いつか夢見た花の色




 そもそも一番下っ端で、一番権力がなくて、見習い中で、しかも一番ヒマである以上、今後とも毎日の朝夕の食事の支度をするのは当然、貴鬼の役目であるに決まっていた。
 もちろん貴鬼だって、家事そのものが嫌だというわけじゃない。水汲みもまき割りも炊事も洗濯も、すべては修行中の候補生の義務であり仕事であり、大事な訓練の一環なのであって、それはこの業界では別段珍しくも何ともない、至極当たり前の掟なのである。いや、むしろ自分などはまだ相当に恵まれている方だという自覚すら、貴鬼にはあった。
 「だって、ムウはメシがまずいとか味付けが下手だとか、そんなことで五月蝿く言ったりしないんだろ、貴鬼」
 半眼のしかめっ面になりながら、言ったのは星矢である。
 「うん、それは、そう」
 「しかも、自分でメシ作ってくれることだって、あるんだろ」
 「うん、まあ、たまにだけど」
 「だったら別に、全然問題なんか無いじゃないか!いったい修行時代のオレがどれだけ命がけで料理の練習をしたと思ってるんだ?それもこれもすべては、一口箸をつけた瞬間の魔鈴さんの反応が怖かったがために!」
 確かに、貴鬼の何より尊敬する大好きな師匠は、貴鬼の作るものなら何でも美味しいと言って食べてくれる。味が濃いだの薄いだのと、文句をつけられたことなどは一度も無い。……まあそれはどっちかというと寛大というよりは、単に食に執着が無いだけだという気がしなくもないが。何しろ、「貴鬼、今日のご飯は水餃子ですよ」なんていう、春麗や美穂ちゃんみたいな細やかな科白をムウの口から聞いた記憶などは、はっきり言って貴鬼には一度も無い。お徳用の大麦の袋を抱えて満足そうな笑みを浮かべたムウから、「貴鬼、今日はご飯が有りますよ」と言われたことなら何度かあるが。しかもあの人ときたら、大切な仕事があるとかで修復室に立てこもってしまう時なんかは大抵、そのまま2日でも3日でも平気でご飯を抜いたまま、うんともすんとも言ってこないと来ている。よっぽど食に興味が無いのだろう。もはや仙人の領域だ、と眉を顰めながら貴鬼は思う。
 とは言え、たとえ仙人かシャカ並みに食が薄かろうが、たまにふらっとどこかに出かけたっきり1週間くらい帰ってこないという謎の放浪癖を持ってはいようが、貴鬼にとって、ムウが誰よりも敬愛する師であることに変わりはない。そしてその敬愛する師のためならば、炊事だって洗濯だって何ほどの苦痛でもないのである。たとえ他の修行がどんなに厳しく恐ろしかったとしても。しかも最近ではサイコキネシスのお陰ですべての作業効率が格段に上がっていたし、使い込むに従ってどんどん上達していくその力自体が何より、楽しくて楽しくて仕方ない。たまに調子に乗りすぎたせいで鍋やカマドが大爆発して、ムウに大目玉を食らうのはご愛嬌というもの。
 「……だったら一体、何が問題だっていうんだよ」
 もしかしてお前、のろけに来てんのか、と盛大に顔をしかめ始めた星矢に、貴鬼はどんよりと溜息をつく。
 「違う。相談したいのはそっちじゃなくて」
 そう。目下のところ、貴鬼の悩みはただひとつ。

 同居人がひとり、増えるのである。

 「……は?教皇が?」
 思いがけない貴鬼の言葉に、大きく瞬いた星矢はひとしきり絶句する。
 「そうなんだよ星矢……。おいらどうすればいいんだろう」
 「そ、それは……」
 「シオン様用の食事なんて、いくら考えてもさっぱりわからなくて」
 「た、確かに……」
 「ムウ様は、一生懸命作ればシオン様は何でも喜んで食べてくれるよって言うんだけど、おいら、噂を聞く限りじゃあ、シオン様はムウ様とはかなりタイプが違っていらっしゃるような気がしてならなくて」
 「……アー、オレも、違っていらっしゃるような気がちょっとする」
 呟いて目を逸らした星矢の脳裏にはもちろん、一瞬のうちに三人の仲間ごと空中にブン投げられたあの聖戦の日の恥ずかしい記憶が、まざまざと鮮やかに蘇っている。あの瞬間の教皇様の独創的かつ恫喝的かつ大魔王的な破壊力といったらもう、聖域の地下では早くも伝説化しているくらいだ。
 「ねえ星矢、どうしよう。シオン様って一体、何食べるんだろう」
 「うーん……」
 「おいら本当はあんまり料理得意じゃないんだよ。初日からいきなり変なもの出しちゃって、シオン様を怒らせた罪で死ぬかもしれない」
 「お、落ち着けよ貴鬼。少なくともムウがいるんだし、最悪間違った食べ物を出しちまったとしても、代わりに取って食われるってことだけはないだろさすがに」
 蒼白な顔の貴鬼に、引きつった笑みを浮かべながら星矢は答える。何やらどうも、シオンのことを、ティラノサウルスか何かだと思っているような節のある両名である。ややもすれば、伝説的な未知の人に対する、憧れも入り交じった畏怖心もあってか。……兎にも角にもあと数日で、一人と一人ともう一人の奇妙な同居生活は、幕を開けることになるのである。
 ハーデスとのあの壮絶な聖戦が終わってからしばらく経った、まだまだ忙しい初夏の午後である。




