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「大阪市内の平安時代」                   

  チン電の歴史旅


堺市のごく一部を歩いてきただけですが、ちょっとお疲れ気味。

堺の街を離れる前に、堺市街をめぐらす堀の一部として、往時の堺を守っていた「土井川」としばしのお別れ。




阪堺電車の駅名は「御陵前」。
とはいえ、世界三大陵墓に数えられる「仁徳天皇陵」は、ここから歩いて30分近くもあるために「南宗寺前」という副名がつけられています。

土曜日のこととて大通りには車が少なく、いとものんびりとして人も少なげな様子に見えますが、実のところ近年俄かに増えている鉄道ファンの面々がカメラを構えて反対側に陣取っていたのです。

大坂から堺へ行くときには「恵美須町」が始発の「阪堺線」を利用しましたが、帰りは「上町線」に乗りました。

そして、「東天下茶屋駅」で降車。
小さな駅構内の隅にこんな碑を見つけました。

明治33年(1900年)、大阪馬車鉄道株式会社が四天王寺西門前から東天下茶屋まで馬車鉄道を引いたのが、阪堺電車上町線の始まりです。
当初は、天王寺への参拝客に住吉大社まで足を延ばしてもらうつもりで、その一部だけ敷設したのですが大変に繁盛し、たった二年後には「住吉」まで開通する運びとなりました。

当時は、馬車鉄道の馬を操る「別当」は、当時の子供たちにはとても格好良く見え、憧れの職業となりました。
しかし10年後には全線が電化され、レールの上を走る馬車は姿を消してしまいました。

   

   
東天下茶屋駅から東へ2ブロックも歩くと、少し広い目の幹線道路に出ます。
今現在は「あべの筋」と呼ばれる府道30号線。
しかし、昔は「熊野街道」と呼ばれてました。

この道に沿って、ずっと南を目指して歩いていくと、和歌山の熊野大社に行きつくんですよね。
ただし、よほどの健脚に限ります。

平安時代の院政期、上皇達の度重なる熊野詣でがきっかけとなり、貴賤を問わず大勢の人が紀伊の熊野大社を訪れるようになりました。
その頃はすでに、神道と仏教がごっちゃになっていた時代で、ガイド役になった修験者は「先達」と呼ばれ、道案内だけでなく、道中の世話や参拝のしきたりなどを教えていたそうです。

同時に修験者達の働きで、出発点にあたる京都の城南宮から終点の熊野本宮までの街道沿いに、たくさんの「王子神社」が設けられました。
一時はその数は百を超え、「九十九王子」と総称されました。
要するに、参拝者たちの休憩所にあたる場所なんですよね。

「王子」というのはプリンスの意味ではなく、その土地土地の産土神の事で、修験者たちの間では修行者を守護する神は童子の姿を取っているとの思想からつけられた呼称だという説があります。

この「阿倍野王子神社」もその一つで、創建当時は五番目の「王子神社」でしたが、応仁の乱で多くの王子神社が焼失したため、安土桃山時代以降には二番目の王子神社として、熊野を詣でる人たちを守り続けております。




ふと、当時の頃に思いを馳せると・・・
何しろ、おあつらえ向きに足はガクガクですし(苦笑)

ガイド役修験者 
 「さあさあ、阿倍野の地に着きましたぞ。
            皆の衆、ごゆるりとご休息そうらへ。
            あ! その前に・・・皆の衆。

            『六根清浄!』 ハイ、声をそろえて。
            『六根清浄!』 もっと大きな声で!」


そして法螺貝が吹かれ、般若心経の読経が始まり・・・・
とてもとても、のんびりと休憩していられる雰囲気ではない。


その神社から1ブロック北へ行くと
「安部清明神社」があります。

京都にも「安部清明神社」がありますが、それは「安部清明」の屋敷跡と聞いております。
ここの「安部清明神社」は、安部清明の誕生の地なんです。

これは「鶏が先か、卵が先か」との論争にもつながりがちなのですが、「阿倍野」という地名は奈良時代からあり、しかし、「安部」一族は飛鳥時代から歴史書に名を残す名家なので、地名の由来などは私には解らない。

「阿倍野」に住んでいた安部一族の後裔「安部益材(あべのますき)」が、冤罪で罷免され家名復興を信太森神社で祈願した帰り、猟師に追われた白狐をかくまいました。
そのため負傷したことが縁で白狐の化身である葛の葉(くずのは)と結ばれ、童子丸(後の安倍晴明)を授かる事となりました。
しかし葛の葉は我が子に正体を悟られ、悲しい別れとなりましたが、晴明は天皇の病気を治して出世し、益材の無実の罪を晴らして見事家の再興を果たしたとか。

しかし、何故にここが神社になったのか・・・。
私の考えですが、当時は土地神に対する信仰も厚く
「この土地に住んでいたら、とてつもない幸運を掴めた」=「この土地は特別な地である。」
という思想があり、加えて、「あのヒーローはおらが村の出身だよ」系の記念館として、神社が建立されたように思ってます。

府道(旧熊野街道)沿いをゆっくり北上。
何の変哲もない、むしろ遊具がごく少ない小公園の入り口に、大層な石碑が立ってました。



「北畠顕家」
南北朝時代、若干二十歳という若さで戦死した、美貌の貴公子の墓がこの公園内にありました。
十代前半で、すでに後鳥羽天皇の「建武の親政」を補佐し、任地であった奥州の兵を引き連れ、たった16日で600キロにも及ぶ遠路を移動したというのですから、それはそれはすごい事です。
なにしろ、その後の時代で物語られる豊臣秀吉の「中国大返し」の時間速度を大いに引き離す強行軍ですもの。
むしろその年齢で多人数の兵を走らせたという事実を知るにつけ、すごい人だったとしか言いようがないのです。



東天下茶屋駅から一駅先は「松虫駅」

駅の近くに「松虫塚」があります。

昔々、恋に破れた男がセンチメンタル・ジャーニーの旅に出ておりました。
そして、摂津の国の南端近くまで来たところ、深く茂ったやぶの中から「松虫=(現代の鈴虫)」の声が聞こえてくるではありませんか。
それはそれは澄んだ声で、心にできたひび割れが癒されそうな思いになりました。
男はその声をもっと間近に聞きたいと思い、藪の中に潜り込んでいきました。

男には連れがあり、その連れは男が長時間待っても戻ってこないことに腹を据えかね、さきに宿屋へ投宿してしまいました。
しかし、翌日になっても男は姿を現さない。
心配した男の連れは、そこらじゅうを探し回りつづけ、数日もたったころに衰弱死している男を見つけました。

何ともバカバカしいような逸話ですが、平安の雅な時代には、こんなアホらしい話も素敵な逸話として残されているんですよね。

というわけで、今回のお散歩は終了。



もう少し歩いて、私は地下鉄利用で帰宅。

ちょっと充実しすぎの感在る一日となりました。