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「〜堺〜」 その1                     

  商人達の戦国



大阪市内と堺市を結ぶ、唯一の路面電車である「阪堺電気軌道」が、今年で創業100年目を迎えました。
仕事柄、頻繁に阪堺鉄道の沿線を走るものの、物心つくまではいざ知らず、物心ついた頃から今まで「阪堺鉄道」に乗った記憶が無い。
じゃあ、話のタネのつもりで乗りに行こうか。
でも、ただ単にチンチン電車に乗るのは余りにも芸が無い。
「阪堺電車」のサイトで掲載されている地図を見ながら、「姫たちの戦国」ならぬ「商人たちの戦国」をテーマに行先を絞り込む。

大阪市の南に隣接する堺市は、かつては宣教師ルイス・フロイスをして「東洋のベニス」と言わしめたほどの大都市にて、国内の金銀の大部分が集まり、その富に惹かれた戦国大名達も集まりました。
その証拠のように、地図を見ると至る所に戦国時代の有名人ゆかりの寺や屋敷跡などが記載されています。

どうするよ? 行く所がいっぱい有り過ぎるし・・・。
ここで腕組みをしてても始まらない。
まずは、「チン電」に乗り込んでみよう。
そ、今もなお路面電車が走る街では、大抵の場合は「チンチン電車」と呼ばれていると思うのですが、「阪堺電車」に限っては「チン電」と呼ばれる時も多いのです。

大阪のシンボルともいえる通天閣から程近い「恵美須町(えびすちょう)」が阪堺電車の始発駅。
600円で一日フリー乗車券を買い、最初の降車地は「高須神社前」としましたが、沿線の途中にも戦国時代に活躍した方々の足跡はいっぱい残ってます。

恵比寿町から4駅目の「北天下茶屋(きたてんがちゃや)」。
「天下茶屋」という地名の由来は、天下人となった豊臣秀吉が、住吉大社参詣の途中でお茶を飲んだ茶店がそこにあったからとか。
さっそく出てきたのは、戦国大名のトップクラスであります。

そこから更に2駅目の「天神ノ森(てんじんのもり)」。
ここにも、戦国時代を生きた人の足跡が残ってます。
天満宮の末社があり、別名「紹鴎(じょうおう)の森」とも呼ばれていて、かの千利休に茶道を教えた師である「武野紹鴎(たけのじょうおう)」が、茶室を構えた所と知られています。

そして尚も2駅目「住吉鳥居前(すみよしとりいまえ)」
「住吉大社」の社史に因ると、西暦211年に神功皇后によって鎮座されたとあります。
飛鳥・奈良時代の頃より、この近辺は日本最大の国際貿易港として栄え、遣隋使・遣唐使を乗せた船の発着場としても利用されました。
それ故に、「住吉大社」は海上の無事を祈る海の神として、海外との貿易を行っていた堺商人達の信仰を集め、昔は鳥居の中まで船で入る事ができたらしい。
海上輸送がさかんになった江戸時代には、運送船業の関係者により、約600基の石燈籠が奉納されてます。

そして4駅目が「高須神社(たかすじんじゃ)」
ここで降車です。

応仁の乱から始まり、長らく続いた戦国時代。

当初は「やーやー、我こそは・・・」の名乗りから始まった戦ですが、鉄砲の伝来と共にその様相はガラリと変わりました。
その立役者の一人が、実は堺の鉄砲鍛冶職人であった芝辻家なのです。

芝辻家の祖先だった芝辻清衛門は、紀伊の国(和歌山県)根来寺の近くに住む刀鍛冶でしたが、種子島に伝来した火縄銃2挺のうち1挺の複製を依頼され、国産最初の鉄砲である「紀州一号」を完成させました。

日本での、刀や鉄砲の原料になる鋼(はがね)製法の技術は、平安時代の頃には既に、世界のトップクラスにありました。
その技術と日本人特有の研究熱心さが結びつくと、あっという間に国産鉄砲の大量生産ができるほどに至りました。
種子島に鉄砲が伝わった数年後、大量の旧式鉄砲を持ちこんだヨーロッパ商人たちは、日本産鉄砲の精度の良さとその生産力に舌を巻いたと伝えられています。

