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「〜堺〜」                      

  商人達の戦国


織田信長や徳川家康にゆかりのある「妙国寺」。
境内の奥には、国の天然記念物と指定された、樹齢千年を越える大蘇鉄が植えられていますが、拝観料が必要との事で、見物は割愛(苦笑)
織田信長が安土城を建立した際に、この蘇鉄を安土に移植させたのですが、夜な夜「堺妙国寺に帰りたい。」という声が聞こえ、頭に来た信長はその木に刀で斬りつけたのだそうです。
すると、切り口から鮮血のような樹液がほとばしり出て、信長ビックリ。
怖くなって、元あった妙国寺に返したそうです。

それから数年後、信長の招きで上洛した徳川家康は、帰路の途中で堺に立ち寄っておりました。
時は天正10年6月2日(1582年7月1日)、家康はこの寺を宿舎にしてましたが、真夜中に本能寺の変の知らせを受け、明智方の追手を逃れるために妙国寺の僧達の助けを得て、無事に堺の町から出られたといわれています。

ところで、武士の切腹には正式な作法というのがあるらしいのですが、私もこの寺の事を調べるまでは知りませんでした。
かなり複雑で、四隅に竹を立てるだの、裏返した畳の上に青い布を敷くだの、先に風呂に入るだの、食事のメニューが決まっているだの、事前の準備だけでも大変。
腹の切り方も、事細かに決められているわけで、あの赤穂浪士でさえ、自分の切腹の際に「作法を教えて欲しい。」と尋ねた人がいるほど。

故に、後世ではかなり簡略化されていたようですが、明治維新前夜とおぼしき時代になって、正式な形の切腹がこの寺で行われました。

事の起こりは、フランス兵と土佐藩から警護隊として派遣されていた兵との衝突で、フランス兵に土佐藩の隊旗を踏みにじられた土佐藩士は、怒りのあまりフランス兵を22人も殺傷するという大事になりました。
捕らえられた土佐藩士20名は、立会人として両国の代表者が居並ぶ中で、正式な作法に則った形式での切腹に処せられました。

江戸時代の初期にはすでに切腹の儀式が簡略化されていて、下級武士が切腹させられる場合は、短刀に見立てた扇子を手に取った瞬間に、介錯人によって首を打ち落とされたのが普通でした。
しかしこの時は、腹を十文字にかっ捌き、内蔵を自らの手で取りだして並べ、そして止め(とどめ)として自分で首の頸動脈を切り、そこまで待って、やっと介錯人が首を落とすという正式な作法に則ったもので、見ているだけでもおぞましい。

しかも、切腹をした人の中には、自分の内蔵をフランス側立会人席に向かって投げつけた猛者もいたらしい。
これには立会人のフランス人はたまったモンじゃない。

私思うに、日本が開国したばかりとはいえ、無茶振りを押しつける欧米諸国に対する、日本新政府役人の当てつけではないかと。
でなきゃ、20人もの多人数を処刑するのに、こんなに手間と時間をかける筈がないと思えるんですもの。
結局、11人目の処刑が終わった時点で、原告側であるフランス艦長デュブテイ・トゥアールは「どうか残りの人の命は助けてやってくれ」と言い残して、乗ってきた軍艦へ逃げ帰ってしまったそうです。

残りの9人は命を助けられて、土佐へ流罪となりましたが、亡くなった方々は向かいにある「宝珠院」という寺に葬られてます。


さて、そろそろオナカの虫がやかましく鳴り始めた頃合い。
この日のランチ場は、「日比屋了珪屋敷跡」というより「ザビエル公園」といった方が分かりやすいかも。

フランシスコ・ザビエルが初めて堺に上陸した時は、近くにある「住吉神社頓宮」の松林の中で寒風にさらされ、ガタガタ震えながら夜を過ごしたと、ロドリゲス・ツヅの「日本教会史」に記されています。
ルイス・フロイスの「日本史」には、ザビエルはすぐに日比屋に泊めて貰ったと書かれているそうですが、私は前者の記録の方が正しいように思います。

何故なら当時は乱世の真っ最中。
世の中が物騒すぎて、日本人同士でさえ命を脅かされる存在なのに、ザビエルは異国の民であり、ましてや長い旅路のために、ろくに風呂も入らぬ乞食同然の風体をしていたに違いない。
そんな人物を、如何に堺切っての豪商とはいえ、日比屋さんがすぐに家に迎え入れたとは思えないわけ。
むしろ、家の中に沢山の財宝を置いていた豪商だからこそ、用心深くしていたに違いないのです。

