結局、料理を食べることは出来なかった。
茂が作った炒め物はもちろんだが、美樹もまた料理を作ることが出来なかったのだ。いや、美樹がヘタだというわけではなく……
キッチンに入ってみると、そこは名ばかりの鉄板があるだけの部屋。鉄板は熱く熱せられていたが――熱を管理する母神とやらが力を与えてくれたという――調味料もなく、ただ野菜を炒めるしかできない貧弱な設備だったのだ。これでは、ちゃんとした料理などできるはずもない。
そのことを説明すると、茂は解っているのかいないのか、なんども頷き、また今度にしようと言う。そして、冷蔵庫から――これも熱を管理する母神の力で――いくつかの果物を出してきて、美樹はそれを食べたのだ。
「それでは、今度はいろいろ用意してみますね」
茂と別れ、美樹は小さく息をはく。
ものすごく好感触な茂が相手とはいえ、昨夜のことを思うと、やはり緊張してしまう。しばらく、こういう状況が続きそうだ。広い玄関ロビーの中央で、両手を上に伸びをする。
「美樹、疲れたの?」
かたわらで自分を見上げている暦が尋ねてくる。どうやら、疲れるとは思っていなかったようだ。
「疲れたっていうか……まあ、精神的に、ね」
暦とは、あいかわらず話しやすい。というか、美樹の中では完全になごんでいる。出会ってまだ1日経っていないというのに、不思議なものだ。
ただ、これからはこの聖幽戯館で生活するのだ。他の母神ともうまくやっていかなくてはならないだろう。見たところ、そんなに自分を拒んでいるようには見えないものの、あんな話を聞いてしまっては、どうしてもやりにくい。特に、望という母神は別格だった。
そのことを思うと、わずかにウツになってくる。
「そうだ。暦ちゃん、この聖幽戯館、案内してくれない?」
唐突に提案を出した。
「来たばかりで、間取りとか全然わかんないし……これからここで生活するんだから、知っておいたほうがいいでしょ?」
小さい子供を諭すように前かがみ。暦にたいしては、こういう動作が普通になってしまった。もう、美樹もあまり疑問を持たなくなってきていた。
暦はそれをどう思ったのかはわからないが、小さく頷いて、
「わかりました。それでは、聖幽戯館を案内します」
たった今、出てきたばかりのキッチンの方向へと歩き出す。まさか、キッチンやダイニングから案内を始めるわけではないだろうが……やはり違った。一番奥のキッチンではなく、暦が入っていったのは、1つ手前の扉。
「ここは、人間たちの家で言うリビング。私たちは、よく会議などに使っている」
そこは、昨夜、美樹が覗いていた部屋だった。光の加減が違うせいだろうか、夜に見た時とずいぶんイメージが違う。
「ふーん……」
確かに、母神たちがテレビを見ながら談笑したり、ゲームして遊んだり、あまり想像できない。
特に見て回るほど家具や小物があるわけでもない。紹介が終わると、すぐにリビングの扉から廊下に向かうが……正面に、もう1つ扉があるのに気付いた。
暦がロビーの方へ向かおうとしていたので聞いてみると、
「そこには、特に何もない」
暦にしてみれば、それで説明は終わりのつもりだったのかもしれない。しかし、美樹が釈然としない顔をしていたのを見て、少しの間を置き、
「部屋として使っていない。ただの空き部屋」
試しに覗いてみると、確かになにもなかった。ただ、空き部屋とは言っても、ホコリが溜まっているということはないようだ。掃除しているとは思えないが……これも母神の力なのだろうか?
