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白馬から善光寺平へ・・・ 

2011.04.22

白馬でのお蕎麦休憩をサクッと終わらせ、車のナビは「川中島」を目指すようにセット。
その為に、最終目的地へは随分と遠回りのコースになり、またしても、ナビと相方との漫才が始まり・・・。
あまり五月蠅くなければ放っておくのですが、
後日に更新する予定のHPの文面を構想するには、かなりジャマな雑音になる (-_-#) ピクピク

白馬から南下して大町方面へ向かい、途中で国道から逸れて県道へ入りました。
以前から地名は知っていても今まで出かけた事が無いので、険しい山また山を縫って走るような道を想像してましたが、周りの山は意外に低くなだらかに見えてました。

最初は何となく拍子抜けしたように感じてましたが、それもその筈。
時々目にする案内標識には、その地点の標高も示されている事が多かったのですが、標高900メートル超の標識を見るにつけ、
「そりゃ、周りの山が低く見える筈やわー。」
周囲の景色はまだ春浅く、冬枯れの林の中に、梅やコブシの花が見られる程度。

しばらく走って、「道の駅・小川村」で休憩しました。
モニュメントがちょっと面白い。
「本州はここで吊り合う『本州の重心地』」
面だけなら計算しやすかろうが富士山やアルプスの出っ張りや、琵琶湖の凹みも計算に入ってるんかいと、思いっきりツッコミを入れたくなりましたが、誰に言って良いやら判らず、敢え無く断念(苦笑)
それにしても、誰が考えついたんでしょうかねー。



大町街道から西街道に入り、いつしか犀川沿いを走ってました。
欄干の向こうに見えるのは、東電の小田切ダムと水力発電所です。   


この川に沿って走れば、戦国時代をマイ・ブームにしている相方にとっての憧れの地のひとつ、川中島へ行き着ける。
「川中島」といえば、頼山陽の詩を思い浮かべる人が多いと思われ。

  鞭声粛々(べんせいしゅくしゅく)夜河をわたる
  暁に見る千兵の大牙(たいが)をようするを
  遺恨なり十年一剣をみがく
  流星光底長蛇を逸す


武田信玄と上杉謙信の一騎打ちで知られるこの戦いは、天文22年(1553年)から永禄7年(1564年)の間に、五度もあった「川中島の戦い」のうちの、四度目の戦いだったと伝えられています。

川中島とは、犀川と千曲川の合流地点にある盆地のような所なんですが、「ここがそうです。」と言われても、すぐには分からないくらいに、メチャクチャ広いんです。
それに、五度もあった戦いの場所は、それぞれ違った場所なんですよね。

「川中島古戦場跡地」として定められている「八幡原史跡公園」は、永禄4年(1561年)の戦いで激戦地だった所に設けられていますが、地図を見ると、川中島の隅っこにあるんです。
川中島一帯には、この激戦地以外に、あちこちに戦死者を偲ぶ慰霊碑が建てられています。

ナビに「信玄と謙信の一騎打ちの場所」なんて登録地点を入力できる筈もなく、「概ね、この辺りかな?」として出向いた川中島の真ん中辺りにも、何度目かの戦いで命を落とされた方々の慰霊碑が建てられていました。

ちょっと高台の様なところから川中島を見下ろすと、名産の桃の花が咲き誇っていて今が盛りの様子。
当時の事などまるで思い浮かべられないほどに、のんびりとした景色でした。

また西街道に戻って裾花川を渡ると、いよいよ長野市街。
ずっと田舎っぽい景色を見ながら走ってましたが、急に都会に入り込んだような感じです。

まずは、長野駅前の「東横イン」にチェックイン。
前夜は徹夜運転(私は万年助手席ですが・・・)の疲れを癒すために、少し贅沢して温泉旅館に投宿しましたが、普段どおりの出張旅行に戻りました。

部屋に荷物を置くと、ロビーでコーヒー・ブレイク。
このホテルでは、ロビーにコーヒーサーバーが置かれていて、常に熱々のコーヒーが無料で飲めるようになってました。
うちらコーヒー党にとっては、とてもありがたいシステムです。
コーヒー好きだからといって、何杯もガブガブ飲むわけじゃないけど、いつでも好きな時にコーヒーを楽しめるのは嬉しいの一言に尽きます。

しかしだ。
京都市民と奈良市民の雅びなハーフ?の私と違って、根っからの大阪人である相方は、コーヒーをガブガブ。
「そんなに飲んだら、胃を荒らすでー。 」<私
「何ゆうてんねん。
 せっかく無料にしてくれてるんやし、それを活かすために明日の分も飲んでるんやんけ。」<相方
……(o_ _)o パタッ