国内で大量の鉄砲が生産されるにつれて、「根来衆」と呼ばれる鉄砲集団が生まれ、僧でありながら傭兵部隊として戦国時代を活躍しました。
また、「雑賀衆」と呼ばれる武装商人集団も生まれ、数千丁単位の数の鉄砲で武装していたと伝えられています。
堺刃物会館
その中の有名人が、「根来衆」では織田信長を狙撃した「杉谷善住坊」、本願寺派に着いて信長を大いに手こずらせた雑賀衆のリーダー「雑賀孫市」ですかねー。

天正10年(1582年)の「本能寺の変」に於いて織田信長が没した2年後。
豊臣秀吉と徳川家康が、小牧長久手の戦いで直接対決をする事になりましたが、その戦力は豊臣方が約11万人であったにもかかわらず、徳川・織田の連合軍はたったの1万8千人。

圧倒的戦力だった豊臣方に徳川・織田連合軍が敗退せずに済んだのは、「根来衆」「雑賀衆」の鉄砲隊が、家康方を支援したからではないかと考えてます。

紀州で鉄砲鍛冶として身を興した芝辻清衛門は、後に堺の地に移り、その子孫である芝辻理右衛門(しばつじりえもん)は、徳川家康から500丁もの鉄砲制作の依頼を受け、なんと即座に納品したそうです。
その他に、口径・1寸3尺、長さ・1丈、砲丸重量・1貫500匁の、当時としては最大級の鉄製大砲を作り上げました。
大坂冬の陣でそれらを用いた家康は、豊臣方に大勝し、芝辻理右衛門は高須一帯の土地を家康から拝領する次第となりました。

この神社は、芝辻理右衛門が鉄砲鍛冶達の繁栄を祈念して建立した稲荷社と伝えられています。
世界的にも水準の高かった刀鍛冶の技術が鉄砲鍛冶に受け継がれ、今現在もその技術が応用されて、日本でのプロ用の包丁の90%が堺で作られています。

堺の伝統産業は包丁だけではなく、お線香作りも盛んです。
今は仏壇を置く家が減ったり安価な輸入品が増えたりで、堺での生産量はかなり減ってしまいましたが、戦前までは全国シェアの30%以上を占めていました。
その名残が今も残っていて、街を歩くとお香の良い香りが漂っている所があちこちにありました。
こちらはお線香の老舗のひとつ、「薫主堂」さんですが、昔ながらの建屋を残しておられます。
他にもお線香の老舗が何軒もありますが、鉄筋数階建ての堂々とした社屋ビルを構えているお店も残ってます。
堺でお線香作りが盛んになったのも、南蛮貿易が切っ掛けでした。
かつては香木は大変に貴重な物とされ、貴族階級の人しかその香りを楽しむ事は出来なかったのですが、南蛮貿易が盛んになって大量の香木が日本に持ち込まれると、庶民階級もその香りを楽しむようになりました。
そして発明されたのが、数種類の香木を練り合わせて作ったお線香なんです。

薫主堂さんから南へ約50メートル。
鉄砲鍛冶屋敷が今でも現存しています。
前述の芝辻理右衛門と徳川幕府の御用鉄砲鍛冶の祖となった榎並屋勘左衛門の屋敷跡です。
在住している方がいらっしゃるのか、内部は非公開になってますが、外側を拝見するだけでも堂々としたお屋敷でございました。

そのすぐ近所には「水野鍛錬所」という刀鍛冶の作業場があります。
残念ながら土曜日は休業日だったので中の様子は見られませんでしたが、平日だと店舗の奥で昔ながらの製法で包丁などを鍛えておられる様子が見られたかも知れません。

包丁の制作技術も、実は南蛮貿易によってもたらされたんですよね。

タバコが日本に持ち込まれ、同時にタバコの葉を刻むための包丁がポルトガルより伝えられました。
タバコ葉包丁

その形状をヒントに作られたのが、出刃包丁なのです。
その後、菜切り包丁、蕎麦打ち包丁、畳み切り用の包丁など、用途によって形状の違う包丁が次々と発明されました。
水野鍛錬所の玄関先には、堺市出身の歌人「与謝野晶子」が詠んだ短歌が碑文として残されていました。



「住之江や 和泉の街の七まちの 鍛冶の音きく 菜の花の路」

鍛冶屋さんが建立されたためか、石碑は包丁の形をしています。



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