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信楽からお伊勢さん その1 |
2011.09.16 |
前以ての打ち合わせ通りだったとは言え、相方から「今から迎えに行く」コールが入ったのは、午前7時17分。
早っ!! 仕事絡みとはいえ、ずっと前から相方が行きたがっていた所へ出かける事になり、数日も前から相方はウキウキ・ソワソワ。 予定が確定し宿に予約を入れた段階で、それは頂点に達したらしく、一昨日は 「今朝、6時前に目が覚めてしもてん。」<相方 「どうしたの。体調でも悪くした?」<私 「いやいや。 外宮へ参拝できると思ったら、もう、ワクワクしてしもて・・・。」<相方 まるで、遠足前の小学生だね(苦笑) 8時前に迎えに来た車に乗り込んでしばらく走ると、国道1号線に入りました。 国道1号線の大阪・京都間は、音に聞こえた渋滞の名所。 しばしの間はノロノロ運転に身を任せ、ナビの案内で枚方あたりで国道307号線へ道筋を変更。 やっとこの辺りから、快適なドライブを楽しむことができました。 京都との県境を越えて城陽市を抜けると、そこは茶処で知られる宇治近郊。 ペリーの来航時、「泰平の眠りをさます上喜撰 たつた四杯で夜も寝られず」との狂歌の中で歌われている「上喜撰」は、宇治市内にある喜撰山の麓で産出される宇治でも最高級のお茶として知られています。 国道沿いを眺めていると、そこかしこに茶畑が見られるようになり、大小の製茶工房も頻繁に見られるようになってきました。 京都と滋賀を分ける裏白峠のトンネルを抜けると、国道307号線には「近江グリーンロード」という別称が着き、「朝宮茶の里」とも呼ばれる甲賀市に入りました。 鎌倉時代に宋の禅寺で修行をしていた栄西は、帰国時に茶の種を持ち帰り日本の緑茶文化を広めたとして有名ですが、実はもっと昔、奈良時代の遣唐使が何度も茶を日本に持ち帰っていたんですよね。 嵯峨天皇の頃に初めて産出した国産第一号が、朝宮のお茶だと言われています。 しかしその時代では、嗜好品としての茶を楽しむ中国文化は日本には根付かず、茶を薬用植物として扱う一部の薬師(くすし)によって細々と伝えられるのみでした。 栄西によって禅寺を中心にお茶が広まり初め、そして爆発的に茶が流行したのは戦国時代になってからでした。 茶の持つ覚せい作用を最も効果的に引き出す方法として、石臼で細かく引いた茶をほんの少しの湯で溶く方法が考案されました。 当時の武将たちは、それを兵士たちに飲ませていざ出陣! 現代風にアレンジすれば、 敵対するクミの事務所へ殴り込みをかける前、鉄砲玉になった子分に覚せい剤を打ってやるヤクザの親分と、やってることはほぼ変わらない。 修行のために使っているお茶を、そんな乱暴な事に使うなんて! という禅僧たちの嘆きと憤慨の結晶と、過度に興奮している人に処方すると却って沈静化する茶の働きを見出した南浦紹明によって「茶道」が編み出され、そしてその後、千利休などの数多くの茶人を生み出す事に繋がりました。 宇治市内を走っている時は、ポツポツとしか茶畑はみられませんでしたが、この辺りまで来ると車窓から見える風景は茶畑だらけ。 静岡の牧の原台地を彷彿とさせる大きな茶畑があるかと思うと、道路際の植え込みだと思い込んでいたのが、実は茶畑だったりと、四方をお茶に囲まれてしまったように感じるほどでした。 そして、たまに見えるのが田んぼ。 甲賀市近郊は山に囲まれているせいで日照時間が短く、米ができにくい。 今でこそ茶を作る事で現金収入を得る事ができるけど、世の中が乱れている時代は茶を作っても消費者の需要は上がらない。 ましてや、茶作りもままならない戦乱の時代は、この地帯に住む人たちの現金収入の現場は戦場に見出すしかありませんでした。 