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信楽からお伊勢さん その2 |
2011.09.17 |
昨夜お世話になった宿での朝食は宿名物の「ウニご飯」。
「ウニ」は大の苦手な筈の相方が、二杯半ももち米入りのウニご飯を胃袋に収めておりました。 「ウニって料理の仕方によってはこんなに美味いモンとは・・・・。」 いや、料理の仕方ではないと思われ。 新鮮なウニだからこそ、お代わりしたほどの美味しさだったんじゃないかしら。 ウニご飯に堪能したのがちょっとした仇になり、お昼時が来ても空腹感を感じない。 麺類好きの我々二人の事、伊勢へ来たからには是非とも「伊勢うどん」を賞味しようと言っていたのに、初心は見事に覆され・・・。 ウニご飯、恐るべし(苦笑) 伊勢市内に入ると、まずは「外宮」を参拝しました。 「外宮」に祀られているのは、豊受大神(とようけのおおかみ)とも尊称される「豊宇気比売命(とようけひめのみこと)」で、「内宮」にまします「天照大御神(あまてらすおおみかみ)」の侍従長のような役割を担っていると思えば解りやすいかも。 天照大御神に差し上げる食物を司る神である事から、世には衣食住を司る神、産業の守護神としてあがめられています。 我々も食品を扱う仕事をしているので、いつかは必ず「外宮」にお詣りしたいと思っておりました。 先日から台風15号がジワジワと近づいて来ていて、まだ沖縄沖に台風の目があるにもかかわらず、天候は不順で時折はゲリラ豪雨と呼ばれる土砂降り雨に悩まされておりました。 しかし、雨の中をついて外宮の鳥居をくぐる頃には雨はやみ、正宮だけでは無く、風宮、土宮、多賀宮などの別宮をすべて傘無しで参る事ができました。 でも、北御門口鳥居を出て駐車場の車に戻ったとたん、またもや大土砂降り。 なんとなく不思議な体験をしたように感じ、また、「外宮」の神様には歓迎して頂いたような感覚を覚えました。 「外宮」には不思議な体感ができるところがあり、正宮から別宮へ向かう途中に、注連縄で囲まれた「三ツ石」と呼ばれる石があります。 30年ほど前の家族旅行の際にも手をかざすと良いと言われた記憶がありますが、今回もしっかり手をかざしてきました。 以前の事はあまり覚えて無いけど、今回は手の平に熱気が当たったように感じました。 最近になってパワースポットの一つだと言われるようになりましたが、実はこの場所は、昔は川だったところだったそうです 戦国時代の真っ最中である明応7年(1498年)の7月、東海地方を大地震と大津波が襲い、数万人もの死者が出ました。 この伊勢でも1万人以上の死者が出、この外宮一帯も大きく地形を変えてしまったそうです。 一説によると、内宮に五十鈴川が流れているように、外宮にも川の流れがあり、この「三ツ石」のある場所は、かつての「禊の場」では無かったかと言われています。 土砂降り雨の中を縫って、次は猿田彦神社へ向かいました。 猿田彦は、天照大御神の孫にあたる「瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)」が、天上界である「高天が原」から地上へ下られるの旅の途中に、自ら案内人として名乗り出た神様です。 その由来のために、「みちひらきの神」との別称があり、水先案内人の元祖として海上交通の神様、そして交通安全・方位の神様としてあがめられています。 実は、うちの事務所の近所にある氏神さんで祀られているのが「猿田彦」の神様なんですよね。 奇しくもうちらは、食品などを扱う貿易業。 知らぬうちに、産土神である「猿田彦神」の恩恵を受けているかも知れないし、初出の行事の一つとして近所の神社にお参りもしてる。 信仰心などほぼゼロの我々ですが、せっかく頂いたご縁でもあり、本家の「猿田彦神社」もきちんとお詣りしようと思っておりました。 すると、不思議や不思議! 猿田彦神社の駐車場に車を入れる頃には、雨は小やみになり、我々が車から降りる頃には、雨は止んでおりました。 境内の一部にある駐車場に車を置くと、目の前に本居宣長の歌碑が見えました。 「本居宣長」と言えば、江戸時代中期の国学者と伝えられていますが、私的には小学校か中学の教科書にチラッと登場した人物としての認識しかない。 実は、大変な功績を遺した方で、江戸時代の頃には既に解読不能になっていた「古事記」の解読に成功し、当時にとっての「現代語訳・古事記」としての「古事記伝」を著しました。 