こちら側に部屋はこれだけ。どうやら、ロビーを挟んで、左右に4室ずつらしい。
ロビーに戻ってくると、ちょうど反対側の廊下に、部屋から出てくる幽霊の姿……いや。例のシスター少女が姿を表わしたところだった。少女は美樹たちの姿を認め、こちらに向かって歩いてくる。
「こ、こんにちは」
まだ声を聞いたことのない少女に、美樹は挨拶をかけてみる。いや、声どころか名前もまだ知らないではないか。
「……………………」
初めて会った時からそうだが、この少女、言葉も発しないし表情も変えない。動きも至ってシンプルなモノばかり。全く何を考えているのかわからなかった。
「今、聖幽戯館を案内してる」
暦の説明にも、やはり反応はない。頷くぐらいはしてもいいのに、こちらを見たまま……こちらの様子を伺っているような視線を、ずっと送っているだけ。
(嫌われてる……のかなぁ?)
美樹がそう感じるのも無理はないだろう。
結局、交わした言葉はそれだけ。少女の脇を暦がすり抜けるのを見て、慌てて美樹は追ったが……少し気になって振り返ってみる。すれ違った少女と目が合った。向こうもこちらを振り向いていたようだ。
「あ、えーと……」
虚をつかれ、どもる。
しかし、目の前の少女はすぐに後ろを向き、ロビーの方へ歩いていってしまった。結局今回も、声も名前も聞くことはできなかった。
見ると、暦が立ち止まって美樹を待っている。こうなったら、彼女に聞いてみよう。
「ねぇ、暦ちゃん。あの子……どんな子なの?」
「どんな……そうですね。彼女の名は、潜(ひそみ)。自然界の極小生物を配下に置いている」
一度、質問内容に疑問を持ったようだが、聞きたい内容はわかってくれたようだ。
「簡単に言えば、単細胞生物。ウイルスや、動植物を構成する細胞、全てです」
「へぇ……」
ウイルス、なんて聞くといいイメージはないが、自分の体もあの少女の配下だというのは、なんだか不思議な気がした。
「潜は、あまり話すのが得意じゃない。私たちも、ここ数年は聞いたことがない」
それは、果たして「あまり」といえるレベルなのだろうか?
ともかく、数年前には言葉を発したとのこと。なんとしても、彼女に話させたい……美樹は密かな目標を見つけた。
「潜は、いつもなにげない気遣いをしてくれる。美樹も、気軽に話をしたほうがいい。きっと、美樹を影で支えてくれるはず」
そういえば、初めて聖幽戯館に来た時、潜にケガを治してもらった。歩の指示だったとはいえ、確かに性格は悪くなさそうだった。
「あー、そっか。だから、あたしのケガも治せたんだね」
やっとあの時の不思議現象の意味が理解できた。
おそらく……潜の指1本分の細胞で、破損した部分をつなぎとめてくれたのだろう。いろいろと便利なものだ。
「ここが、潜の部屋。彼女は、ほとんど聖幽戯館から出ることはないから、だいたいこの部屋にいる」
さっき潜が出てきた部屋だ。
「この部屋も、母神の部屋。でも、今はいない」
向かいの部屋に視線を移して説明する。今、聖幽戯館にいない母神もいるようだが、その母神の部屋ということだった。
「あの扉は倉庫。過去、聖幽戯館に迷い込んだ人間たちの道具を置いてある。そして、この部屋は……」
奥へと歩きながら、説明を続け、1つの扉の前に立つ。
「神眼の部屋」
そんな部屋の名前だけ言われても、美樹にはさっぱりわからない。
「何の部屋なの?」
「自然を、監視する部屋」
扉を開き、美樹を中へと誘導する。
そこは、他の部屋と少し違っていた。
床はなく、乾いた地面がむき出し。その土の上に青い光の六芒星が描かれている。よく見ると、地面に書かれているわけではなく、10センチほどの空中に静止していた。その光が、どうもハッキリ見えると思ったら、窓に厚い遮光カーテンがかけられ、外の光を拒んでいたようだ。