 早朝というよりは深夜と呼んだ方がいいような、暗く静かな時間帯。階下の微かな物音で、貴鬼は慌てて目を覚ます。自室として割り当ててもらった屋根裏の窓から外を見てみれば、空には朝焼けの兆候どころか、星屑が煌々と輝いている。天井を仰いだ目が思わず回る。
 少なくともひとつだけはわかったことがあるぞ、と、扉を閉めて出て行くわずかな足音を聞きながら、貴鬼はここ数週間のあいだに幾度も心中で繰り返したくやしい命題を、溜息と共にまたも噛み締める。――ひとつ。何より聖域の教皇をやっているシオン様という人は、とっても忙しいということだ。鍋の中に残っている前日の夜の作り置きを、深夜遅くに帰って来て食べ、時間がある場合には夜明け前にももう一度食べて、疾風のように出立して行く。以上。終わり。……お陰で一緒に住んでいるのにもかかわらず、貴鬼とシオンはご飯が完全にバラバラだ。というかあの人、いつ眠っているんだろう。
 ああでも、と貴鬼は頭の中で付け加える。シオン様が何を食べるのかは、わかったぞ、多分。驚いたことに意外とシオンは好き嫌いなく、貴鬼の作ったものはどれでも食べてくれるのだ。星矢に教わったムサカを出そうが、懐かしのジャミール風大麦雑炊を出そうが、翌朝起きて見てみれば毎回必ず、鍋の中身はきちんと減っていた。まあ、美味しいと思ってくれているかどうかまでは、未だに良くわからないのだけれど。でも、わざわざ感想をムウから聞いてもらうのもそれはそれで気まずいような気がするし、かと言って一緒にご飯を食べられる数度の機会に自分で観察してみても、シオンときたら感想も反応も、ほとんど表情に出してくれないのである。貴鬼の方ではそりゃあもう本当に一生懸命に、息まで殺しながら、じいいいーっとシオンの顔を穴の開くほど凝視し続けていたというのに。……きっとあまりにも忙しすぎて、貴鬼のことなど気にしている余裕など、全然ないのに違いない。いやそれどころか、この家に貴鬼がいるという事実にさえ、全く気付いていなかったら、どうしよう。――ま、まさか。
 ぶんぶんと頭を振って気を取り直した貴鬼は、半分寝ぼけた両眼をこすり、服を換えて、瞬間移動を使って階下に下りる。突然、ほんわりといい匂いが、寝起きの鼻腔をくすぐった。思わず辺りを見回せば、何だか台所が小綺麗になっているような気がする。昨日の残り物はいつの間にか綺麗に片付けられているし、竈を見れば何と、でき立ての新しいご飯が、鍋の中から湯気を立てているではないか。――うわあ。貴鬼は再び目を見開く。
 ……そう、最近気になっていることは、実はもうひとつ、ある。
 貴鬼は、自分の師匠は食事に執着のない人だと思っている――思っていた。今までずっと。しかし何やら最近、ムウがご飯を用意しておいてくれる割合が、えらく増えているような気がするのである。もともとあまり頓着せずに自分でも台所に立つ人だったとは言え、この回数はちょっとおかしい。……普通じゃない。
 ほかほかと熱い麦粥をよそっているムウの横に腰を下ろしながら、ちらちらと視線を送ってみる。澄ました表情に浮かんだ微笑みは、相も変わらず完璧である。「何事も変わったことは起こってはいませんがどうかしましたか貴鬼?」とでも言わんばかりの、鉄壁のそ知らぬ素振りを返されて、貴鬼の自信はいささか揺らぐ。……いや、それでもおいらは騙されないぞ。やっぱり絶対に、増えている。
 まあ、自主練の時間も増えるわけだし、ムウ様の作る料理がいっぱい食べられるわけなんだから、おいらだって嬉しくないわけじゃないんだけどさ。思いながら貴鬼は、よそったご飯を一口ぱくりと食べる。――しかもこれ、ものすごく美味しい。
 ギリシアの麦っていうのはチベットのよりも上等なんだとは聞いていたけれども。どうも、いつになく美味しすぎるような気がしてならない貴鬼である。