殊に、今現在の奈良県、三重県、滋賀県の県境が合わさる、柳生、伊賀、甲賀の一帯は、山里とは言え交通の要所であり、奈良時代の頃から再三再四にわたって戦禍に見舞われ続けてました。 そして生まれたのが「忍者」と呼ばれる、村をあげて結成された請負制のスパイ組織だったんです。 だから「上忍」「中忍」「下忍」と、何気なく不気味に聞こえる階級も、「上忍」は地主「下忍」は小作人、間に立つ「中忍」は小作人を束ねる地主の番頭だったりします。 甲賀忍者発祥の地として有名な甲賀市では「甲賀忍術村」というテーマパークが作られていますが、国道から茅葺屋根の旧家を見るにつけ、それも忍者の末裔が住まいする家に見えてしまうから不思議です。 甲賀市にはもう一つの顔があり、焼き物の町としても知られています。 国道沿いの土産物屋の前では、タヌキさんの団体が我々を歓迎してくれてました。 タヌキで良く知られる信楽焼きは日本六古窯の一つで、鎌倉時代から壺や甕、すり鉢などが作られ始めました。 信楽で産出される陶土は耐火性・可塑性ともに良好で腰が強く、水瓶などの大物造りに適していますが、粘性も強くて繊細な細工が必要な茶器などの美術工芸品にも適したオールマイティー。 茶道が盛んになった安土桃山時代以降には、独特の色合いと風合いが茶人たちに好まれて珍重されてきました。 今現在でも食器類だけではとどまらず、植木鉢やタイルなどの生活に密着した陶磁器が数多く産出されています。 このままずっと在来線を走って目的地まで行こうとすると、国道422号線を走り、伊賀上野市で国道163号線に入ることになります。 実はこの道こそ、「本能寺の変」があった時に徳川家康一行が決死の思いで駆け抜けた「伊賀越え」の行程なんですよね。 徳川家康は大坂滞在中に本能寺での急変を聞き、急いで河内交野から京田辺、宇治田原を経て甲賀にある小川城へ避難しました。 その小川城は今現在の信楽町に在ったのですが、その道筋は偶然ではあるけれど、我々が大阪からここまで走った道筋そのまんま。 せっかくだから、その後の行程も家康の辿った道を走りたかったのですが、少々ご老体のムーブちゃんに「桜峠」を越えさせ、さらに最大の難所と言われる「加太峠」を越えさせるのはあまりにも可哀そう。 急きょ、平成20年に開通したばかりの「新名神高速道路」に入ることにしました。 信楽インターチェンジを目指すなら、少々立ち寄ってみたい所がある。 「滋賀県立陶芸の森」にある「陶芸館」。 http://www.sccp.jp/ 残念ながら館内は写真撮影が禁止されているので、このサイトでは展示作品の紹介ができませんが、北大路魯山人、富本健吉、濱田庄司ら巨匠と言われる方々の作品を数多く拝見する事ができて眼福でありました。 ちょうど昼時に差し掛かったので、道路沿いのひなびたお蕎麦屋さんで昼食をとりました。 看板通りの十割り蕎麦が美味で、それも細麺と太麺の二種類。 機械切りではなく手切りの蕎麦が珍しく、空腹も手伝ってついつい写真を撮り忘れてしまいました。 信楽インターチェンジの少し手前にも寄り道してみたかった所が一か所。 幻の都と呼ばれる「紫香楽の宮」跡がロードマップに載ってました。 それを見たからには、もしも時間が許せば立ち寄ってみたい。 幸い、予定していた道筋を変更して高速道路を走る事になったので、ほんの僅かではあるが時間の余裕ができたのか、度重なる私の寄り道希望を、相方は快く承知してくれました。 胸をワクワクさせて行き着いた「紫香楽の宮」は、林の中に小さな建物がポツンと在るのみの、淋しい雑木林でした。 「紫香楽の宮」は聖武天皇がしばしば訪れた離宮で、行く行くは新たな都をこの地に造営したいとの願望をお持ちのまま崩御なされたと伝えられています。 その後の長い空白期間が離宮の跡地を林に変え、そして深い森に変えていったのでしょうか。 紫香楽の宮のある山林から下りると、目の前には信楽インターチェンジ。 