それでも、日比屋が海外を相手に貿易商をしていたために、他の人よりは開けていた部分があったのでしょうね。
ザビエルは日比屋から手厚いもてなしを受けるようになり、後に日比屋自身もキリスト教に帰依し、天正15年にキリスト教禁教令が出された折りには、破壊された天主堂のかわりに自宅を伝道の場として提供したといわれています。

1949年にザビエル来航400年を記念して、日比屋屋敷跡の公園を「ザビエル公園」と名付けられました。
この日は初夏の新緑がとても綺麗でした。
折しも、思いっきり快晴の行楽日和。

日焼け止めを塗り忘れた私は、そろそろ鼻の頭がヒリヒリし始め、ミニ・ツアーの相伴で着いてきた仕事の相方は、アルコールは全く飲めない体質なのに、真っ赤なヨッパライ顔になりかけておりました。

ザビエル公園で大きなおにぎりを頬張ると、さっきまで騒いでいたオナカの虫は、たちどころに静かになった。
ほな、先へ進もうか。

大通筋を南下すると、気付かないうちにお世話になっているかも知れない、海の神さんへお詣りに向かいました。


「開口神社」(あぐち神社)。

その昔、神功皇后が三韓征伐から帰国した時に、この地に「塩土老翁神(しおつちのおじのかみ)」を祀るよう命じて建立させたのが始まりとされています。
「塩土老翁神」は、塩の神であり、潮流の神、そして航海の神でもありますが、古事記や日本書紀にはその時々のエピソードに登場する主人公に、いつも的確な情報を与える神としても登場しているんです。
今は情報が溢れすぎていて、どれが的確な情報かも判らなくなってしまってる。
我々も「塩土老翁神」の願力にあやかる事ができたら、とてもありがたいのですがねー。

大通筋に戻り、なおも南を目指して歩くと途中でメチャクチャ広い道路に行き当たります。
「フェニックス通り」と名付けられ、分離帯にはフェニックスが植え付けられていて、異国情緒は感じられ・・・・なかった(笑)
この道路は戦前までは約6メートル幅しかなかったのですが、第二次大戦で焼け野原になってしまった堺市の復興を祈念して作られたのだそうです。
そして炎の中から再生するという「火の鳥」に因んで、フェニックスの木が植えられたとか。

この交差点の辺りは「宿院」という町名になってますが、その町名の謂われとなっている小さな神社がすぐそばにあります。
大阪市内にある「住吉神社」の御旅所として建立された「宿院頓宮」なのですが、住吉神社の勢力がこんな遠い所まで及ぼされていたなんて、ちょっと驚き。

往時は、この近辺が一番栄えていた所のようで、この周辺で「堺奉行所」や「糸割符会所」の跡を記した石碑が見られます。



京都周辺である近畿圏には、菅原道真に因んだ伝承が残っている所が多く、この堺の地にもその様な言い伝えが残る所があります。

「船待神社」
菅原道真は、この神社に祀られている自分の始祖神の「天穂日命(あめのほひのみこと)」を参拝して、太宰府行きの船を待ったと言われています。

そして、その近くにある「菅原神社」。

菅原道真が太宰府へ流された後、道真が太宰府で彫った木像がこの堺に流れ着いたので、この地に「菅原神社」が建立されたそうです。

その後、明の国から農業と薬草の神である「神農大神」の像がもたらされたのを切っ掛けに、日本古来から医事の神として崇められている「少彦名命(すくなひこなのみこと)」を合祀する形で、新たな社殿が境内に設けられて日本最初の薬祖神として祀られ、今に至っております。

菅原神社本殿 薬祖神社


それにしても、久しぶりに沢山歩いたので、足がパンパン。
加えて、歩調の違う者同士がコンビを組んで歩いているので、余計に疲れるのです。

南宗寺を目指して、大通筋から東へ入った通りを歩いていると こんなのが! 

