舞台裏4.CONCLUSION



 淡い橙色の灯りの元で作業に没頭していたムウは、微かなノック音に顔を上げた。
 静まりきっていた室内の空気がきっかり三度、さざめくように揺らぐや否や、すぐにまた沈黙に支配されて行く。扉の外はそれっきり物音ひとつしない、どころか、声のひとつすら掛かってこない。しかし、こんな時間に訪れて名乗りもしない者など、わかり切っている。金属を量る手を休みなく動かしながらも、ムウの口元は我知らず綻ぶ。――ここまで来るなんて、珍しい。
 「どうぞ」
 工房の扉が静かに開き、馴染んだ気配が背後に立った。
 「随分熱中しているようだな」
 起伏の少ない声が落ちて振り返ってみれば、こちらを見下ろすシオンの手には、夜食用のトレイが載っている。そこにはほかほかと白い湯気の上る温かそうな麦粥と、二人分の茶器の用意まで。ムウは眼を丸くして、思わず作業の手を止める。これはまた、どういう風の吹き回しだろう。
 「申し訳ありません、シオン。今、自分で作りに行こうと思っていたところだったんです。ちょうど小腹が空いてきたところだったので――」
 その、ありがとうございます。頬にさっと朱を刷いて、早口で言いながら席を立とうとするムウの動きを、気遣いは無用とばかりに、シオンが黙って視線で制した。
 その瞳にほんの一瞬、意味深くじっと見つめられたような気がした。

 熱い器を挟み込んで冷えた両手を温めながら、夜食をひと匙ずつ口に運ぶムウを、シオンは見るともなしにじっと見ている。その視線は当然ムウも感じているのだろう、食べる間も何とは無しに、落ちつかなげな様子を見せていた。
 「あ、あの……美味しいです」
 テーブル越しに眼と眼が合って、ぎこちなく、ムウが言う。
 「それは良かった」
 さらりと返したシオンの言葉に、ムウは微笑とも困惑とも取れない、複雑で微妙な表情をした。動揺しているな、とシオンは思う。密かに嬉しいのだろうとも、思う。けれどもそんなことは、今はいい。小腹が空いたところだと言っていた。無論、その通りだろう。彼は蛹でも仙人でも無い。
 つまるところ、作業を中断することくらい、ムウにとっては何でもないことなのだ。戸惑う相手に薄く笑みを返しながら、シオンは黙って愛弟子を見る。
 そして工房で修復の作業に没頭している時の彼が、格別の抵抗も無く部屋に人を入れて、物も食べることを確認する。

