2.追憶 -Mu-




 一つ、二つ三つ。天の暗きを、流れ星が飛ぶ。

 無限の闇を際立たせるように、星の煌めく夜だった。光の砂を散りばめた漆黒の空が、古い神殿の入り口に立った黄金色の仄かな輝きを照らし出す。突然の非常警報の中、暗がりに溶け込むような第一の宮に守護者が在るのは久方ぶりだと、雑兵たちの雰囲気も心なしか浮ついていた。
 ムウは独り、纏い付くような不穏な気配を身に受けて、月の無い夜空を見上げる。今がきっとその時だと、直感めいたものが語っていた。神話の時代から連綿と続いてきた、冥府の国の神との戦い。この日のために聖闘士として生を受け、気が遠くなる程の修行を積んできた。
 闇に広がる星々が、水銀のように淡く煌めく。生暖かい空気がかげろうのごとく揺らいで、肌の表がざわめいた。
 七つ、八つ九つ。――こんなに星の降る夜は、知らない。



 息をつくように踵を返し、軽くマントを翻す。無風の神殿の澱んだ空気が、白い布地を滑り落ちた。真っ直ぐに見上げた白羊宮の柱貫には、刻み込まれたアリエスの紋章。
 ムウはしばし思いを馳せるように、その刻印をじっと見つめる。それは今、自分がここにいる理由のすべて。幾千もの戦士たちの、遠い宿命を引き継ぐために。……そしてあの人が守ったものを、守るために。
 春の宵とは思えないほどの黒々とした夜闇に、石造りの神殿は重く沈む。無数の星の瞬きの音が、その静寂に降り積もった。落ちて来る雪片のように、しんしんと。辺りには、誰も居ない。警護の聖闘士や雑兵たちの気配も、今は遠くに離れていた。
 張りつめた沈黙を払うように呼吸して、ムウは光の言葉に耳を澄ませる。長い長い尾を引いて、流れ星がまた一つ飛んだ。闇の深さに白銀の軌道は一段と際立って、淡い残映がいつまでも残った。
 ……どこか覚えのある、その光景。
 ムウは見上げたまなざしをわずかに細める。心の奥に浮かび上がった映像が、ゆっくりと眼前の夜空に重なった。天を仰いだ瞳を閉じると、記憶の中の山脈が、瞼の裏に鮮やかに広がって行く。
 ああ――いつだったか過ぎし日にも、私は今宵のような星月夜のもと、仰いだ空に流星を見たのだっけ。
 零れるような満天の星屑の中、長い尾を引いて流れ星は落ちて。どうしてあれらはぶつからないのかと、幼い自分は驚いて尋ねた。
 初めて星の読み方を、教えてもらった夜だったと思う。
 問いを受けた傍らの人は温かな眼差しで、空のしじまを撫でるように微笑った。

 閉ざされた瞳の奥で、星の光は密やかに降る。極寒の山脈を、包み込むようにそっと。揺れる記憶の片隅で、まぼろしの流星がもう一つ落ちた。
 ……空の色も星の気配も、あの時とはまったく違うのに。
 口元をわずかに緩めて、ムウは静かにふと笑う。こんなにも張りつめている瞬間にこんなにも優しい記憶が浮かんで来たことが、ほんの少しだけ可笑しかった。
 思い出は影のように、世界の隅々に貼り付いて。……そうして時を隔てた今もなお、ずっとそこに息づいて止まない。
 山脈のはざまに、夜空の下に、神殿の奥に。
 貴方の存在を、つなぎとめるように。




 胸の奥に、焼き付いている。湖のように気高く静かなまなざしと、そこに映った温かさの影。一日中そばにいられたことなど、ほとんど無かったけれども。それでも厳しさの中に秘められたその優しさは、私を世界で一番幸せな子供にした。
 初めて出会った瞬間を、昨日のことのように覚えている。陰のような孤独だけ映していたこの瞳を金色に焼き尽くし、その人は私に光をくれた。深い小宇宙のあの輝きも、包み込むような温もりも、すべてはこの胸の奥で色褪せることさえ無い。
 貴方と重ねた、まぼろしのような日々。
 それは孤独に凍えた小さな子供の、世界のすべてを永遠に変えた。




 束ねた髪先をざわりと撫でて、不意に濁った風が神殿の静寂を駆け抜ける。夜空を埋め尽くす幾億もの星々が、亡霊のようにざわめいた。
 敵襲に備えた緊張を解かぬように絶え間なく周囲に意識を巡らせながら、ムウは重ねた手の平で、両の瞼をそっと押さえる。記憶の波紋を、鎮めるようにそっと。巨大な雪の山脈と宇宙に近い星空が、瞳の奥で揺らめいて消えた。
 ――そう、今ここにあるのは、海の国の暖かな夜。
 翡翠の両眼をゆっくりと開いて、ムウは一度だけ深く呼吸する。天を仰いだ、姿勢のままに。
 あれからもう13年が経つというのに、それでも未だにまぼろしは死なない。

 私に世界を教えたあの人は、形見ひとつ、遺さなかった。途切れた日々の残像を狂ったようになぞりながら、独りぼっちの子供は歳月に耐えた。貴方のいないあの土地で、貴方の影を抱きしめて。
 記憶を刻んだこの眼は今も、世界の端々にあの人を見る。思い出を辿るように、いつまでも。その人がもう二度と帰らないことくらい、わかっては、いるのだけれど。
 輝く銀河を切り裂くように、流星がまた一つ飛ぶ。無限のような星々のさざめきを見つめていると、五感の感覚が奇妙に歪んで、時も場所も永遠さえも、超えられるような気がふいにした。
 入り組んだ感情を潜めた瞳が、天を映して微かに揺れる。
 ……あの人は、死んだのだ。スターヒルの、遺体も見た。温かく気高いあのまなざしは、この世の何処にももはや無い。
 今はもう、遠い昔。別離はあまりにも唐突だった。
 別れの言葉さえ、許されぬままに。

