1.訣別 -Sion-





 光の届かぬこの場所から、戦いを始めよう。
 たとえいかなる宿命が、お前と私を隔てても。




 開いた瞳を盲ますほどの、永劫の闇の中。沈黙を綻ばす張りつめたささめきが流れては消える。死者の領域たるこの空間には、自分たち以外に動くものも無い。
 シオンは眼前の影を見渡す。そこには闇の冥きに溶け込むような、黒衣を纏った男が5人。先から彼らはこの場所で、反逆の戦略を立てていた。それは死者の立場から翻す、最初で最後の冥界への叛旗となるだろう。かりそめの身体を貰い受け、アテナの元へとたどり着く。――アテナの聖衣のことを、伝えるために。



 「おそらく、白羊宮は難関だろうな」 沈思の色を浮かべながら、サガが言った。
 冥王の軍勢を欺く手順も大方決まり、その後のことへと話は移っている。硬い表情のシュラとカミュが頷き、アフロディーテが肩を竦めた。
 「守護人が曲者だからな」 口の端で笑んだのはデスマスク。
 「よりによってのっけからあいつとは、たまったもんじゃねえぜ、まったく。」
 うそぶいた横顔の灰褐色の眼はしかし、いつになく真剣な光を宿している。

 ……思いがけず出たその話題に、追憶を呼び起こされたのか。
 目の前の人々の顔がふと遠ざかり、心の中でシオンは微かに頬を緩めた。この場にいないその人のことを、ひとりそっと思い描いて。
 彼らに曲者と言わせるほどには、無事に成長したらしい。
 空想の輪郭が仄かに光る。我知らずもう一度それをなぞりかけて、気付いてやめた。

 これからお前を殺しに行くのに。




 世界で最も空に近いあの土地で、孤独に慣れた私はお前に出会った。230年間近く守り続けた禁忌を破り、この手は神の仮面を外した。そうしていつしか氷が解けるようにおずおずと微笑むようになったお前のまなざしが、己のそれと交叉した瞬間を、私は今でも憶えている。
 天空に晒されたあの場所で、禁じられたその日々は誰に知られることもなかったけれども。それぞれの孤独を暖めながら、私とお前はまぼろしのような時を重ねた。……光に溢れたあの日々は、お前の中にもまだ在るのだろうか。

 いっそ忘れていて欲しいと、思った。




 さざめいた過去を遥か彼方に置き捨てて、シオンは目の前の闇を見つめる。真空だとばかり思っていたその場所に5人の共犯者が座っていることを、思い出すのに数秒かかった。何も知らぬ人々はその視線と沈黙を、疑問符と読み違えたのだろう。
 「ああ、教皇はあまりご存知ないのですね、白羊宮の守護者のことは」
 気づいたようにシュラが言った。微風のごとくアフロディーテが笑う。
 「それは普通意外にお思いだろう。…外見はあんな優姿ですが、あの男、あれでなかなか強情なのですよ」
 本当はまったく意外ではなかったけれども、シオンはその領域にはとりあえず踏み込まないことに決めている。彼らにとって、周囲にとって、自分とムウは教皇と一聖闘士に過ぎないのだ。
 それ以上のことは、誰も知らないでいい。



 それは存在しないはずの存在だった。秘められたその関係は、誰かに認識されることさえ無かった。それでも荒れ果てたあの土地で、幸せなのだとあの子は微笑った。ずっとそばにいてやれた日など、ほとんど無かった。孤独な眠りを慰めてやることさえできなかった。――それでも。
 山脈に降り注ぐまっすぐな光の下で、金の髪をほのかに染めて。
 多忙のあまり会える時間さえ限られた私の帰りを、哀しいほどの微笑みであの子は迎えた。



 黙したままで、シオンはわずかに視線を伏せる。これ以上かの人についての語りを聞くのはやめるべきだと、理性は静かな声を発した。自分のいない13年間を、あの子がどのように過ごしたのか。――知って一体何をしてやれる。これから殺しに行くのだろうに。
 しかしと、もう一つの声はささやいた。再びまみえる前に、聞いておいた方が良いのではないかと。自分の知らないあの子の歴史と成長したその姿に、戦いの中で心動かされることのないように。
 記憶の中のその人は、今でも7歳の子供の姿をしている。あの光の日々から、変わることなくずっと。……見守ることさえできなかった、その後の彼の13年。
 本当は2つの声はどちらとも、思い切ることのできない己の未練であるのかもしれなかった。





 柄にもない逡巡で、会話を逸らす機会は永久に失われた。手遅れとも言うべきタイミングで言葉が耳に入ってようやく、シオンは思考の淵から引き戻される。
 「強情なんてものじゃないだろう。あの山奥で人との関わりを一切絶って、13年も隠者のような生活をしていたのだぞ、あいつは。」
 苦笑を含んだその言葉は透明な針のように、胸の裂け目に落ちて消えた。心の奥で、何かがきしんだ。
 微かな痛みを意識の隅に、シオンは黙って瞼を細める。光の幻影を振り払うために。あの子のたどった道を忘れるために。……この先訪れる彼の苦しみを、想像しないように。