 己に許された領域のぎりぎり間際まで両足を踏ん張って、これまで観察に観察を重ねてきた結果、貴鬼の判じたところによれば、やっぱりシオンとムウは会話が少ない。……たぶん、他の誰が見ても同じ結論に達するだろう。
 しかし同時に貴鬼は、不思議な現象に気付いてもいる。
 例えばこれだけ会話が少ないにもかかわらず、シオンが右手を伸ばした時のムウは必ず、紙やペンや髪紐や報告書やお茶碗や、その他諸々の雑多なものから、正しい品物を正しく選び取った上で、シオンの傍に差し出している(ように見受けられる)。しかもやり取りされているのは物だけではなく、きちんと意思の疎通まで取れているらしいというのが、貴鬼には本当にわからない。
 「シオン、あれが」
 「そうか」
 いったい何のことなのか、貴鬼にはさっぱりわからない。一時期などは、本当は二人がしゃべっているのはチベット語じゃなくて、貴鬼がまだ知らない高度なギリシア語のスラングなんじゃないかとまで考えて、こっそりネイティブスピーカーのアイオリアに聞きに行ったりすらしてみたのだけれど、やっぱり二人の言葉はギリシア語などではないらしく、となると、やはり必然的に、チベット語であるようなのであった。ここまで来るともはや、貴鬼には恐ろしいような心地すらしてくる。
 「気をつけて」
 「……すまない」
 全然駄目だ。貴鬼は心の両手で頭を抱える。シオン様は何を謝っているのだろう。

 上りつめた太陽も傾きかけてきた、その日の午後。テーブルについて優雅な手付きでお茶を飲んでいるシオンの動きを、貴鬼は教科書の陰からぼんやりと見つめている。
 畢竟、一時期の強烈な忙しさも随分マシになったということなのだろうか。最近のシオンは、こうやって自宅でくつろぐことも稀ではない。そして貴鬼の方はもともと習慣として居間を勉強部屋にしているものだから、こういった時のシオンとは必然的に、マトモに顔を合わせることになる。もちろん、勉強中に無駄口を利いて怒られてはいけないと思うから、貴鬼にしては毎回かなり頑張って、マジメに課題の方だけに集中しているつもりではある。今もまたムウに与えられた算術の問題とギリシア語の書き取りを終わらせるために、机に向かってうんうんと唸っているところ。……でも、今日のこれはもう、全然わからない。正二十面体が切り刻まれた段階で、さっぱりお手上げだ。
 そんなわけで、気がつけば貴鬼は痛む頭を抱えながら、テーブルの対角線に座ったシオンの姿を、ぼんやりと見つめているのである。
 ――そう、正直言って、貴鬼は未だにこの難しい男のことが、良くわかっていなかった。
 この間は氷河に相談してみたりしたのだけれども、「我が師の師は我が師も同然ではないか!」と、非常にややこしいことを言われただけで、やっぱり何だかよくわからない。それなのに、一方でこの同居の噂だけは、爆風のごとき勢いであちこちの界隈へ広まっていると見えて、貴鬼の元には色んな人が色んな形で、三人の同居の様相を聞いてくると来たものだ。しかもその大半が、妖怪と妖怪の私生活が想像できないから是非教えてほしい、という出歯亀的なのか何なのかすらもよくわからないような質問だという点に至っては、貴鬼としてもほとほと困り果てているのである。第一そんなの、貴鬼にだってわからない。
 しかし素直に「わからない」と答えるのは癪だし、かと言ってまさか「実はあの人たちは妖精みたいに、子供が起きている時間帯には絶対に一緒に姿を現さない生き物なんです」などと答えるわけにも行かないし。そういうわけで貴鬼は貴鬼なりに色々思った結果、適当にお茶を濁して回答してはいるのだが、どうもその答えは相手を余計に混乱させるだけらしく、回答を聞いた人の大半は却って疑問符の群が手足を百本生やしでもしたかのような顔になるし、貴鬼も貴鬼でそのたびに、何かが悔しいような気もするのだ。
 だから、貴鬼も最近では大きな両眼を皿のようにして、(たとえいささか露骨にであっても)一生懸命に、二人の様子を観察しようとしてはいるのだが、それでもやっぱりわからない。そもそもシオンという人が単体でよくわからないものだから、貴鬼の師匠であるムウという人が、シオンの前ではどのような弟子であるのかなどといったハイレベルな質問となると、それこそもう、絶望的に全く駄目。これほど近くでこれほど眼を皿のようにして見ている貴鬼にすら全然わからないんだとしたら、きっともう、誰が見たってわからない。
 と、不意にテーブルの向こう側のシオンが立ち上がる気配がした。取りあえず格好だけは教科書とにらめっこしている(ことになっている)貴鬼は、視線だけ上げて、そちらを仰ぎ見る。
 涙ぐましくもいじらしく、必死の形相で勉強中の孫弟子の姿を、まなざしの端っこでちらりと見やったシオンは、何を思ったか、ふっと口角の隅だけを上げる。そうして悠然とした足取りで、そのまま部屋から出て行った。
 しばらく固まっていた貴鬼はくず折れるようにして、テーブルの上に沈没する。
 ……うわあ。今、思いっきり、バカにされた……。