暦は、そのまま光の六芒星の中心へと歩み寄った。光なのだから、つまずいて転ぶことはない。なにもない空間のように、スルリと抜けていける。
輝きが増す。
同時に、六芒星は高く、大きく、上下左右に広がりはじめた。
眩しさに、美樹は腕で目を覆い、視界の回復を待つ。
このまま、強い光が続く可能性がないわけじゃないが、幸い光はすぐに弱くなり、美樹の腕も役目を終え、降りる。
「あれ……?」
目の前には、こちらを気にしている暦。それは変わらない。
しかし、背景は一変していた。
そびえ立つ高層ビル、どこまでも連なる自動車、せわしなく動く人の波……美樹は、その中にいた。
「これが、この部屋の力。私たちはいつでも、世界の……自然の状態を確かめることができる。」
絶句する美樹に、淡々と説明をする暦。
この部屋全体が、テレビのようになっているのだろうか? 美樹の目にも見える上、音まで街の喧騒そのままだ。ただ……自分たちの存在に、誰も気付いていないだけ。
「これは、美樹の思念に直接送り込まれているもの。立っている場所は、聖幽戯館の神眼の部屋から一歩も動いていない。美樹は今、幻覚を見ているような状態になっている」
困惑顔でキョロキョロしていた美樹に、今の状況を教えてくれた。と、同時に、ビジョンがもとの部屋に戻る。
「普通は、私たち母神だけしか見られないけれど……私たちが望めば、美樹にも見せることができる」
ということは……美樹だけでこの部屋に来ても、今のビジョンは見れないということか。
だいぶ、不思議現象にも慣れていた美樹だったが、ちょっと今のは不思議のレベルが違った。直接美樹の精神に働きかけてきたせいなのかもしれないが。
暦が六芒星から歩み出る。
「ここでは、1日に1度、母神が自然の状態を確かめる。聖幽戯館にいない母神は直接見ているから、ここには来ないけれど。美樹に入ってはいけないとは言わないけれど、あまり邪魔はしないほうがいい。とくに望がいる時には」
「う、うん……」
入口に歩きながら、注意を促す。
まぁ、呼ばれでもしない限り、この部屋には近づかないのが無難だろう。
これで1階の部屋は全てまわった。
ロビーに戻ってみると、先ほどの潜が壁に向かって何やらやっていたが、話しかけづらかったので見ぬふりをしておいた。
開いた玄関の扉は、おそらく暦が開けたのだろう。その方向に歩いていく。
「2階は?」
「上には、私たち母神の部屋しかない。どこが誰の部屋なのかは、あとで教えてあげる」
下に部屋は8つあった。上も同じだとすると、下にあった2つの母神の部屋と合わせて、母神は最低10人いるということか。今までに会った母神は6人。他の母神たちは、どんな人たちなのだろう。
「ねぇ、ここにいない母神って、どこにいるの?」
玄関を通りすぎながら、尋ねてみる。
「どこにいるかは解らない。ただ、この世界を自由に見てまわっている」
「はぁ……」
外に出ると、少し熱いぐらいの陽射しが肌を突き刺した。室内にいた美樹には、それがまた心地よく思う。
しかし、改めて強い光の中で見ると、手入れされていないのが際立つ庭だ。庭というより、荒地を柵でかこっただけ、というほうが言葉としては合っている。
「この庭……手入れしないの?」
「や。美樹ちゃん」
再び尋ねたちょうどその時。
横からの呼びかけに、こたえを聞くことなく振り向くことになった。
庭の脇で戯れる水面の上。足元からわずかに波紋を広げながら、泉がこちらに向かって足を進める。
「こんにちは」
ペコリとおじぎ。もう、水の上を歩いていようが、気にはしない。
「どうだった?」
「え? 何がです?」
「茂の料理」
興味ありげな顔を、鼻がくっつくかと思うぐらいに近づけてくる。
「え〜っと、それがですね……」
2歩、後退してから、さきほどの顛末を簡単に説明した。
「ほーぉ。茂にとっては、いい先生ができたみたいだな」
