3. 距離・壱 -Intermission-




 ――カシオペア、ケフェウス、アンドロメダ。
 吐く息の白さも忘れ、ムウは覚えたばかりの星座をたどる。今まではただの光の集合でしかなかった星々の中に、昔話の人物や生き物の姿を見出して行くのは、幼な心に楽しかった。傍らには星の名前を教えてくれたその人の、天を見つめる静かな瞳。まなざしだけでほんの一瞬隣を見上げ、ムウはいま一度密かにその存在を確かめる。こうして一緒にそばにいる、そのことがとても、嬉しくて。
 隣り合って座った弟子のその様子を、視界の端でちらと見やり、シオンは気付かれないようにそっと口元を緩める。普段からひどく大人びた眼で分別のついた言動ばかりする子供の中に、確かにほの見える幼さが愛しいと思った。吹き荒ぶ山脈の冷たい風も、今のムウには届かないのだろう。身体をくるんだぶかぶかの長衣が肩から滑り落ちそうになっているというのに、気付くそぶりも全く無い。
 雪を戴く山頂の、夜も深まった峰の上。果て無き宇宙へとさらされて、二人はずっと、空を見ていた。遮るものなど、何も無い。地表を覆う大気さえ通常の半分しかないこの地では、星々は天から零れ落ちそうなほどにくっきりと輝く。塵一つ無い澄み切った空気に、銀の光は鮮やかに煌めいて。その瞬きのあまりの強さにムウは、まるで宇宙の中にいるようだと、天の近さをひっそりと思った。



 ホエール、ペガサス、ペルセウス。回る星座を横切って、長く尾を引いた流星が飛ぶ。……先刻から数えて幾度目だろう。
 星を数えるムウの隣、シオンはわずかに笑いを含んだ声で言う。
 「――ほら、心配など全然なかったろう」
 わかっています、と少しだけ拗ねたように口を尖らせて、ムウは遠くの星座を見つめる。あんなに星が飛び交っていたら、そのうちどれかがぶつかって、星座の星が落ちて来てしまうのではないかと、少し前に傍らの人に慌てて訴えたのは自分だったけれども。
 「……だからって、そんなに笑わなくてもいいじゃないですか」
 呟いてその人の方を振り返る。シオンは心もち眼を見開いてムウの方を見やると、わずかに口元を持ち上げた。
 「『そんなに』笑ってなど、いないつもりだが?」
 「……とぼけないで、下さい」
 いじけたような振りをして、ムウはその人から視線をそらす。……それは、声を上げて笑われた訳じゃないけれど。
 無言のままで膝を抱え、心なしか赤く染まった頬を、その人のまなざしからそっと隠す。先刻の自分の発言からこの方、流れ星が飛ぶたびに傍らの人の口元がほんのわずかにほころぶのを、この眼は確かに知っていた。そしてつい今しがただって、絡み合った視線の先、その瞳の奥底はいつになくはっきりと優しかった。……いつも厳しいその人が、そんなにわらってくれることが珍しかったから。
 ――本当は少しだけ、嬉しかった。



 夜明けにはまだ間がある東の空を、貫くように流星雨は飛ぶ。無数に伸びる白銀のその軌跡が、重なり交わって夜空に残った。背景に煌めく星座は揺れ動くことさえなく、その道筋と交差したまま、やはり厳然としてそこに在った。
 交わっているように見えるだろう、と、穏やかな瞳でシオンは言う。ムウは黙ってこくりと頷いた。流れ星だけではない。その後ろに散りばめられた星屑だって、狭い空間に密集したまま、放たれた光の破片で互いに触れ合っているようにさえ、ムウには思えた。
 手を伸ばせば届きそうだな、と、空の彼方に視線をやって、呟くようにシオンは言う。もう一度こくりと頷いて、ムウは頭上に迫る無限の宇宙と、そこに輝く星々を見上げる。あれが光の速さで何百年も何千年もかかるような、遠い遠い場所で光る無数の太陽だなんて、説明を受けてもにわかには信じ難かった。そうしてそれぞれの星もまた広大な宇宙の中、本当は互いに気の遠くなるほどの距離を隔てて、離れ離れに輝いているのだなんて。
 昇り始めたアリエスの方角に、流星が二つ、重なるように飛ぶ。けれども静かな瞳のその人は、傍らの子供の問いに、空を見つめてささやくように答えた。
 あの流れ星が交わることも、永遠に無いのだと。



 そんなに優しい眼差しで、そんなに哀しいことを言わなくてもいいのに。
 寂しさにも似た切ない気持ちで、ムウは傍らの人の横顔をそっと見つめる。そして宇宙の奥行きに隔てられた、星の孤独に想いを馳せる。
 いっそぶつかって落ちて来てしまえばいいのに。
 ……そんなに哀しいさだめなんて、いらないから。

 頭上には銀色の光がいくつも飛び交って、夜空の暗きに綾を描く。
 あの星々は交わらないと知りながら、それでも人の世に生きる自分はこの地上でその人と交叉した瞬間を信じていたいと、祈りのように幼な子は思った。


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Written by T'ika /〜2004.11.8