 朝夕の風に涼しいものが混じり始め、慣れないギリシアの気候も、昨今ではかなり過ごしやすい。
 そんな中、ここしばらく長期不在にしていたシオンが、昨夜も遅くになってようやく帰って来たものだから、今朝の貴鬼はそりゃあもう張り切って、神様級の早起きをした。本当のことを言えば、実はほとんど徹夜に近い状態なのだが、そんなことがばれたが最後、世にも恐ろしい師匠から大目玉を食らってしまうことくらい、貴鬼にもちゃんとわかっている。さっきからずっと念入りに顔中をこすって、両眼の下の血流を良くしていたのもそのためである。
 とにかく今日はとびきり腕を振るって、ムウ様みたいな完璧な朝ご飯を作るのだ。「恐るべきシオン様の視線」なるものを意識し始めるまでは、誰からのプレッシャーも感じないまま、一向に上達してこなかった貴鬼の料理の腕も、今や星矢や瞬や氷河や紫龍や、その他多数の協力者を得て、格段の進歩を見せ始めている。
 階下の部屋で疲れ切って眠っているのだろうシオンを起こさないように、そっと足音を忍ばせながら、気配を消して、台所へ飛ぶ。
 ――と。
 貴鬼は大きな両眼をぱちくりさせた。静かなはずの空間は既に、控えめながら物音に満ちていた。ぱちぱちと薪がはぜる音。金物と金物が触れる音。ほんのかすかな、小さなハミング。
 そこには誰かが既にいた。
 はっとして素早く振り向いたその人の視線が、貴鬼の視線とがっちり噛み合った。
 「……あれ。ムウ様」

 『何をしているんですか、こんなところで』。『今朝は、おいらがやろうと思っていたんですけど』。『何だかすごくご機嫌ですね、どうしたんですか』。……いずれの科白も途中まで口に上らせかけはしたのだけれど、結局あまりにもわざとらしいと思って貴鬼はやめた。いったい、こういう場合、いたいけな弟子としてはどう声をかければいいのだろう。
 固まり切った空気の中、内心で困り果てながらも貴鬼が無言で見ていると、普段から冷静沈着で知られる貴鬼の師匠は、怒ったように、
 「こ、これは……条件反射のようなものです!」
と言って、目を逸らした。
 「つまり……昔はいつも、こうやって作っていたので……その……」
 貴鬼は必死の思いでポーカーフェイスを保ちながら、心の中の突っ込みと笑いを噛み殺す。……下手な言い訳をするくらいならやめといた方がいいって、いつもおいらに言ってるのに、ムウ様。
 ていうかおいらまだ、何にも質問してないのに、ムウ様。




 聖闘士の訓練は、とても厳しい。相手が子供だろうが何だろうが、ともかく冗談のように厳しくて、打ち合いが終わった後には大抵、貴鬼の全身はあざだらけになっている。ちなみに当然のごとく、シオンが貴鬼の相手をしてくれることはない。忙しいという理由ではなく、お前の実力はまだまだだからと、ムウの言葉を借りればそういうことなのだそうだ。(正面切ってそうムウに言われてしまった時は、さすがの貴鬼もいささか凹んだ。)
 毎日の修行の中で、師匠が1対1でわざわざ相手をしてくれる時間というのは、実はそんなに多くはない。今日だって、午前中の訓練と夜の勉強以外の時間は、もっぱら貴鬼個人の訓練用にと当てられている。まあしかし、それも候補生なら当たり前のこと。基本的に独立独歩の世界である。ムウ本人も小さい頃は、そうやってこつこつと地道な修行に励んで強くなったのだということを、貴鬼は耳で聞いて知っていた。そして実を言えば、その道筋に憧れていた。
 まだまだ卵に過ぎなくても、殻を破るのは自分の仕事。1人で立たねばならぬのだ。
 聖闘士の修行は、厳しいのである。