 いささかの沈黙の後に、かの人語りを引き継いだサガが5人を代表して言葉を発した。
「ムウは偽りの教皇にも一度も膝を折らなかった――どれだけ説得してみても無理でしょう。あの男に限って、アテナへの反逆者となった我々に情けをかけてくれるとは思えません」
 他の4人のまなざしも、それぞれの形で肯定の意思を示している。
 「……そうか」
 正直なところ白羊宮の守護者は、情け容赦なくアテナへの反逆者共を攻撃することなどとてもできないだろうとシオンは思った。そう思うだけの理由は、彼らには想像もつかないだろうけれども。
 扉を閉めて戦いの文脈へ、シオンはゆっくりと回帰する。……もう二度と、振り返らない。




 「……お前たちもわかっていようが、この戦いは」
 シオンはひとつ、呼吸を置いた。
 ――つらい戦いに、なるだろう。おそらくは、数ある聖戦の中でも、最悪の。
 己に言い聞かせるかのごとき静かな言の葉は、ゆっくりと落ちる。
 「残酷な命令だということは承知している。それでも、我らは行かねばならぬ。……必要ならば、殺してでも」
 これは、そういう戦いなのだ。限りなく不可能に近い場所から、ほんのわずかな望みに賭けて始められた。つべこべ悩むことのできる余地すら、無い。
 静寂が、闇に降る。5人の黄金聖闘士は、しばらく黙してシオンを見つめた。たとえその視線の強さは揺らがずとも、それぞれの形で瞳に映った確かな悲壮は隠し切れていない。注がれるまなざしにはらまれた哀しみの数を受け止めて、シオンはわずかに微笑んだ。
 「大丈夫だ。状況は圧倒的に不利だが、それでも幾らかはこちら側に選択権がある。白羊宮では、――まず私が行こう」
 しかし、と口を挟みかけるサガを、目線で軽く牽制する。
 おそらくそれが一番いい。
 呟いてシオンは、深く仮面を被り直す。素顔を隠す、透明な仮面を。

 この心が流す涙だけは、誰にも知られなくていい。
 そう、……決めた。

 「お言葉ですが、教皇――」
 幾分ためらうようにしつつも、デスマスクが言った。
 「貴方が最初に行ったとしても、教皇の威信をかざしてムウを従わせるのは、無理ですよ。サガが言った通り、あいつがそんなものに屈するとは思えない」
 ぶしつけにさえ聞こえるようなその言葉だが、そこに彼流の気遣いが込められているということに、シオンは気付いている。
 ……私に手を汚させまいというのだろう。
 「それはまた失礼な発言だな」
 どこか不敵さを感じさせる悠然たるその笑みを、わざとシオンは笑って見せた。言葉はどちらの意味で取ってもらってもかまわない。
 一瞬ひるんだように口ごもったデスマスクをちらりと見やって、息を継ぐ。
 「……まあ、ムウも結局のところ完全に従いはせぬだろう。だがおそらく私に対して、攻撃はできまい。動揺した彼に隙ができればそれで十分だ。その間にお前たちは次の宮に向かうことができるだろう」
 しかし、と遠慮がちにカミュが口を開く。あまりにも確かな「教皇」のその自信を、訝しく思ったのかもしれない。
 「そうは言ってもやはり、彼がその程度のことで隙を作る程に揺らぐとは、私には思えません。だとすればやはり、最初から我々が行った方が――」
 普通に考えれば、もっともな疑問だろう。先刻から眉根を寄せていたアフロディーテもそれに和する。
 「相手があの男ですからね、教皇であろうが誰であろうが、反逆者だとわかれば即刻激闘だと思いますよ。」
 シオンは微かにわらって応える。
 「いや――大丈夫だ」
 「――?」
 「それはない」

 黒きアリエスをまとった私の姿は、お前の瞳にどのように映るのだろうか。
 ……そこまで想って、思考を閉じた。

 5人の顔に浮かんだ疑問符を一瞥して、シオンは話題を微妙に修正する。
 「どうであれ――我々には時間がない。第一の宮は私が引き受けるから、お前たちはその間に一刻も早く次の宮に向かってほしい。そうすれば、あわよくば彼とは戦わずに済むだろう。……ムウのとどめは、私がさす」
 もの言いたげな視線を感じた。だがシオンは気付かない振りをする。別に善人気取りで言っているのではないのだから。何かを、シュラが言いかける。けれども言わせずに、シオンは続ける。
 「第一の宮で我々全員がうろうろしている暇はないのだ。異状を察した上の宮の者たちに、できるだけ迎撃準備の時間を与えぬように動かねばならぬ。」
 シュラは言葉を飲み込んだ。
 傍らで、黙っていたサガが、視線を上げてシオンを見つめる。
 「しかしそれでも、……それでも貴方自ら手を汚す必要などない。」
 祈るように、サガは言った。どうか我々にまかせてほしい、と。
 シオンは困ったように微笑う。かぶりを振って、きっぱりと言った。
 「戦いを決意した時から、この両手は既に血塗られている。――余計な気遣いは、無用だ」

 そう、お前の命さえも、手にかけることは厭わない。
 いや、むしろどの道を行ってもそこに辿り着くしかないのならば。
 せめてお前の命だけは、直接この手で引き受けたい。

 見えない仮面の見えない縁を、シオンは闇の中で静かになぞる。
 何よりも愛しかった碧の瞳が、心に一瞬浮かんで消えた。





 光の届かぬこの場所から、残酷な戦いを始めよう。
 あらゆる者に責め苦を強いる、汚辱にまみれた戦いを。
 愛しい日々も懐かしい面影も、すべての記憶を諦めて、


 私はお前に、会いに行く。



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Written by T'ika /2004.1.14〜