11. 距離・弐 -Intermission-




 茜色のなごりも消えた薄闇の空、幼な子は塔の上に座っている。西の山の彼方を見つめては、小さな膝を抱えるように。黒々と沈んだ稜線のほとりには、針のような月が細く冷えている。ついさっきまで黄昏の色あいを残していた山肌は、垂れ込める夜の色彩に、その全域を浸し終えていた。
 十三番目の明星の下、幼な子は訪れを待っている。古い星図を抱きしめながら。いつもの刻限ではなかったけれども、胸の奥には予感があった。待ち人の気配のかすかな兆し。遠い万里の地平の果ての。
 石造りの五層の館の屋根は既に冷えきって、吹きよせる氷の山風に、粗末な上着がひるがえる。子供は長いあいだ彼方を見つめ、少しだけ静かな瞬きをし、古びた羊皮紙を大切そうになでて、そうして時おり星を見た。学びの記憶を呼びおこすために。
 たとえどんなに離れていても、交わした時間をたぐりよせていれば、そばにいられるような、気がした。



 高い塔から見おろせる、細く寂れた小径の向こう。漆黒の空間が不意に揺れる。
 無人の闇を歪ませて、静かな光輝が降り立った。
 天と地のはざまに幼な子は見る、長々と待ちわびたその人影を。輝くような微笑みと共に、真っ白い吐息が風に零れ散る。ひび割れた石屋根のふちを迷わず越えて、館の下へとムウは飛ぶ。叶うならばほんの一秒でも長く、その人と一緒にいられるように。
 黒々と澄みわたる夜空にはいつしか蛍火のような無数の星屑が、一面に浮かび上がっている。苦しいほどの高揚を抱きしめながら、その人の前にムウは立つ。胸の真芯で鼓動が躍る、切なさにも似たその痛み。深く気高い湖のような、静かな瞳がムウを見る。
 想いの核を差し出すように、この世の何よりも大切な、大好きなその名をムウはささやく。他の誰も知らない、素顔を見上げ。
 星の滴る夜闇の底、時を越えた異国の法衣をまとう、眼前のその人からは温かな太陽の匂いがする。

 幾千億もの星を背に、長く豪奢な黄金色の髪が、濃い闇の中で燦と輝く。その色をムウは綺麗だと思う、身を焦がすほど綺麗な恋しい焔。
 見据えた視線は逸らさぬまま、表情を変えずにシオンは低く問う。わずかに零れる白い息の流れ。
 「こんな時間まで、こんなところで何をしている」
 「……星を見ていました」
 おぼつかぬ小声でムウは嘘をつく。用意していた小さな嘘を。待ちわびていた事実を知られぬように、冷えた体を気取られぬように。そして多忙なその人にこれ以上、要らぬ負担をかけぬよう。
 無言でシオンはしばらく見つめ、腕の中の星図に隠れるようにムウはうつむく。
 「そんな薄着では風邪を引くだろう」
 ややあって静かな声が言う。見おろす表情は動かさぬまま。翡翠の瞳を悄然と伏せて、ごめんなさい、とムウは呟く。頭上には果てなき無数の星が、永遠を隔てて燃えている。
 双眸を緩めて淡い息をつき、届かぬ高みからシオンはささやく。ちゃんと温かくしておくように。
 今日はここにはいられないから。
 胸を締めつけるほど優しく落ちる、残酷なその声をムウは聴く。そして同時にかれは知る、おそらくは壮絶な無理をして、その人が今ここに来てくれたことを。
 黒く凍てつく高地の夜に、銀色の星々は音もなく強く燃えさかる。子供は何も言わずその人を見つめ、そうしてかすかに微笑んでうなずく。手を伸ばしても触れないだけの、師弟の距離をあいだに保って。
 それでもあなたは会いに来てくれた、それだけでわたしは、幸せだから。