 その午後はふと気分転換をしようと思って、聖域の中ほどにあるコロッセオまで遠出をしてみたのだが、結果としてはそれが大当たりになった。運良く他の候補生と打ち合いの練習もでき、しかもその結果として己の修行成果にいささかの満足を覚えることもできた貴鬼は、すこぶるいい気分になりながら、崩れかけた闘技場の柱の陰に寄りかかりつつ、涼風に当たって身を休めていた。
 見るともなしに遠方を見ていると、向こう側で警護をしていた雑兵が、跪礼を取るのが視界に入る。何だろう、と思う間もなく、貴鬼は教皇の法衣をまとったシオンが、悠然と歩いている姿に気付いた。隣には何か真剣な調子で打ち合わせるように話をしながら、獅子座のアイオリアが従っている。
 泣く子も黙る黄金聖闘士に対して、あれほど緊張した顔をさせるというのも、聖域の教皇の権威ゆえだろう。略式の法衣の布地までもが、降り注ぐ陽射しの下で、きらびやかな高貴さを醸し出している。貴鬼は少しだけ浮き浮きしている自分に気付く。陽射しの向こうでかの人が放つ、あの強烈で圧倒的な存在感に対する憧れと、――それからその彼の孫弟子であるという自分の立場が、何故か根拠もなく誇らしいような、不思議な気持ち。……ちょうどいい。ここならかなり距離もあるし、朽ちかけた柱が林立していて視界も決して良くはないから、じっと見つめていたところで、貴鬼の存在が気付かれることもないだろう。普段は却って機会がない分、今日はここから思う存分じっくりと、教皇服姿のシオン様を観察しまくってやるのだ。
 見つめているうちに、向こうではアイオリアの後を追いかけるようにして、タイミングよくミロもやって来た。やっぱりマジメな顔をして、シオンに何かを奏上している。ミロの方はアイオリアとは異なって任務の帰りなのだろう、まとった蠍座の黄金色が、遠目にも眩しい異彩を放っていた。しばらく真剣な顔で、シオンとアイオリアと会話した後、どうやら決着がついたらしい。ミロは優雅な一礼を取って、速めの足取りで立ち去った。その完璧な立ち居振る舞いに、貴鬼の唇からは思わず感嘆の溜息が漏れる。そこら辺の雑兵の小慣れない礼とは、比べ物にならない。ひるがえったマントが、とっても優雅だ。――さすがに正装の黄金聖闘士は違うなあと、貴鬼は思う。これは、あこがれるなという方が、無理だ。
 しかしこういう光景を見ていると、改めて貴鬼は最近忘れかけていた事実について、まざまざと思い知らされるのだった。そんなに凄い人々から凄い礼を受けているシオン様という人は、そう言えば物凄くえらい人なんだったっけ。不思議な気持ちで、貴鬼は思う。おいらの中では最近じゃすっかり、お茶を飲んだりご飯を食べたりしているイメージに落ち着いてしまったんだけど。
 と、その時である。視界の中に、見慣れた色合いの修行服が目に入った。
 いったい何の用事だろう、聖衣の修復のお仕事かしら。貴鬼は興味深さもひとしおに、やってきた人影を注視した。そう、ミロの次に現れたのはあろうことか、貴鬼も良く知っている牡羊座の黄金聖闘士、ムウだったのである。しかし貴鬼としては、ジャミールでのムウのことはこれ以上ないくらい知っていたけれど、平時の聖域において、一聖闘士として教皇(しかもそれはシオンだ)に相対しているムウの図などは、ほとんど見知ってはいなかった。いったいどんな感じなんだろう。今や貴鬼の両胸は、溢れる好奇心ではちきれんばかりである。
 密かに貴鬼が見つめる中で、ムウはゆっくりと一歩下がりながら、臣下の礼を、ぎくしゃくと取った。……何だかミロよりも随分下手だなあ、と、思わず心配な気持ちになりながら、貴鬼は息を凝らしてじっと見守る。アイオリアが脇によけて、お陰で何かを奏上しているムウの姿は、貴鬼の目からも良く見えた。浅くシオンが頷いて、その場の空気が少し緩む。良かった、用事は済んだみたいだ。
 再びぎこちなく黙礼するムウを見ながら、貴鬼はとてもじゃないがまっすぐ見ていられないような気分に、いつの間にかさせられている自分に気がつく。ああ、どうしておいらがこんなに緊張しなきゃならないんだ。手に汗握るとはこの事だ。だってあまりにもぎこちなさすぎる。ていうかムウ様、雑兵より礼が下手だ。
 と、その時、ガン!と大きな音がした。ぎくしゃくときびすを返して歩み去り始めたムウが、いきなりその辺の柱にぶつかった音だった。貴鬼は危ういところで悲鳴を飲み込む。あんなに離れている場所からなのに、凄く大きな音がしたけど……。何となく、遠目にも硬直しているように思われるシオンの隣では、アイオリアがまじまじと目を剥いている。うわあ。ムウ様、お願い。そんなに走るようにして消え去らないで!
 思わず口を開けて見送っていたら、ガン!と再び大きな音がして、貴鬼は再び首を竦めた。見れば今度はシオンが思いっきりその辺の崩れかけた壁にぶつかって、両手で頭を押さえている。傍らのアイオリアはもはや、どうしていいのかわからないに違いない。その周辺では雑兵が2,3人、低頭したまま震えている。
 遠く離れたコロッセオの柱の陰、万が一にも二人に見つからないように身を伏せながら、貴鬼は必死の思いで、込み上げる爆笑を押し殺している。

