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「〜堺〜」 その2商人達の戦国 |
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「高須町」「旅籠町」、そして「桜ノ町」。 国道26線から東側は、片道2車線程度の真っすぐで細い道路と二階建の町屋ばかりで構成されていて、独特な街並みが続いてました。 大きな地図で見る 「綾ノ町(あやのちょう)」まで南下すると、突如広い道が現れ、路面電車の軌道が合流してます。 約2ブロックほど歩くと、次の停留所があるほどに密に駅が設けられているチン電ですが、時と場合によっては歩く方がはるかに早く目的地に行きつける場合もある。 広い道路(大道筋)にそって歩みを進めて1ブロック目。 少し東へ入ると「山口家住宅」があります。 山口家住宅の主屋は慶長20年(1615年)、大坂夏の陣の戦火により市街地が全焼した直後に建てられた、国内でも現存する数少ない江戸初期の町家のひとつとして、国の重要文化財に指定されています。 「京都の着倒れ、江戸の履き倒れ、大坂食い倒れ」に加え、江戸の頃は「堺の建て倒れ」と言われるほど、堺衆は建物に贅を凝らしたといわれていますが、この建物はその名残りを示すひとつです。 大堂筋に戻ってから、南へ約2ブロック。 「郷学所」だった建物が残っています。 江戸時代に入ってからも、堺は刃物、鉄砲、酒、朱、丹の製造や、米、油、砂糖などの商取引によって、豊かな町として栄えておりました。 その富は後進の育成に注がれ、堺では無料で子供たちに教育を受けさせる「稽古場」できたのをはじめ、22か所もの寺子屋も運営されておりました。 こうした市民の旺盛な教育活動を受けて、堺奉行所は町屋を買い取り「郷学所」を設けました。 最初に設けられた「郷学所」が手狭になったため、この地に移されました。 移転後は幕府からの援助も受けられるようになり、市民の上級教育機関として、近隣の農村からは多くの人々が学びに来ました。 「郷学所」跡から更に50メートル。 堺の薬屋さんから大名になった方の屋敷跡が、碑文で示されていました。 「小西行長」 クリスチャン・ネームは「アウグスティヌス」 薬屋の次男坊として生まれ、父親の影響で熱心なクリスチャンとして育ちました。 最初は宇喜多直家の家臣として仕えていましたが、後に豊臣秀吉に仕える事になりました。 紀伊の国の太田城攻めで大きな功績を残し、小豆島を領地として与えられてからは、島の開拓を精力的にこなすと同時に、ヨーロッパから来日している宣教師を島に招くなど、キリスト教の布教も積極的に行ったと言われています。 また、肥後ノ国一揆では、その討伐の為に大きな成果を上げたため、肥後の南半国宇土、益城、八代の20万石あまりを与えられて、名実ともに大名の地位に昇る事になりました。 しかし、秀吉の命で「ばてれん追放令」が出された時は、キリシタン大名だった高山右近を密かに小豆島で匿うなど、キリシタン同士の横の連携も固く保っておりました。 関ヶ原の戦いでは石田方に着いて敗戦。 武家としての名誉と誇りを保ったままの身の処し方として切腹を命じられましたが、自殺を厳禁しているキリスト教の教義に逆らえないとして拒否。 京都の六条河原で斬首され、その首は三条大橋に晒されました。 時のローマ教皇だったクレメンス8世は、行長の死を大変に惜しんだそうです。 私的には行長の事を、お金持ちの家に生まれたそのツテで出世したようなお坊ちゃんだと思ってましたが、いやいや、とんでもない認識不足でした。 小西行長や高山右近のように、信教が現世での我が身を不利にしようとも、生涯にわたってキリスト教を信仰し続けた人々も数多くいましたが、中にはそれを利用して海外との貿易を始めた人もいました。 「西九郎兵衛」 「ルイス」とクリスチャン・ネームがあったので、「西るいす」とも呼ばれています。 西九郎兵衛は豊臣秀吉晩年の頃に、一族でルソン島のナニラへ移り住み、そこを拠点として日本貿易を行いました。 彼は頻繁にルソン島と日本を往復していたと見え、ルソン船が来日した際には、ルソン側の通訳を務めたと言われています。 その特異な貿易体制が徳川家康の目にとまり、家康と親交を深める事になりました。 その後、日本に帰国し、今度は長崎を基地に朱印貿易を行っていましたが、晩年になって名を西宗真と改めると、堺へ移り住み、蓄えた財産で悠々自適の老後を送ったそうです。 その方のお墓が、日蓮宗のお寺だった「本受寺」にあります。 南蛮貿易によってキリスト教が伝来し、堺の町には多くのクリスチャンが生まれましたが、堺にはもう一つ、大きな政治的宗教団体ともいえる組織がありました。 「本願寺」 この宗教団体さえ存在しなければ、織田信長による天下統一事業はもっと早くすんだかも知れません。 時を遡って、鎌倉時代。 平安時代から多くの信徒を集めていた浄土宗から、庶民にとって最も解りやすい教義を掲げた新派が現れました。 