 胸の中で疼いたささやかな感傷を嘲笑うかのごとく、星々は数限りなく流れては消える。遥か下、十二宮の入り口辺りに、不吉な小宇宙がざわめいていた。揺らいだ瞳を一瞬だけ閉じて、静かに身体の向きを変えると、纏った聖衣が音を立てて鳴った。
 ムウは想いを払うように、遠くの地平に視線を投げる。神殿の入り口高くに刻まれた白羊宮の紋章が、星明かりに照らされて背後には在る。
 ――幼い私に残されたのは思い出と、貴方から引き継いだ使命だけ。それからこの胸の奥底で血を滲ませた、語りようの無い感情と。
 あの人との記憶は今でも幻影のように、不意に瞼に蘇る。そうしてこの心を締め付ける。それでも決して、忘れたいなどとは思わない。もう一度だけ会いたいと願う絶望のような気持ちを、祈りのごとく抱き続けた13年。それは、その不在さえ気付かれることのなかったその人を、この世界につなぎとめるただひとつの方法だったから。
 私だけは決して、あの人のことを忘れない。たとえ誰が、その忘却を迫っても。
 ……貴方のいない記憶の土地で、そう、誓った。

 碧の瞳に星空を映して、しばし沈黙に身を任せ、ムウはゆっくりと前を向く。そうして白羊宮の入り口から下へと伸びる、石段の向こうを凛と見据える。そのまなざしは、静かで強い。闇の深さに、たじろぎもせず。
 研ぎ澄まされた意識の一片が、異変の兆しを正確に捉える。揺れ動きながら方々で蠢いていた瘴気のような小宇宙の気配が、徐々に神殿の下の方に集まりつつあった。ゆっくりと、段々と、こちらに向かって近づいて来る。恐らくは、冥府の軍勢の先鋒だろう。そのざわめきに呼応するかのように、辺りの闇もますますその色を強めていた。
 揺らいだ瞳から表情を消して、ムウは慣れた微笑を作る。口元を心もち持ち上げて、まなざしは揺るぎなく。そうして、思い出をしまいこむ。何重にも固く、鍵をかけて。誰にも見られないように、誰にも辱められないように。
 それは心の一番深い場所に閉じ込めた、遠い日々の大切な記憶。誰が覗き見ることも、許さない。
 気高く誇りに満ちたアリエスの貌で、ムウは己の内面に封をする。
 いかなる他者にも、その追憶を汚されぬように。



 遠くの空に陽炎が立つ。不吉な小宇宙に煽られるかのごとく、流れ星がまた一つ二つ三つ、背後の銀河を切り裂いて堕ちる。ひときわ強い、その光。ついさっきまで霞のようだった小宇宙の気配は、今や固形物の密度を感じさせるほどに、はっきりと形を取り始めていた。
 大気が酷く、騒がしい。近辺の空気が耳鳴りのように張りつめる。闇の向こうで強烈に放たれていた殺気の渦が、すぐ足元にまで押し寄せてくる。邪気をはらんで、ざわめく小宇宙。
 ――来る。
 ムウは眼前の闇に、意識を凝らす。先刻から下の方に感じていた禍々しい気配の主が、今にも姿を現そうとしていた。

 来るならば、来るがいい。死など恐ろしくは無い。
 すべての記憶を抱き締めて、私は最後の戦いに臨むだろう。

 黄金の輝きをその身に背負い、ムウは真っ直ぐに白羊宮の入り口に立つ。……あの人に恥ずかしく、無いように。





 「――そこで止まりなさい」
 白羊宮に足を踏み入れたその人物に、ムウは揺るぎ無い声で警告を発した。一瞬だけ歩を止めたその男は、しかしすぐさま何事も無かったかのように、再び石段を進み出す。その表情は、全身を覆い隠す黒い布の陰になって、ここからは判らない。
 「それ以上進むと、あなたの命の保証はできません」
 石段の下からムウを見つめ、冥闘士はゆっくりと笑う。……どこかで聞いたような、その声音。
 邪気をはらんで澱んだ空気が、風も無いのに揺れた。ムウは碧の瞳を驚愕に見開く。すぐ目の前に現れた黒衣の影が、夜空の下の白羊宮に、ひときわ濃い闇を作った。
 まさか、――そんな、こと。
 ……あってはならない光景が、そこにはあった。


 そしてその瞬間に、すべてが崩れた。


 あの人は、死んだのだ。温かな、眼をしていた。こんな禍々しく冷たい気配が、貴方のものであるはずが無い。
 ……それでも本当は、自分が一番良くわかっていた。その人の居ない13年間、他の誰が見失おうと、私だけは間違えなかった事実。
 深く強く、どこまでも気高いその小宇宙。眼前に現れた、静かなまなざしのその人は。目の前のその姿は――貴方だ。

 記憶に重なる満天の星空を、遠く尾を引いて流星が落ちる。
 闇を纏ったその人は、微かな星明かりに照らされた口元で、冷たい笑いをゆっくりと笑った。




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Written by T'ika /2004.1.23〜10.17(遅…)