 昨夜だか今朝だかに二人の間で何があったのかは知らないが、何だかとっても微笑ましいなあと、幸せな気分で思っていたことは、ここだけの秘密である。

 ……ちなみにその日の夕食の席でのシオンとムウは、それはもう非常に大変に絶妙にぎこちなく、一方で貴鬼自身はと言えば、マジメな顔を維持し続けるために、それはもう胃壁の捩れるような思いをしながら、今にも震え出しそうな顔面の筋肉を、文字通り命がけかつ必死の思いで、延々とコントロールし続けなければならなかったんだとか、何とか。




 朝早い時間の貴鬼はいつも、ひとり体力作りに余念が無い。最近では明け方の気温は氷点下近くにまで冷え込んでしまうから、特にたくさん体を動かさないと、すぐに風邪を引いてしまう。もちろん極寒のジャミールと比べてしまえば、ギリシアの気候なんて暖炉の中みたいなものなのだけど。
 ひとしきり地道に汗を流した後、ふいに気配を感じて貴鬼は振り向いた。背後の岩の上にゆったりと座っていたのは、思いもかけない、シオンの姿。貴鬼は我知らず息を呑む。この様子ではどうも、しばらく前から居座られてしまっていたらしい。
 「油断していたようだな」
 「はい、あの、すみません。気をつけます」
 「……誰かを思い出す。ムウもいったん集中すると、良く周りが見えなくなっていたものだ」
 少し眼を細めて言うシオンに、本当ですか、と貴鬼は驚愕のあまり目を丸くしながら、傍まで小走りに駆け寄って行く。自分の師匠がそんなふうだったという事実自体も驚きならば、しかもそれをシオンの方から貴鬼に話しかけてくるということも驚愕の極みで――あれ、ちょっと待って。おいら、シオン様と雑談している?うわあ!
 「で、でも、シオン様。ムウ様のそういうところって、おいらもちょっとはわかるかもしれないです。だってムウ様ってば、聖衣の工房に籠もっちゃう時なんか、2日も3日も平気で出てこなかったりするんだもの。部屋には絶対に誰も入れないし、ご飯だって抜いちゃうし」
 「……それは初耳だな」
 「あ、ご飯のことは一応おいら、お体にさわりますって言ったりするんですけど。でも、どうしても食べるのを忘れちゃうんだそうです。ジャミールに居たときなんか特にそうだったんですよ。最近はそうでもないんだけど」
 シオンは無言で眉を顰めた。それを見ながら、貴鬼は内心で新鮮な驚きを覚えている。こういう雰囲気で眉を顰めるシオン様って、何だか格段に表情が人間っぽい。ああ、おいら、初めて見たなあ。……眉を顰められているという不穏な状況にもかかわらず、あろうことか、のん気に嬉しくなってしまっている貴鬼である。
 「あ、でもムウ様がご飯を食べないのは修復のお仕事のせいなんだから、仕方がないんだろうな、とも思うんですけど」
 「…………」
 「……あの、ええと、シオン様?」
 いささか長すぎるようなシオンの沈黙に、ここに来てようやく貴鬼は違和感を覚え始める。――ひょっとしてシオンは今の会話で、怒ってしまったのではないだろうか。しかも、よく考えてみたらこれは、貴鬼が告げ口してしまったということにならないだろうか。もし、これでムウがシオンに叱られたりしたら、貴鬼はムウにも、とても気まずい。
 「ええと、その、すいません。あの、シオン様――ムウ様のことは怒らないで」
 辺りの気配が、ふっと緩んだ。貴鬼はぽかんと口を開ける。信じられないことに、どうやらシオンは笑っているようだ。……うわあ。
 貴鬼は目を丸くしたまま、ありがとうございますだかすみませんだか何だか良くわからないことを、口の中でもごもごと言った。