その周辺から平野部が広がり、刈り入れを待つ近江米が黄金色に色づいて頭を垂れておりました。 「新名神高速道路」に乗ると、ロケーションは殺風景の一言に尽きる。 臨済宗の総本山である「永源寺」にほど近い亀山ジャンクションから、東名阪自動車道に乗り換えて一路「津市」を目指しました。 津市の某所で商談を済ませ、先様から見送られながら事務所を出て、車に戻ると・・・ 「オッシャーッ!! 今からオフじゃーっ!」(ぉぃぉぃ) 津市から伊賀街道を少々走ると、海岸沿いを走る国道23号線に入りました。 この日、沖縄沖からジリジリと本州に向かっている大型台風15号が、近畿圏にも影響を及ぼし始めておりました。 出発時の大阪では快晴のお天気でしたが、信楽を立つ頃には不穏な空気を含んだ群雲が空を覆い始めておりました。 そして、旧伊勢街道(国道23号線)を走り始めて間もなく左写真が現す通りに、まるで夕方のような暗さとなり、写真を撮って5分も経たないうちに、とんでもない土砂降り雨となりました。 雲出川を渡り、そして伊勢神宮の御神域の入り口と言われている櫛田川を越えると、なぜか雨は小やみになってくれました。 宮川を越え瀬田川の小さな橋を渡ると、海岸縁を走る国道42号線へ方向転換。 古来より、伊勢参宮をする人々は必ず禊の沐浴をしたと伝えられている五十鈴川は、先ほどの雨のせいか幾分濁って見えました。 相方が伊勢を訪れるのは、小学校の修学旅行以来にてかれこれ40年ぶり。 私は新婚の年に、嫁ぎ先の家族旅行に加えてもらった伊勢旅行以来の30年ぶり。 共に伊勢の地理には疎く、二見ヶ浦が何処にあるのかも知らず、当初の予定では二見ヶ浦へは行かない予定だったんです。 が、何と! 国道を走っていると、目の前に二見ヶ浦があるじゃないですか。 二見ヶ浦と言えば『夫婦岩』。 二週間前の台風12号来襲の折、夫婦を繋ぐ注連縄が吹き飛ばされてしまったとニュースで報道されてました。 「まぁ、ええやん。 そんなレアな姿の夫婦岩を見る事なんて、まず無いし。」 そういえば私、小学校の修学旅行時に、この近くの土産物屋で昼食をとったような記憶が残ってる。 駐車場に車を停めて周りを見渡すと、趣ある松林が参道に沿って並んでおりました。 「えー! こんな景色やったっけ? うち全然覚えてへんし。」<私 「オレもほとんど忘れてるわ。」<相方 私は仕事においては、旦那公認の相方の女房役。 本夫とは結婚以来一度も本格的な夫婦喧嘩をした事が無いにも関わらず、仕事夫とは頻繁に派手な夫婦喧嘩?をやらかしてる。 その原因も互いによく分かってるんですよね。 要するに、仕事に関しては二人とも真剣過ぎ、必死になりすぎるんですわ。 今後も、仕事に命をかける者同士、怒鳴りあうような大喧嘩がいつあるか、それは互いに憶測できないけど、できるなら喧嘩の回数は少しでも減らしたい。 その祈りを込めて「夫婦岩」を参拝すると、真新しい注連縄が張られてました。 未曾有の大災害の爪痕を残した台風12号。 ひと山越えた熊野辺りから、十津川や野迫川付近では、今現在の10月初旬になって未だに、避難所での生活を余儀なくされている世帯が多くあります。 そのような状況で新しい注連縄が張られていると思うと、言葉に言い尽くせないような感動がこみ上げてきました。 この夜の宿は南鳥羽にある、小さな漁師旅館「山善」に投宿。 南鳥羽近隣の海は、生で食べられる夏牡蠣を産出する、希少な牡蠣生産地として知られています。 平日であったため、この日の泊り客は我々二人だけ。 幾度となく泊りの出張は経験してきましたが、こちらでは最大級の持成しを受けて、また訪れたい宿の一つとなりました。 この宿の当主が育てた牡蠣の料理がメチャうま。 私の部屋から見えた浦川湾の景色も最高でした。 大きな地図で見る |
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