駐車場にあった歌碑には 「神代より 神の御末とつたへ来て 名くはし宇治の土公(つちぎみ)わがせ」 (神代の頃から、神=猿田彦神の子孫と代々続いているだけに、神々の事は良くご存じあられる。 その「宇治の土公(※宇治土公)」さんは、私とは兄弟のような人です。) ※宇治土公=「うじとこ」と読みます。 古代の頃から猿田彦神社の宮司を勤める家で、今現代も「宇治土公」さんが猿田彦神社の宮司を務めていらっしゃいます。 歌碑にあった短歌は、私が苦心惨憺の末に現代語に訳しましたが、まったく自信がございません(滝汗)。 間違っていたなら、ゴメンナサイです。 駐車場から鳥居のある方向を見ると、こんもりとした木立があって深い森のように見えましたが、鳥居をくぐった先は小ぢんまりとした境内でした。 しかし、社殿は間口が広いためかどっしりとして見え、独特の風格が感じられました。 社殿の前には、二十四方位を示した石碑のようなものがあり、その表面には「古殿地」と彫られてました。 「古殿地」とは、遷宮が行われる前に社殿があった場所で、猿田彦神社も遷宮をされるとは知らなかったので興味深く思いました。 もちろん、二十年ごとに遷宮される「内宮」や「外宮」にも「古殿地」が残されていて、次の遷宮の第一候補地として大切に保護されています。 そちらでは、「心の御柱(しんのみはしら)=大黒柱」の一部を残した部分に、小さな祠状の小屋を被せてあります。 しかしさすがに「猿田彦神社」の御祭神は方位を司どる神様です。 御柱跡に、方位を記した碑が置かれるとはね。 なんだか、とってもオシャレ(#^.^#)。 本殿の向かいには、本殿と差向う形で「佐瑠女神社」があります。 この社の御祭紳は、「天宇受売命(あめのうずめのみこと)」で、「猿田彦」の奥さんになった事から、仲人役の「天照大御神」から「猿女=佐瑠女(さるめ)」と名付けられました。 この神様は神代の頃からも含めると、日本の歴史上、第一号のストリッパーなんです。 頃は神代、八百万(やおよろず)の神々が住まう「高天が原」の、実質上の大統領とも言える立場である「天照大御神」が、末の弟の乱暴狼藉に絶望し、「天の岩屋」の奥深くに閉じ籠ってしまいました。 その名が示す通り、太陽神である彼女が洞窟に籠られてしまったものだから、この世はもちろん神様達の国も真っ暗。 天地をあげて大困りになったので、天照大御神を引っ張り出すために、「新たな太陽神がお生まれになった。」とのガセネタを作り、天照大御神の聞こえる所で大宴会を催しました。 その時の出し物のナンバーワンが、ミス「高天が原」ともおぼしき美女神だった「天宇受売命」の御神楽。 伏せた桶の上で激しいダンスを踊り、しかも胸乳はあらわに、ショーツやパンティは無い時代にて、腰を低くすると・・・・。 ようするに、現在なら公然わいせつ罪で引っ張られるような芸だったそうで、しかし古今東西、たとえ神様であっても殿方の嗜好は変わらず、ニセ宴会に加わった男神様達は天下の一大事である事も忘れて大騒ぎ。 岩戸の向こうでその騒ぎを聞きつけた天照大御神が、外の様子を窺おうと岩戸の隙間を開けた瞬間、大力を持つ神様がサッと戸をあけ放ち、天下はまた元通りの明るさになったと古事記や日本書紀に記されています。 「猿田彦神社」の鳥居から1ブロック先が、「内宮」への御参道。 その入り口近くに見えたが「赤福 五十鈴支店」。 この時期は、「例のアレ」が食べられる最後のチャンスであり、しかも本店でしか食べられないと思っていたのですが、この支店でも賞味できるとか。 甘党の相方はもちろん、左党の私も異口同音に注文したが「例のアレ」。 さすがに宝永4年(1707年)創業の老舗です。 さわやかな声で「かしこまりました。しばらくお待ちください。」の声をきいて間もなく、「例のアレ」が運ばれてきました。 「赤福氷」です。 ほろ苦い抹茶シロップに覆われたフワフワ氷の奥に、上品な甘味のこし餡と、つき立ての風味をそのまま残すお餅の口当たり。 あまりにも美味で、食に厳しすぎる相方でさえ突っ込み所を探す事も忘れて、空腹でもないのに貪り食ってしまいました。 絶品でした〜。 内宮への参道は、別称「おはらい町通り」。 地元建築士会による街並み保存と景観形成運動が精力的に進められているようで、電柱の無いノスタルジックな街並みが続いておりました。 その中には郵便局や銀行の支店などもあったのですが、街に溶け込んでいてとても素敵に思いました。