それが、「親鸞聖人」を開祖とする「浄土真宗」なのですが、ほぼ同時期に「一向俊聖」を開祖とする「一向宗」も生まれました。 大まかな教義は、ほとんど一緒。 どちらも、阿弥陀如来の力にすがり、「南無阿弥陀仏」と唱えさえすれば「浄土」へ行けるというもの。 故に、当時から両方の宗旨を混同されていた信徒が多かったと言われています。 その二派の宗旨が庶民の間に広まる頃、南北朝の内乱が続き、それが沈静化して間もなく、応仁の乱が起ったのが切っ掛けで、日本中が戦国の世となり果てました。 戦がある度に酷い目に遭うのは、古今東西を問わず、いつの時代でも弱者である貧しい人達でした。 戦国時代の後半になると、庶民達の怒りが爆発し、各地で一向一揆が起こりました。 また、浄土真宗の本拠地である本願寺では、第八世法主の蓮如によって「講」という組織が作られ、あらゆる階層の人達が平等に教えを聴き団結できる場が提供されました。 地方の農民達は、「講」を利用して、自分達を搾取する領主に牙をむき、また、ある大名は、敵対する領主の地盤を揺るがすために「講」を利用したりしました。 戦国時代も終盤に入り、織田信長が天下統一を図った頃、信長を最も悩ませたのが「一向衆」と「本願寺」に属する「門徒衆」でした。 大名同士の戦いならば、どちらかが大将首を討ち取れば勝敗が決まるのですが、一揆を仕掛ける農民達は、後から後から、まるで蟻の行列のように沸いてくる。 文明8年(1476年)、山科本願寺にいた蓮如が、堺の地に「本願寺堺別院」を建立しました。 その頃は戦国時代のまっただ中でしたが、堺の町に限っては、会合衆(えごうしゅう)という商人達によって自治活動が行われ、また、戦乱から町を守るために堀が築かれていて、非常に安全な都市でした。 安全な土地には富が集まりやすく、それに伴って人も寄り集まってくる。 ここが蓮如にとっては目の付け所だったんでしょう。 この寺の周りを一巡りすると、周りはお寺だらけでした。 大阪市内中央区から天王寺区近辺の寺町は、大阪夏の陣以降に第二代将軍・徳川秀忠の命によって、防火帯の役目を果たさせるために強制的に寺が集められましたが、ここはどうも違う。 本願寺衆に属している僧達が先を争って、この地に自寺を建立したようです。 手にしている地図は名所の記載場所がずれていたりして、いささか頼りない存在でしたが、ここに至ると寺々の塀が、まるで迷路の仕切のようになっていて、目的地探しに大汗をかきました。 この地域での本来の目的地は、「三好家」の菩提寺だったんですが、それを見つけた時は青息吐息(汗) 群雄割拠の戦国時代、阿波(徳島県)の三好出身の豪族が三好氏を名乗り、時代が移るとともに畿内や四国に大きな影響力を持つまでになりました。 しかし、時は下克上の時代。 二代目の曾孫くらいに世代が移ると、一族の内部で抗争が起こり、それが元で三好家は衰退してしまいました。 足利将軍の管領だった細川晴元に仕えていた三好長慶は、一族の長老三好政長の存在がうとましく、政長の讒言によって父元長が誅殺された恨みも深く持っていました。 政長父子の誅殺を主君の晴元に乞い願っても受け入れて貰えなかったため、長慶は晴元に対して反旗を翻し、また三好政長父子とも敵対関係になりました。 摂津国江口城に籠城した政長は、長慶軍に攻められて討ち死にしてしまいました。 政長の子、三好政勝は、戦死した父の菩提を弔うため、この地に「善長寺」を開山しました。 三好政勝にとって、親の敵である三好長慶は「またいとこ」とか「はとこ」と呼ばれる関係で、案外近しい関係だったような。 近しいのは血縁だけでなく、三好長慶が亡父のために開基した「南宗寺」とは1キロも離れてないんですよね。 三好長慶は教養が高かっただけでなく文化的素養も豊富で、頻繁に茶会や連歌の宴などを催していたそうです。 そのために、朝廷や幕府との繋がりも深く、また堺衆とも懇意でありました。 また、「南宗寺」の開山だった「大林宗套」(だいりん そうとう)は、茶人としてもよく知られ、多くの茶人達が彼の元で修行したと伝えられています。 例えば、信長の茶頭として仕えた今井宗久や津田宗及、千利休。 千利休に、最初に茶道の手ほどきをした北向道陳。 千利休の師となった武野紹鴎。 この人々は全て、「大林宗套」の門下だったと言われていますが、その人達がずらりと並んだ光景を想像すると・・・・。 凡人で尚かつ跳ねっ返りの私なら、多分、窒息してしまうかも……(o_ _)o パタッ その「宿院」周辺には、「今井宗久屋敷跡」「千利休屋敷跡」「武野紹鴎屋敷跡」など、当時の大物の屋敷跡が小さな碑として残されています。
市街地の炎上とともに、おもだった建物のほとんどが消滅してしまい、建立当初は「宿院(すくいん)」にあった「南宗寺」の方も、後に南旅籠町に再興されています。 大きな地図で見る その「南宗寺」へ向かう前に、もう一ヶ所立ち寄りたい所がある。 |
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