舞台裏1.CONTACT



 部屋の対角線から眼差しだけで、シオンはずっとムウを見ている。広めの肘掛に頬杖を付いて、ごくさり気なく、眺めるように。ゆるやかに遣った視線の先では、書面と睨めっこしている貴鬼を、読書の片手間にムウが見ている。行き詰った子供に時おり口を出しながらも、答えを教えてやる様子は無い。
 どこか覚えのあるような光景だ、とシオンは口角の隅で我知らず笑う。助けを求める貴鬼の悲鳴を素知らぬ顔で聞き流し、ムウは同じヒントをもう一度繰り返す。視線は手元の本に落としたまま、口元には完璧な造形で、いつもの微笑が形作られている。理解の遅さには寛容だけれども、安易な助力は許さない微笑。冷たくもなく熱くもない、理知的な声が居室に響く。そうして再び静寂が戻る。降りつもるシオンの眼差しに、ムウは気付かない。
 ……本当に気付いていないのか、はたまた。
 ゆったりと長椅子にもたれた姿勢はそのままに、シオンは見つめる瞳に力を込めて、少しだけはっきりと視線を送る。気取られぬほどの、密かな誘導。空間をかき分け、たぐり寄せ、見えない意思で呼び込むように。机と椅子を隔てた部屋の向こう、落ちかかる髪を梳きながら、何気なく顔を上げたその人の双眸。――つかまえた。
 中空でまともに眼が合ったその瞬間、不意を突かれたムウの視線が、わずかに虚空をさまよった。誤魔化しようもないその一瞬の動揺をはっきりと視界に捕らえながら、シオンは何気ない素振りでムウを見る。時にすればわずかの間、しかしあるいは永遠とも思えるような長い間、眼差しと眼差しが絡み合う。半ば確信犯的に、シオンは視線を逸らさずにいる。どこか居心地が悪そうに落ち着かないムウの瞳は、こわばったような微かな動きで、幾度か細かな瞬きをした。
 書物に向かい合っていた貴鬼が、わかった、と大きな声を出した。
 手元の羊皮紙に一心に何かを書き込み始めた貴鬼の、幾分騒がしい気配に乗じて、さり気なくムウは視線を外した。もの問わぬシオンの眼差しをすり抜けて、次の瞬間にはもう何事も無かったかのように、手元の本へと目を落とす。動揺も感情も隠し込んで、平静な顔で書物をめくるその人の姿を、一見無関心なような振る舞いでシオンは見ている。内心で肩をすくめながら。
 もう少し親密になれていると思っていたのだけれど。
 胸の内で呟いて苦笑する。二人きりの時に見せる顔と、それ以外の時に見せる顔。そして心の奥で軽く小さく溜め息をつく。不安になどは思わない。どちらが彼の本音かなどは、わかっている。
 ただ、不憫に思うだけ。
 もう少し素顔を見せてもかまわないのに。もう少し素顔を見せてほしいのに。今までずっとそうやって、人前で流麗な表情をつくろいながら、己を抑えて生きて来たのだろうか。感情をこらえる技術ばかり、上手になって。
 その人の横顔を映した瞳を、シオンはわずかに翳らせる。13年の間に打たれ鍛え尽くされてきた、冷静すぎるほどのその理性の仮面を、闊達で素直な孫弟子の前でさえ外しがたいのだとしたら、それはあまりにも悲しく哀れなことのような、気がした。