五十鈴川にかかる宇治橋を渡り終えると、そこは伊勢神宮の「内宮」。 我々は「外宮」と「内宮」を合わせて「伊勢神宮」とか「お伊勢さん」と呼びますが、正式な名称は「神宮」です。 国家の最高神を祀る神社には「名をつける必要が無い」という事なんだろうと思います。 「外宮」には4か所の「別宮」がありましたが、「内宮」には10か所もの「別宮」が境内の中や離れた地にあると言われています。 「正宮」はもちろん境内にある「別宮」も全部回って来たので、かなりの時間がかかりました。 「別宮」とは「わけみや」の事で、「正宮」に次いで尊ぶべき存在だとされています。 殊に「荒御魂」を祭神とする別宮が重要な位置を占めています。 「荒御魂」とは、我々人間に「ご利益」を下さる存在である「和魂(にぎたま)」とは相反する性格の、祟りを起こす「荒魂(あらたま)」の事なんです。 光が当たる部分があると必ず影があり、長所も角度を変えて見ると短所となる。 その影の部分も尊び、鎮めるための存在が「荒御魂社」。 如何にも日本人らしい哲学というか、おおらかさが感じられます。 この階段を登り切った所に「正宮」があります。 写真撮影は階段の下からでしか許されていない超一級の御神域で、正宮自体も四重の板塀で守られていて、普通はいちばん外側の門前からしか参拝できない事になってます。 御神体は三種の神器の一つとされる「八咫鏡(やたのかがみ)」で、正宮の奥で祀られている筈なのですが、それが石製なのか金属製なのか、未だに解っていない頼りなさ。 むしろ、それがここに在るかどうかも分からない。 ずっと宮中の奥深い所で保管されていたが、「平治の乱」のどさくさで壇ノ浦の海に沈んでしまったとの説もあるんですよね。 その薄ぼんやりした史実が、私にとってはツボだったりします。 正殿への参拝を終えると、セオリー通りに「荒祭宮(あらまつりのみや)」に参りました。 この階段には「踏まぬ石」という石があり、それを踏んではいけないと言われているらしいのですが、私にはドレがソレだか見当もつかず、ひょっとして思いっきり踏みつけてしまったかもです。 次に参ったのが「風日祈宮(かざひのみのみや)」。 こちらでは風雨を司る「級長津彦命(しなつひこのみこと)」「級長戸辺命(しなとべのみこと)」が祭られています。 つい先だっては台風12号が日本を襲い、大変な被害がもたらされたばかりでもあり、この日は台風15号が近づいていた最中でした。 もう、風雨のために大きな被害が出るのは勘弁して欲しい。 それにうちらは、週に一度は荷受けのために関空大橋を渡りますが、風の強い日には車がカニ歩きをする恐怖に襲われるワケで…(汗)。 その辺りの事も「お手柔らかに」と、真剣にお願いしてきました(苦笑) 正宮と風日祈宮との間には五十鈴川があり、「風日祈宮橋(かざひのみのみやばし)」から下を見ると、雨続きだったにもかかわらずきれいな流れを見る事ができました。 五十鈴川に沿った参道は深い木立に囲まれていて、すぐそばに川の流れがあるとは思えないほどに静かでした。 しばらく歩くと、石畳が敷き詰められた五十鈴川の御手洗場が見えてきます。 この石畳は五代将軍・徳川綱吉の生母、桂昌院が寄進したものと伝えられています。
御手洗場のすぐ近くには、五十鈴川を守護する「瀧祭神(たきまつりのかみ)」の社があります。 この社に限っては社殿が無く、板垣の細い隙間から中を覗くと、中央に30センチばかりの石が祭られていました。 「外宮」「内宮」ともに樹齢を重ねた大きな杉木立が目立ち、歩いていてとても清々しい気分になりました。 しかし相方には疲れが溜まっていたのか、腕や肩が凝ってむくんでしまい、どうも調子が悪いらしい。 大きくて元気の良さそうな大樹に触れると少しでも疲れを吸い取ってもらえそうに思い、相方に勧めてみました。 相方が、凝っている方の腕の手の平を大木の幹に押し当てていると、それを横目で見ていた何人かの人々が同じポーズをとり・・・・。 ちょっと笑えました。 でも、自然の力とは奇異にして偉大です。 たちどころにとは言いませんが、何度かそれを繰り返すうちに、むくみと凝りが少しずつおさまり、とても楽になったそうです。 |
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