 零れ落ちていく時間を惜しむように、いつまでも逸れない翡翠の瞳。その長い睫毛の切っ先に宿る、光のかけらをシオンは見やる。天と地を繋ぐ墨染めの闇には傷跡のような月が輝いて、淡く透き通る細い金の髪を、ほのかに照らし出している。
 シオンは無言で瞳を閉ざす、胸の奥に刻まれた痛みとともに。言い訳のように星図を抱いて、待ちわびていた姿がよみがえる。天を貫いてそびえ立つ五層の館の頂点に、ぽつねんと座る小さな輪郭。凍るような風に身をさらしながら、他には息づくものもないこの場所で、独り。
 ただ一心に訪れを待つ、幼いその影が見えた時、哀しみに似た何かが深く胸を刺した。
 降り注ぐ星の唄を聴きながら、シオンは手にした仮面で素顔を覆う。寂しさを口に出すこともなく、微笑んだ子供の孤独を胸に。迎え出るまなざしとまなざしが触れ合ったあの瞬間、待っていてくれたのかと、そう言って抱きしめてやったなら、この子はどんなに幸せだったろう。
 そんなことは、わかっていても。
 媚びも甘えも交わさない、馴れ合わぬ師弟の距離を置き。いとおしい瞳に背を向けて、シオンはゆっくりと踵を返す。
 最後まで腕は、伸ばさない。



 そうして太陽と月がすれ違うように。



 宵闇の彼方へ遠ざかる、届かぬ輪郭をムウは見おくる。どんな星よりも眩しく輝く、光の残像を焼きつけながら。別れ際の一瞬に、この身をじっと見おろした、深い双眸を思い出す。全てを知り尽くしたような瞳の色に、ほんの少しだけ心が沈む。
 きっと、嘘はばれたのだろう。
 喜びに我を忘れ迎え出る、子供じみた振るまいの愚かさに、呆れられてしまっただろうか。激務の間をぬって会いに来てくれたあの人に、これ以上心配などかけたくはなかったのに。
 痛みのようにかすかに疼く、胸の奥の恋しさを閉じこめて、ムウは師父の身にかかる負担を思う。無理をさせてしまってごめんなさい。幼い子供でごめんなさい。貴方のために、強くなる。たとえそばにはいられなくても、どんなに遠く離れていても。孤独な日々の中で奇跡のような、あなたの光に出逢えただけで。この場所にいさせてもらえるだけで。
 それだけでわたしは、幸せだから。
 夜の闇に燃える太陽のような、癖のある豪奢な黄金の髪。瞳の奥に焼きついたままの、強くて深いその色を、切ないほど好きだとムウは思う。この輝きを覚えている。あなたのことを、覚えている。いつまでもずっと、覚えている。
 決して、忘れることはない。



 夜も深く降りつもる静寂の中、振り返ることもなくシオンは道を行く。見つめる視線を、感じながら。遠ざかる背後の闇の向こう、あの碧い瞳はいつまでも、去り行くこの背を追うのだろう。待ちわびていたこの姿をいつまでも、記憶に焼きつけておこうとするかのように。
 見おくる子供の切ない思慕に、シオンはかれの孤独を思う。他に身寄りのひとりも持たず、平凡な幸せのかたちを知ることもなく、望むことすら、知りもせず。遠く隔てられたこの土地で、どれほどの時間を待ったのか。
 どれほどの時間をまた待ちわびるのか。
 夜の翳の向こうにたたずんで、幼な子はずっと、シオンを見ている。おそらくは瞬きもせずに見つめているのだろう、翡翠の瞳が心に浮かぶ。離別の言葉を静かに受け止めた、もの言わぬまなざしがよみがえる。この素顔を見上げて、そっと、笑った。何よりも愛しい、碧の瞳。
 ……お前は私を恨んで良いのに。
 館の上で待ちわびながら、星を抱く小さな愛しい姿。月光のように淡く透き通る、その髪の金色が哀しいほどに、綺麗だったとシオンは思う。二百年の孤独に差し込んだ光。
 この心の奥底に焼きついたまま、永遠に消えることは無いだろう。



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Written by T'ika /〜2007.3.25