方がくれた、光の記憶をおぼえている。

 痛みのなかで、確かめる。私は貴方に、従えない。遠い昔に私を教えた、貴方の言葉を守るから。
 一つ、二つ三つ、流れ星は落ちる。眩むような既視感にまぶたを閉じる。降り注ぐ静寂をその身に受けて、今まさに白羊宮の真下に佇んでいるのは、冷たい闇色のあの遠い影。 泣きたいくらいに大切な影。この心を粉々に砕いて引き裂いて、揺らがぬ静かな残酷な影。
 ……そう、それでも目の前の貴方も、本当だから。

 世界で一番なつかしいひと。
 どうかすべてが終わったら、貴方に焼き尽くされてかまわない。



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Written by T'ika /〜2005.9.2