 雑念で乱れがちな思考を無理矢理抑えつけながら、ムウは半ば上の空で書物のページをめくっている。さすがに今のは不自然すぎたに違いない。あれほどはっきりと視線を送られたのに、まともに受け止めることさえ出来なかった。
 課題に集中している貴鬼の一心不乱の筆先が、乾いた音を響かせている。室内の空気は従前と同じく、どこまでも穏やかに澄んでいる。責めるでもなく問いかけるでもない静かな視線が、それでも今なお自分の上へと静かに落とされ続けていることを、ムウは見るまでもなく感じ取っている。心のどこかで後悔しながら、注がれるシオンの眼差しを知覚しながら、そしてこの場に居る貴鬼の存在を意識しながら、手元の文字列の表面を、眼差しだけでひたすらになぞる。実を言えば酷く、緊張している。
 この人と、人前でどうやって対峙すればいいのかわからない。
 表情は完璧に繕い直すことができたのに、胸の内はなおも激しい浮き沈みを繰り返している。ああも露骨に無視してしまって、気分を害されてはいないだろうか。もしかしたら、あまり気にされてなどいないかもしれないけれども。流石に、どうでもいいと思われているということは、無いだろうが。
 揺れ動く気持ちを何とか鎮めようと努力しながら、ムウは己の心に困惑している。13年前のあの日からずっと身に付けてきた、強く冷静な理性の仮面が、シオンの前ではいとも簡単に、剥がれ去ってしまうものだから。しかし、あまり調子を乱されてしまっては、困るのだ。何しろ冷静沈着な自分の姿にのみ慣れ親しんでいる人たちの前で、そんなのはどうしようもなく、気まずいではないか。
 ページをめくって、深呼吸する。己を取り囲むその空気の中にさえ、シオンの確かな気配が在るのを感じて、軽い目眩をムウは覚える。当たり前のように、その人が居る。この同じ空間の中に、確かにその人が存在している。いったいどういうことだろう。手を伸ばしさえすれば簡単に届くような、近しい距離に彼が居る。二度と会えなかったはずの彼が、居る。
 失われたのだと、思っていた。この手のひらから零れ落ちたきり、二度と戻らないのだと思っていた。姿さえ二度と望めなかったはずの、この人は、誰だろう。さり気ない空気をまとわせて、とてつもなく自然にここに居るこの人は、いったい。唐突すぎて、分からない。だってあまりにも冗談のようで。あまりにも夢みたいな光景すぎて。
 あまりにも嬉しい、ものだから。
 こんな馬鹿みたいな顔を見られるわけにはいかない。誰にも見られてはいけないと、思う。
 落ちかかる髪を払いもせずに、開いた本のページの上でうつむきながら、ムウは己の感情を持て余している。



 翡翠の双眸を伏せたまま、かたくなに視線を上げないムウを、シオンは静かに見つめている。表情を崩さない彼の頬の色だけを仄かに染める、美しく微かな薄紅に、シオンの両眼は気付いている。凛と張りつめた横顔の下には、さざめき躍るかのようにして、細やかな思念が揺れている。うつむいたままのその人は、ひとりで幸せな顔をしている。
 彼がまだ幼かった頃から、ずっと隠されてきたものを、シオンは思う。サガの乱で殺害された教皇に弟子が居たという事実を、人々が知ったのはごく最近のこと。それまでは自分とムウの関係は、13年以上もの長い間ずっと、ほとんど誰にも知られてはいなかった。心の奥底で、シオンは思う。もしも二人の関係が初めから人々に知られていたのであれば、教皇の正体を理解していた彼の言葉はもっと早く、皆に信じてもらえたのだろうか。そして彼の困難な13年も、幾らかは生き易いものになっていたのだろうか。
 長い長い歳月の間ずっと、隠され続けて、壊死した想い。もしもこの先いつの日か、ムウと自分が、二人きりで居る時と同じように他者の前でも振舞えるようになれたなら、その時には彼の長い13年も終わるのだろうか。
 部屋の対角線から眼差しだけで、シオンはずっと、ムウを見ている。その顔を上げてくれるのを待っている。気付いてくれるのを待っている。闊達で素直な孫弟子の前でも、素のままの感情を見せてくれるのを待っている。幾多の他者が見つめる中でも、昔のように笑ってくれるのを待っている。
 扉が開く日を待っている。

 呪いが解ける日を待っている。


《END》

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「いつか夢見た花の色」の舞台裏その1です。
『ムウ様が顔色を変えるところ』をシオンが気前良く貴鬼にも見せてやったのは、こんなふうな理由もあったりなかったり。
「いつか夢見た〜」は貴鬼視点だからあんな感じですが(貴鬼の性格のよさが偲ばれます)、その裏では色々すれ違ったりやらかしたりマジメだったりしていた模様です。

ていうかおまけのはずが、なんでこんな密度に。

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Written by T'ika /〜2006.4.22