 二人分の茶器を片付け終わり、そろそろ作業に戻ろうかと、ムウはテーブルの上に道具を広げ始めている。気を使わせてしまってすみませんでした、と背後のシオンに言葉を投げると、別に、と淡白な答えが返ってきた。紙の擦れる音や器具のぶつかり合う音が、室内の静寂を彩っていた。
 ゆっくりと、穏やかな声でシオンが言った。
 「食事を抜いていたそうだな」
 予測もしていなかった不意打ちに、ほんの一瞬、ムウの手が止まった。
 「何ですって?」
 柔らかな笑みを浮かべたまま聞き返しつつ、ムウは何事も無かったように作業を継続する。視線は前を向いたまま、動揺は外には現さない。そもそも物音が途切れたのはほんの一瞬のこと、余人にならば気付かれもしないだろう。……そう、余人にならば。
 だがそういったムウの細かな努力を完全に無視して、シオンは容赦なく話を進めた。
 「それから工房に引きこもったまま、何日も出てこなかったという話も聞いている」
 「シオン、……何を」
 わずかに言葉に詰まりながら、それでもどうにか微笑んで、ムウは背後の師を振り返る。静かな瞳がムウを見返す。先刻と変わらず穏やかな口調で、しかしムウが言いかけた科白を問答無用で遮断する強引さで、シオンはそのまま言葉を繋げる。
 「ジャミールでのことは黙っていればわからないとでも思ったか?あれは仕事だと思い込んでいるようだが、よもやわたしの目まで、それで誤魔化せると思っていたわけではあるまいな」
 ――貴鬼か。決定的な証言を掴まれてしまったことを知って、我知らずムウは視線を彷徨わせる。もちろん貴鬼本人には初めから修復の仕事だと説明していたし、今でもそれを完璧に信じさせられている自信があるけれども。……この人の目まで誤魔化せる訳が無い。だからこそシオンにだけは絶対に言うなと、あれほど念を押していたというのに。
 「修復の仕事とは関係なかったのだろう」
 至極静かに、シオンが言った。質問ではなく、断定の口調で。心臓がひやりと波打った。こちらを見つめる恐ろしいほど強い眼差しを、今さらのようにムウは感じる。証拠を突きつけるようにして、シオンはひとつひとつ論理を重ねる。
 「おまえの腕で二日も三日もかかるほどの修復の仕事が、あの時期にあったとは思えない。寝食を忘れねばならないような急ぎの修復とて、聖域に敵対していたおまえには無かったはずだ。いくら熱中しやすい性質だと言っても、楽しみや趣味だけのために三日間食事を忘れる人間は居ない」
 一見穏やかなシオンの声音が、室内の空気を緩やかに揺らす。これは、相当怒っている。聖闘士が自身の管理を怠ることをシオンは嫌がる。うつむいたままムウは青ざめる。真っ直ぐにこちらを見据える、鋭く厳しい師の視線。身にやましいことがありすぎて、とても受け止められない。
 不意にシオンが立ち上がる。恐ろしいほどの静寂の中、微かな衣擦れと靴の音が鳴る。ムウは無言で身を硬くする。
 テーブルの上に、影が落ちた。
 「――馬鹿者が」
 言って、突然抱きしめられた。
 あまりにも突然の展開に、何が起こっているのか理解できず、ムウは見開いた両眼をただ丸くする。驚きのあまり思わず硬直していると、少し乱暴に引き寄せられた。
 怒ったような声が耳元でした。
 「寝食を忘れるほどのことか」
 きつく抱きしめられた胸の中、シオンの表情はわからない。背に回された腕の力が強すぎて、顔を見たくても身動きが取れず、ただその人の匂いだけがした。
 大きな強い手が金の髪を撫でる。そぐわないほどの優しさで。相変わらず怒ったようなシオンの声が、大馬鹿者、ともう一度言った。表面的には乱雑な語調の奥に、微かに見え隠れする痛みの影。何もかもが了解されていることをムウは悟る。苦しいほどの意識の彼方、心臓が止まるような思いで、ムウは震える瞼をゆっくりと閉じる。
 「……寝食を忘れるほどのことでした」
 あなたの居ない絶望は。
 閉じ込めた過去が脳裏に渦巻く。膨れ上がった13年分の想いが、奔流のように胸中を過ぎて行く。誰よりも慕っていた人が息絶える瞬間の、尽きぬ悪夢を幾度も見た。気が狂うような孤独の中で、待ち人が戻る幸せな夢を幾度も見た。幻から醒めるその度に、彼が居ないという残酷な事実だけが、心の奥底に刻まれて行った。不在を確認するあの瞬間の、言葉にできない空虚な絶望。とどめられなかった己に対する、拷問のような呵責の想い。そして身を焼き尽くすような追慕の想い。
 その人の夢を見た朝は、何もかも遮断しないと生きていけなかった。思い出の残り香の漂う工房の中でたった独り世界を閉ざして、過ぎ去って行く時間に耐えていた。自分を心配してくれる五老峰の老人にも、稚く無邪気な弟子にさえも会いたくなかった。人前で正気を保つ自信が無かった。
 「……悪い子だ」
 ただ一言を絞り出したきり何も言えずに俯いたムウを抱き寄せながら、どこか哀しげな瞳でシオンが呟く。乾いたムウの唇が微かに動いて、謝罪の言葉を形取る。そんなに寂しかったのか、と、囁くほどの小さな声でシオンは問いかける。どこまでも静かなその声に、ムウは歪んだ顔で微笑んで、黙って首を横に振る。堰を切るように、はらはらと。白い頬を温かな涙が伝って落ちる。
 無言のままで、シオンは抱きしめた腕に力を込める。彼の嘘など判り切っている。このぎこちなく美しい微笑みが原形も留めぬほど粉々に砕かれて、完璧な仮面の下に閉ざされるまでに、どれほどの苦しみがあったのだろう。食事さえ咽喉を通らぬほどの重く巨大な哀しみが、いったい幾夜続いたのだろう。悲嘆さえ独りで抱え込んだまま。泣くことすらも、できぬまま。
 胸の奥で思いながらシオンは、強張ったままのムウの背を撫でる。今はもうすっかり大人になってしまったその人の身体は、嗚咽をこらえるようにして、腕の中で微かに震えている。
 たった七つで残された子供は、いったいどれほど寂しかったのだろう。
 遠い過去を抱き寄せながら、シオンは思い出の中に今を見る。そしてあの時に叶えられなかったささやかな願いを今またもう一度果たせるようにと、心の奥底で祈りを捧げる。
 彼のことを少しだけ幸せにしたかった。心の底から笑えるように。

 思いのままに、泣けるように。


《END》

*******
「いつか夢見た〜」の舞台裏その4です。CONCLUSION、というわけで、これがオチです。結論です。 本編で貴鬼から話を聞いたシオンさんが眉間にしわを寄せていたのはこういうわけでしたという話。(長かった…)
微笑ましかったはずのエピソードを180度転覆させた挙句、爽快に暗いまま終わっちまってすみません。ははは。いやでも実は私の中ではこれ、そんなに暗い話じゃないんです。ここでのシオンさんとムウさんは結構未来志向なので。

あとついでにぶっちゃければ、本編で、ムウ様が他人の前では顔色を変えることができない人になってしまっているらしいという話を聞いたシオンさんが独り言のようにして口走ったのは多分、「可哀想に」とか「不憫だな」とか何とかそういう内容の科白だったんじゃないかと思います。

本編へ戻る←  舞台裏3へ←


羊小説一覧へ  羊部屋トップへ

Written by T'ika /〜2006.5.18