笑いながら、そんなことを言う。
この泉は長身なので、美樹は見上げるような体勢になってしまう。これは少し疲れる体勢だ。暦もそうかと思ったが、上は見ず、泉の腰あたりを見ていた。
「あの、あたしもちょっと聞きたいんですけど……」
さっき途切れた質問を泉にしようと思ったのだが、泉は指を振り、チッチッ、と舌をならす。やはり、仕草が人間風味だ。
「どうして庭の手入れをしないのか、だろ?」
どうやら、聞いていたらしい。その上で自分の質問を先に済ませてしまうとは、なかなか自分勝手……もとい、奔放な性格だ。
「はい。手入れすれば、もっとキレイに……あ、手入れっていっても、枝打ちとか草取りとかじゃなくて、枯草をどけるとか……」
自然の王たちの前でこんなことを言うのもアレだが……草木を傷つけるのは自然じゃない、という答えが返ってきそうだったので、そうつけ加えた。事実、美樹は正直、そうやって見た目だけをよくするのは好きじゃなかった。
泉は少し間を置くと、
「なるほど」
腕を組んで、納得したように頷いていた。
「どうやら、自然が好きなのは本当みたいだ。自然のことを一応は考えてるな。でも……」
指先で、美樹の頭をツンと突つく。
「まだまだ甘い」
今度は、少し真面目な表情になる。
「手入れをして、見た目をキレイにする……それで満足してるのは人間だけなんだな。人間が、キレイだと思うように作り変えているだけだ。気に入ったモノだけを映えたたせ、そうでないモノは取り去る。それが自然じゃないってことは、美樹ちゃんにも解ってるんだな」
コクコクと頷いて、今のセリフに間違いないことを伝える。それに満足したように、泉もまた頷いて返した。
「じゃあ、美樹ちゃん。枯草は取り去ってもいいのかな?」
「えっと……枯草なら、いいかなーって……それだけ」
「うん。そんなところだと思ったよ。でもな、枯草だって、ちゃんとした自然だ。一見、意味がなさそうなモノも、ちゃんと役割を持ってる。それをなくしてしまえば、自然のリズムは狂ってしまうんだ」
庭に広がる枯草を見渡してみる。
緑の合間に見える黄土色。腐りかけの茶色もあちこちにある。
「美しさだけが自然じゃない。キレイなモノを求めたら、自然に近づくことはできないよ」
「役割……かぁ」
自然が好き、という気持ちには自信があったが、母神から見ればまだまだということか。これからいろいろ勉強しなくては。
ふと、勉強という言葉を思い出し苦笑い。自分が好きな内容の勉強だったら、ドンとこいって気持ちだ。
「ところで……」
突然、真面目モードを解除する泉。
「何をモジモジしてるんだい?」
「え? あ、えーと……」
少し前から、美樹はずっとがまんしていた。
暦に案内を頼んだ時、きっとその場所に行くことになるだろうと思っていた。が……よくよく考えれば、母神には必要のないモノかもしれない。
「あの、トイレって……」
「トイレ?」
知らない言葉だったのか、暦に答えを求め見下ろした。
「あぁ、それだったら……」
暦は何もしていないように見えたが、何か意志の疎通があったようだ。理解した泉は、ある方向を指差す。
もしかしたらあるのかと思い、泉が示した指の先を追う。そこには、さっきまで泉が立っていた池しかないが……
「そのへんで」
「……は?」
一瞬、どういうことかわからなかった。
「泉。今の人間の多くは、そういう場所ではしたがらない」
「そうなのか?」
暦が顔を上げ、現在の人間の習性を教える。どうやら、話をする時にならないと顔を見ないようだ。
「ほとんどの人間は、屋内に設置した専用の部屋で行なっている」
その言葉、確かに間違いではないが……そう改まって説明されると、なんだかヘンな感じがする。
泉は釈然としないながらも、1つの案を出すことにする。
「そうか……それじゃ、歩に頼んでみるかな」
|