ロビーで一息ついたら、ちょっとお散歩。
善光寺へ出かけてきました。

私にとっては善光寺参りは約30年ぶり。
善光寺は他のお寺には無い、変わった所がいっぱいあって・・・・、



東大寺などはどこから入っても東大寺には違いないんだけど、善光寺は「四門四額」といって、どの門から入ったかによってお寺の名前が変わるんです。
例えば、東門は「定額山善光寺」、西門は「不捨山浄土寺」、北門は「北空山雲上寺」、そして南門が「南命山無量寿寺」という具合。
初めて来た時は、それはそれはビックリしました。
どの門から入ったかは覚えてないけど、掲げられてあった扁額は少なくとも「善光寺」とは違う寺名だったので、間違えたのかと少なからず焦りましたもんね。

そして、一つのお寺であるにも拘わらず、二つの宗派が管理運営しているんです。
善光寺は、日本の仏教が今のように沢山の宗派に分かれる以前に建立されたので、宗派の別なく宿願が可能な霊場と位置づけられているからだそうです。

善光寺の本尊は一光三尊阿弥陀如来だと伝えられていますが、この仏像は絶対秘仏とされていて、この寺の貫主でさえ見てはいけないとされています。
七年に一度、特別開帳が行われていますが、その時に拝めるのは秘仏のレプリカ的存在の阿弥陀三尊像なんですよね。


この秘仏は、6世紀の半ばくらいに朝鮮半島から日本に渡ってきた仏像なのですが、当時はちょうど蘇我氏・物部氏による「崇仏・廃仏論争」の真っ最中。
その為に、渡来して間もなく、仏教伝来反対派の手によって、難波の堀江(現在の大阪市西区)に捨てられてしまいました。
それを本田(本多)善光という人が発見し、出身地である信濃国麻績の里(おみのさと、現在の長野県飯田市座光寺)に持ち帰って祀ったというのが、善光寺の始まりとか。

難波の堀江といえば、うちの事務所のすぐ近所じゃないですか!
何か不思議な「縁」のようなものを感じました。

善光寺参りをしたなら、「戒壇巡り」はやっておかなきゃ。
入場券を買うと、先に阿弥陀如来に参拝して、本堂の床下へ入っていきます。
その中に入り込むと、完璧に真っ暗で、自分の手さえ全く見えないんですよね。
以前にも一度体験しているのに、足元に段差があるんじゃないかと思ったりで、さっさと前には進めない。

右手を腰の高さ辺りで壁を触りながら進み、途中で金属製の輪っかに触れるとラッキーなのだそうです。
と言うのも、その輪っかこそ、秘仏を安置してある「瑠璃壇」に取り付けられている「極楽浄土への錠前」だからなんですって。
とりあえず、輪っかに触れて一安心(笑)

私はいにしえの人達とはあまり変わらない古典的な体型をしてますが、若い人達のように背が高くて足が長いと、腰の位置も大分違ってくるはず。
大阪市立中学の修学旅行先は信州が多いのですが、さて、何%の子達がその輪っかに触れられているのかしらね。

善光寺の参拝を終えると、お土産代わりにおみくじを買いました。
男性用と女性用があって、私のを開けてみると「優」と刻印された金属片が入ってました。

ヨシヨシ、そのまんまやん (#^.^#) ニョホ

相方のは「誠」だそうで・・・・
良くも悪くも○○正直で、誠実一路そのまんまなオッサンでありますから、こちらもよく当たってる(笑)

   

善光寺への参道の中で、大門町辺りは町並み保存運動が行われているのか、土蔵造りの商家が並んでいますが、よく見ると高層マンションの一階部分を土蔵造り風にしてある所もありました。
道幅が広すぎて、当時の雰囲気がバッチリ感じられると言えばウソになるけど、良い感じの町並みで歩くだけでも楽しめました。
投宿先のホテルに近くなると、あちこちの横町をグルグル。
この日は珍しく移動だけの一日となりましたが、出張時はスケジュールがハードに詰め込まれていて、楽しみといえば食べる事のみ。
それで、美味しそうなお店を探しながらの散策に切り替えました。

この夜は、まずは長野市への挨拶代わりとして、
富山湾で獲れたホタルイカの干物を肴に、長野市の地酒「風の露」をチビチビ。

二杯目以降は、私好みの長野県の地酒
名物の焼麩をベースにした不思議なピザを肴に、お気に入りの諏訪の地酒「真澄」をチビチビ。
湯豆腐は妙に冷たくて失敗だったけど、豆腐そのものは美味しく、またしても諏訪の地酒「麗泉」をチビチビ。

沢山食べて、たっぷりと飲んだ一夜でございました。

   

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