 「そう言えば、もうすぐムウ様のお誕生日ですね」
 ムウ様のお誕生日、シオン様もご存知ですよね?と、貴鬼はわかりきった話題を振ってみる。
 「それで、そう、シオン様は、ムウ様が何を貰ったらびっくりすると思いますか?」
 とっさに考えた質問を、シオンに向かって投げかける。答えを教えてほしいという意図からではなく、何となくもっと長く会話をしていたかった。
 「びっくりするもの?」
 喜ばせるだけでは不満なのかと言外に批判されているような心地になって、ついつい貴鬼は言葉を重ねる。
 「あ、その、そうじゃなくてつまり、シオン様はムウ様の小さい頃をご存知なんでしょう?ムウ様のことで、何かおいらが知らないことをご存知じゃないかなって思って。おいらにも何となく、こういうのは好きだろうなとか、嬉しがってくれそうだなとか、そういうものならわかるんですけど、でもムウ様がびっくり仰天するくらいのプレゼントは何だろうっていったら、ちょっと思いつかなくて。……何だか何を用意しても、渡す前から中身がバレちゃってそうな気がするんだよなあ」
 「ほう?」
 「だっておいら、ムウ様が顔色を変えるところを、一度も見た事がないんだもの」
 ついでのつもりで言った言葉に、シオンは短く、そうか、とだけ答えた。もしかしたら光の加減だったのかもしれない。深い色彩のシオンの瞳に、一瞬複雑そうな陰影がよぎったような気がしたのも、きっと貴鬼の思い違いだろう。微かに動いた薄い唇が、独り言のように何かを形取る。浮かび上がったその言葉の輪郭に、貴鬼は思わず問い返しかけて、すんでのところで踏みとどまった。まさかこの文脈でその言葉はないはずだから、やっぱり自分の気のせいに違いない。
 「とにかくムウ様ってば、酷いんですよ。おいらが何かやらかした時だって、またお前の悪戯がすぎましたねって言っときながら、どう見ても全然動じてないんだもの。……どうせあんなにこっぴどく叱るんなら、せめてもうちょっとくらい驚いてほしいや」
 不貞腐れたような貴鬼の言葉に、ニヤリと笑ってシオンが言った。
 「なるほど。それで、お前は何をやったのだ?」
 「ええと、……ジャミールの館を、台所ごとふっとばしました」
 「そんなところか。可愛い部類ではないか」
 シオンは鼻の先でさざめくように笑う。
 「言っておくが小僧。ムウの悪戯はそんなものではなかったぞ。最悪の奴を一例挙げれば、山がひとつ無くなったことがある」
 「……え?」
 「お陰であの辺り一帯は、すっかり地形が変わってしまった」
 「…………ええと?」
 「参考になったか?」
 ……いや、その、それは、おいらにはどう考えても規格外です。第一、その方向性でムウ様を驚かすことに成功してしまった場合、待ちかまえているお仕置きが怖すぎて、とてもじゃないけど生きて帰れる心地がしません……
 色々考えながら凝固し切ってしまった貴鬼を尻目に、シオンはくつくつと笑って立ち上がり、背中を向けたまま軽く片手を挙げた。そうして、来た時と同じように唐突に、ふいっと去って行ってしまったのだった。
 ……今のは、もしかして、からかわれていたのだろうか。固まったままの姿勢で、貴鬼は思う。しかし直感的にあり得ない話では無いような気がするのが、何とも怖いところだが。――やっぱり子供のムウ様は本当に、山をひとつふっ飛ばしたのだろうか。そうしてその後はやっぱり怖い顔をしたシオン様に、散々叱られたんだろうか。あんな感じに、眉を顰められて?
 そこで貴鬼は、はっと気付く。そう言えば今日は貴重極まりないことに、シオンが笑うところを4回も見てしまった。
 しかも全部、違う笑い方で。

 結局ムウの誕生日の件については、「お前が自分で考えるのが一番いいだろう」と言われただけで、答えを貰うことはできなかったのだけれども。
 何だか少し近くなれたような気がしているこの感覚だけは、貴鬼の思い違いではないだろう。




 相変わらず、シオンとムウとの不可思議な意思疎通のありようは、貴鬼にはさっぱりわからない。今日もテーブルの向こう側とこっち側で交わされている何かのやりとりを、暗号文でも聞くような気持ちで漠然と聞いている。
 しかし、最近の貴鬼はもう、気にしないことに決めている。
 それはそもそも言葉に出来ない微妙な何かであるような気がしたし、他人に話すにはあまりにも繊細で私秘的な何かであるような気もしたし、何よりも口に出した瞬間には跡形もなく消えてしまう類の、煙や幻にも似た何かであるような気がしていた。
 そう。それに、言葉で解説してもらわなくたって、いつか自力で察せられるようになってみせるのだ。貴鬼は思って、密やかな笑みを満面に広げる。
 聖闘士の修行は厳しいのである。




