土佐光起 伊勢物語西の対図 1幅  絹本著色 江戸時代
 土佐光起(1617〜91)は、江戸時代前期のやまと絵系画家。土佐派は、室町時代中期から、宮廷画家として活躍したが、室町時代末期以降、その地位を離れていた。承応3年(1654)、光起は宮廷より左近将監に任ぜられ、その地位を復活させた。晩年の延宝9年(1681)、剃髪して常昭と号し法橋、貞享2年(1685)には法眼に叙された。
 濃厚な彩色を主体とした伝統的なやまと絵の技法だけでなく、同時代を代表する狩野探幽の、余白が多く、淡い彩色による淡白な画風や、中国南宋の宮廷画家たちが得意とした緻密かつ写実的な花鳥画なども得意とした。
 
 『伊勢物語』第4段「西の対」の場面を描く。
 ある男は、東の五条にあった大后の屋敷の西の対に暮らしていた女に思いを寄せていたが、1月10日頃、女を訪ねると、女はすでに男の手の届かぬところに行ってしまった。1年後の1月、梅の花の盛りに、感慨にかられた男は再び西の対を訪れたが、屋敷は去年とは似ず荒れ果てており、「月やあらぬ春やむかしのはるならぬわが身ひとつはもとの身にして」の和歌を詠み、泣く泣く家路についた。
 この場面は、鎌倉時代の「伊勢物語絵巻」(和泉市久保惣記念美術館)以降、伊勢物語絵の中でもしばしば描かれたものである。光起には、本図のほか、東京国立博物館所蔵本など数件の「西の対図」が確認されている。
 空間を広くとる余白の広い構成、人物や梅の花以外は、淡墨、淡彩を基調とする彩色表現などは、江戸狩野の瀟洒な画風をやまと絵分野に取り入れたものと思われ、光起画の多くに見られるものである。
 画面向かって右上方に「月やあらぬ」の和歌が著されている(筆者不詳)。
部分     部分(修復画像)     落款・印章

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