   

 
   
タダだそうです!
相方も私も「無料」「タダ」という言葉は大好物(苦笑)
しかし残念な事に、こんな所に無料の足湯などある事を知る由もなく、タオルの用意はしてない。


「仕方ないねー。。。」

でも、足はやっぱり棒のようになってるわけで、ちょっと先にある喫茶店で小休止。
水分補給もしたけど、小用もたして、僅かにリフレッシュ。
喫茶店を出ると、相方は来た道を戻り始めたじゃない。

相方が立ち止まったは、先ほどの足湯温泉。
「天然温泉 南宗の湯 コパーナ」

タオルが無いのにどうするのよ。
相方はズボンのポケットに手を突っ込むと、紙おしぼりを数枚も引っ張り出した。
そーいえば、さっきの喫茶店のトイレに手拭用のおしぼりがいっぱい置かれてたっけ。

足を湯に浸けるとかなり熱い。
しばらく我慢しているうちに湯の温度が快く感じ始め、ジンジンしていた足の裏が楽になり、ふくらはぎの張りもおさまった。

紙おしぼりで丁寧に足を拭くと、靴を履いて再出発。
驚くほど、足が軽くなっておりました。

やっとたどり着いた「南宗寺(なんしゅうじ)」
元は「宿院」にあったのですが、大坂夏の陣で焼失してしまったのを、沢庵和尚によってこの地に建て直されました。

このお寺では、ミステリアスでおもしろい物が見られます。
例えば、「徳川家康のお墓」とか。

「大坂夏の陣の時、真田幸村の奇襲を受けて輿にのって逃げ出した家康。
 しかし大坂方の猛将・後藤又兵衛は怪しいと睨んで槍でついた。
 家康はそのまま南宗寺で絶命。
 しかし死去はふせられ、家康の影武者が活躍。
 家康の遺体はひそかに日光東照宮へ運ばれ葬られたという」


こんな伝説がまことしやかにささやかれてます。
二代将軍・秀忠、三代将軍・家光が相次いで寺を参詣したのも、その噂に追い風を送っているような感じ(笑)。

そして国の重要文化財に指定されている仏殿には、大きな竜の天井画が描かれています。
その絵は「八方睨みの龍」と呼ばれていて、どこから見ても龍に睨まれちゃうんです。

仏殿の前にはこんなものも。
   

   
いつの時代に作られた方位計か判りませんが、方角を示す記号が、十二支の漢字と西洋の星座を表す記号がごっちゃになってる。
このあたりが、いかにも堺らしいような感じがします。

そして、この塀。


寺の周囲をめぐらす土塀には、沢山の瓦が埋め込まれています。
かつての大坂夏の陣の際、堺市街全域が火の海となり、建物の多くが焼け落ち、そして戦いには直接関係のない市井の人々にも、多くの犠牲者が出ました。
その鎮魂のために、焼け残った瓦を拾い集めて土塀に埋め込んだと言われています。


戦国時代を生き抜いた商人の中には、忘れちゃいけないお方が一人。
呂宋 助左衛門(るそん すけざえもん)こと、「納屋助左衛門」その人です。

彼は父親の代から貿易商を営んでいましたが、安土桃山時代にはルソン島との交易で大変な富を得ました。
しかも、自らが船に乗って未知の世界へ赴いたのですから、その豪胆さが時の権力者の目に留まらない筈がない。
信長にも重用されましたが豊臣秀吉が天下人になると、御用商人として厚い保護を受けるまでになりました。
その時には秀吉に対して蝋燭、麝香、真壺、ルソン壺、唐傘、香料などの珍品を献上し、大変に喜ばれたそうです。

慶長3年(1958年)、あまりに贅沢な生活を好んだためか、石田三成の讒言によって、秀吉から身分をわきまえずに贅を尽くしすぎるとして邸宅没収の処分を受けることになりました。
しかし事前に察知して、その壮麗な邸宅や財産を菩提寺の「大安寺」に寄進して日本人町のあるルソンへ脱出しました。

その後の慶長12年(1607年)、スペインがカンボジアに介入した後にルソンからカンボジアに渡海し、そこでカンボジア国王の信任を得て、再び豪商となったと伝えられています。

その大安寺が南宗寺の隣にあるので、いそいそと出かけると・・・・

な、なんと!
「当寺を拝観されるには、事前の予約が必要です。」

そんなの聞いてないってば。

ガイドブックには、「大安寺」は目立つところに掲載されていたので、秀吉を大喜びさせ、また激怒させたという、曰くつきの「ルソン壺」見たさに、あちこちの名刹に立ち寄りながらも、ずっと拝観料をケチッていた私です。

すごすごと、玄関の写真を一枚撮ったきり。

「堺」の戦国商人を訪ねるお散歩は、なんとも寂しい結末となりましたが・・・・

しかし、「チン電の旅」はもう少し続くのであります。  (#^.^#)






「〜堺〜」 その2 チン電の歴史旅「大阪市内の平安時代」