4.仮面 -Sion-




 張りつめた殺気に、闇が震える。夜さえも腐蝕させる冥府の力。辺り一面に立ち込めた死界の気配の禍々しさと、己のそれとの間にはもはやほとんど区別すらつかず、まなざしの奥でシオンは自嘲めいた笑いをうっすらと笑う。大気を歪ませ渦巻く負の圧力は、巨石を連ねた列柱さえをも、深い律動で震撼させた。見据えた瞳をわずかに細める。記憶に馴染んだ神殿の形。それからそのたもとに佇む、黄金色のアリエスの。
 ――辺りの空気を切り裂くほどの凄烈な小宇宙を放ちながら、シオンは一歩ずつ白羊宮への距離を詰める。呆然と立ち尽くすその人の青ざめた唇がほんのかすかに動くのを、視界の隅でちらと見た。声になることさえなく、かろうじて形取られた3音の言葉。……シオン、と。
 それはかつて私とお前の関係を、他の何ものからも区別した、たった1つのささやかな証。お前の幼い唇が、確かめるように大切に、幾度も幾度も口ずさんだ。
 ……まぼろしだ、とシオンは思う。かの人に名指される権利など、この手でとうに捨ててきた。
 目深に被った黒衣のはざまから、星の明かりが仄かに射し込む。思い出のすべてを遮断して、シオンはただゆっくりと笑む。温もりの欠片も無い笑みを。見開いた瞳でその微笑みを凝視したまま、その人は声も無く立ち竦んだ。閉め出された呼びかけの言葉が、冷たい石畳に落ちて砕けた。




 瞼の奥まで焼き切るような、眩しい光の射す土地で。いつかお前に伝えたい言葉があった。繰り返される毎日の中で幾度も口の端にのぼらせかけて、けれどもそのたびにしまい込んだ言葉。溜息のような微笑みに紛れ、山脈の風に幾度流れて消えたことだろう。
 たとえもはや禁じる意味さえ無い程に判りきったものであっても、そこに禁忌があるという事実を守るために、禁じられねばならなかった言の霊。幼いお前は気づいていたろうか。神に禁じられお前に許された素顔の向こう、声も無くささやかれていた想いのかけらに。




 過去の破片を踏みにじるように歩を進め、シオンは表情ひとつ変えること無く、愛弟子の双眸をゆっくりと見下ろす。一瞬一瞬の映像が、奇妙なほどにくっきりと、脳裏の奥に焼きついた。知らぬ間に大人びたその顔の造作。心の動揺を伝えるように、微かに震える長い睫毛。感情を映して揺れる瞳の色が、記憶の中の碧に重なった。
 扉の向こうで、ざわめいたのは何であったか。かすかに軋むその音を意識の外に聞きながら、シオンはことさらに冷たく笑う。そうして敢えて、嘲りにも似た声音を紡ぎ出す。――ひざまずけ、と。
 何を言われているのか理解出来ないという表情で、ムウは茫然とシオンを見上げた。……馬鹿な子だ、と心の片隅でシオンは思う。本当はもう、とうに判っているのだろうに。冥府の闇の色をした衣を纏い、凶星と共に現れた私の殺気が、一体何を意味しているのか。
 一つ二つ三つ、流れ星が落ちる。満天の星座を薙ぎ払うように。何処かで同じ光景を見たと、そんな思いが一刹那だけした。張り巡らされた緊迫の糸の中、遠く後方に控えたサガたちの、どよめく気配がかすかに伝わる。この差し迫った状況下で、ここまで無抵抗なアリエスの姿など、恐らくは想像もつかなかったのだろう。だが動揺しきったムウの意識には、彼らのその気配すら届いていないようだった。神殿を取り囲んだ闇がぞろりと蠢く。身を潜めた影たちの、不穏な視線をふいに感じた。
 ……信じられぬというのならば、私はお前に信じさせねばならぬ。
 この幾重ものハーデス軍の監視の中で、ほんのわずかなりとも疑われるようなことは、今の私たちには決して許されはしないのだから。
 己の肌をも刺し貫くほどの強く深く峻烈な小宇宙で、シオンは背筋も凍るような敵意の束を、ムウの身体へと叩き付ける。ざわめく長衣の摩擦音。二人を隔てる空間だけが、歩みと共に縮められて行った。



 息苦しいほどの沈黙の中、星の死骸が堕ちてくる。近づいて来るシオンの姿を、言葉も無くただ、その人は見つめた。翡翠色の瞳の奥には、混乱と戸惑いのわずかな間隙を縫って、かろうじてつなぎとめられた祈りのような声が揺れている。……嘘でしょう、と、ささやく程のかすかなメッセージ。それはどこか、哀願にも似て。
 向け合った視線はそらさぬままに、シオンは眼差しの奥底でゆっくりと、投げかけられたその想いを切り捨てる。氷のような瞳でムウを見据え、酷薄な笑みを突きつけた。
 「どうした。……私の命令が、聞けぬのか」
 精緻な手つきでシオンは装う。神の仮面の冷たさを。
 言葉は真っ直ぐに、その人の胸を刺し貫いたように見えた。かすかに震えた翡翠の瞳が感情を覆い隠すかのごとく、わずかに彷徨ってから閉じられる。
 ……それでもまだ信じたくないと叫ぶ、支離滅裂な慕情の欠片を、闇の中に色濃く残して。




 瞼の奥まで焼き切るような、強い光に溢れた土地で。いつかお前に伝えたい言葉があった。聡いあの子供は気づいていたろうか。ほんのひとときだけ許された素顔の向こう、決して声にしてはならなかった想いのかけらに。
 闇色の布のはざまから、銀の光がほのかに射し込む。いとけない幼な子の微かな面影。いつか見たような星空の下、命令を受けたムウはゆっくりと、冷たい石の床に頭を垂れた。教皇の玉座の前に額づく、一人の臣下がするように。
 そのぎこちない仕草のすべてを、シオンはどこか遠く哀しみにも似た思いで見つめた。
 そう……お前は私の言うことに、逆らうことなどできはしない。
 ならばせめて、憎んでくれれば良いものを。

 震える大気を切り裂いて、燃える矢のごとく、流星は落ちる。決して交わる事の無い、その軌道。意識をかすめた思い出を扉の外に締め出して、シオンはひざまずいたムウの目前に立つ。星明かりに照らされた唇に、冷たく残酷な笑みを浮かべて。
 その人が今最も怖れているであろう言葉を、聞かせるために。




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Written by T'ika /〜2005.6.25(…)