 ――その日は朝から良く晴れていた。温かくなり始めたこの時期に特有の、和らぐような空気の触手が、ひときわ肌に優しく感じられる。真っ青な空には陽光が溢れて、見上げた眼の奥が酷く眩しい。
 天気の良さに誘われるように、貴鬼は午前の間じゅう、屋外でムウと一緒に訓練をしていた。それであまりにも熱中していたものだから、いきなり前触れもなく、空の色が変わったその瞬間には、にわか雨でも降ってきたのかと思ったのだ。
 突然耳の中でさあっと音がして、周囲の風景が一変する。貴鬼は茫然として目を見開く。まるでこの世ならざる光景に突入したかのようだった。見上げた空は、宵闇の濃紺。よくよく両眼を凝らしてみれば、天には星が瞬いている。時差のある国の景色なのだろうか、夜色の視界を見渡せば、暗闇の中にはぼんやりと浮かび上がるようにして、何か白いものが揺れていた。辺り一面を埋め尽くすように、幾重にも覆い被さるように、真っ白い何かが揺れていた。
 これは、――花?なんて、綺麗。
 はっと我に返った時には、貴鬼は既に元通り、さっきの場所に立っていた。
 何事も無かったようにゆっくりと、世界が再び晴れて行く。真っ青な上空のどこを見ても、一片の雲の影さえ在りはしない。ただ、何か大量の白いものがひらひらと、辺り一面に舞い散っている。
 雪かと思ったら、そうではなかった。青い空のどこからともなく、白い花びらが降り注いでいるのだった。
 眼を丸くして見下ろした自分の体の周辺は、いつの間にか花びらの白にすっかり覆われている。それから気付いて隣を見れば、まるで亡霊でも見たかのような表情のムウが息を呑んだまま、棒のように立ち尽くしていた。その視線の先を辿って行って、ようやく貴鬼はシオンに気付く。そして、ふと思い至る。強大な力を持つその人にならば、どこか違う国の花景色を直接二人分の脳裏に映して見せることくらい、簡単にできるはずだということに。もちろん、どこか知らないその場所から大量の花びらを瞬間移動させることだって、朝飯前に違いない。
 いつの間にかすぐ近くに来たシオンが、真っ直ぐにムウを見下ろしていた。穏やかに微笑んで、たった一言。
 「――誕生日おめでとう、ムウ」
 13年ぶりの言祝を、ゆっくりと言って、シオンが笑う。埋もれたムウを、見下ろして笑う。高く青い空からはまだちらほらと、花びらの余韻が舞っている。
 茫然と立ち尽くしていたムウの顔が、じわじわと真っ赤な色に染まって行くのを、驚愕の思いで貴鬼は見ている。まるで泣きそうな顔だと、思った。両眼ともあんなに真っ赤になっちゃって。シオン様があんまり勢い良く飛ばしたものだから、花びらが目に入ってしまったのではないだろうか。……だって何にも哀しいことなんか無いんだから、泣いているわけじゃないんだよね?
 答えを求めて視線を回せば、ムウを見つめるシオンの瞳は、とても優しく深い色をしていて、貴鬼は思わず息を呑む。初めから気付いていたかのように、シオンはちらりと貴鬼を見る。一瞬確かに合わされた眼差しが、温かく意味深に笑ったような気がした。
 ああ、この人はムウ様のお師匠様なんだなあ。しみじみと思って、貴鬼は笑う。そして、おいらのお師匠様のお師匠様なんだなあ。
 だから貴鬼は今日は、とても嬉しい。あの時の氷河の答えの意味が、ようやくわかったと思うから。




 相変わらず自分たちときたら、毎日バラバラな時間ばかり過ごしているけれど。笑いながら、貴鬼は思う。それでもこの素敵な二人の同居人のことを、不満に思ったことなんか、一度も無い。そろってご飯を食べることなんかほとんどないし、交わす会話は少ないし、二人ともとんでもない仕事人間で、ご近所付き合いだって下手くそで、その上愛想の欠片さえないんだけれど。
 それでも、こんなに素敵な二人はいない。

 奇妙な人たちが奇妙に暮らす、奇妙なこの家は、世界一。



《END》

************
ムウ様、シオン様、貴鬼ちゃん、お誕生日おめでとう!
2006年の私の生活も、さぞかし貴方たちに蹂躙されまくることでしょう。
きっと間違いありません。(笑)

今年こそちゃんと3人出して、しかもおめでたい話にするぞと心に誓ったのはいいのですが、
できあがってみたらこんなんでした、わはははは。(祝う気持ちだけは百人前!)
一応これ1本でもまとまるように書いてみたつもりなのですが、実は微妙に、
去年の「Aries's Party」に出品した拙稿(暗い)の補完バージョンになっていたりします。

最後になりましたが、主催のメモリ様、今年も素敵な羊誕を、
本当にどうもありがとうございました。心から、感謝を込めて。

2006年3月 「CELESTE」 ティカ拝

******追記
サイトへの再録に当たって、おまけがつきます。近日中に。
本編が貴鬼視点だったがために明文化できなかった諸々を。

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Written by T'ika /〜2006.3.28 (and Rewritten in April, 2006)