夜も更ければ、森は静寂に包まれる。
きっと、そう考えているのは、人間だけかも知れない。
夜の森からは、夜鳥の鳴き声、虫の音、昼夜を問わぬ風にざわめく木々……昼間となんら変わらぬ営みが展開されているものだ。
ただ、人間が出す騒音が大きく減っている、それだけのこと。
空の中央に陣取った丸い月は、皓い光を聖幽戯館にも振り注いでいる。
皓と青、二つの淡い色彩が重なり合い、不思議な世界を創り出していた。
『美しい』というのは、こういうモノなのかもしれない。
部屋の中で眠る美樹の体にも、皓い光は届いていた。
室内も青い光で満たしている聖幽戯館。窓から射し込む皓い光の部分だけが、透明感のある色へと変わっていた。これもまた、美しい情景だ。
その神秘的な場所を、美樹は独り占めしていた。暦はいない。どこかへ出掛けているようだ。
ベッドで一人眠る美樹は、さながら花の蕾で休む妖精のようだ。
フクロウが近くにやってきたらしい。どことなく哀しげな歌を歌い、またどこかへ飛び立っていく。
その歌に反応するように、美樹の体が動く。
寝返りかと思えば、美樹の目は開いていた。
ちょうど目は天井に向いていた。
「ん…………」
寝ぼけていて頭がはっきりしないのだろう。
青く神秘的な光と、窓からの皓い月光を受け、ベッドに入る前の出来事を思い返す。
自分の不注意から崖下に転落し、そこで暦に出会った。
連れてこられた館で、出会った不思議な少女たち……
「母神……ねぇ……」
ついさっきとも、ずっと前とも思える母神たちとの会話を思い出す。
自然界の王。
それが、美樹が今、暦たちの存在に定義した言葉だった。
ただ、そのあまりにも大きなスケールに、まだ実感がないのが本当のところ。すごい存在だと思いながら、なお美樹は、特に先ほど部屋に現れた母神たちに対してフレンドリーな感覚を持っていた。
『神』という名を冠するほどの存在だ。細かいことは、いちいち気にしないのかもしれない。
ただ……館の外で出会った望だけは違っていた。
明らかに美樹に……というか、人間に対して敵意を持っているようだった。
人間が自然を汚していることに腹を立てているのだろうか……?
まぁ、今夜限りの宿になるのだろうし、あまり関わらないほうがいいかも知れない。
そう美樹が思った時、階下から何やら話し声が聞こえてきた。
「……なんだろ?」
談笑とは言いがたい、何か言い合いをしているかのような……そんな声だ。
誰かと話していることは間違いないが、声は1つだけ。話相手は大きな声を出していないために、美樹の耳まで届かない……そんなところか。
時間は……正確なことはわからないが、月がほぼ真上にあることから深夜であろう。母神にとって時間は関係ないのだろうが、静かな空気にその声はいやに美樹の耳まで通った。
話の内容が気になる美樹。
「……ううん、ダメよね。相手は神様だもん。あたしなんかが聞いていい話じゃないかも……」
聞きたいという衝動と、聞いたらいけないという理性。
逆方向の感情が迷いをもたらすのだが……それも短く、美樹は衝動に流されたようだ。
ガバッと上体を起こす。
「いいや、行っちゃえ」
淡い光を放つ床に足をおろし、靴を履きなおす。夜中でもほのかに明るいのは、なかなか便利だ。
部屋の扉まで歩くが、扉はそのままだ。先程までは自動で開閉していたのだが……母神がいないと機能しないのだろうか。
ノブに手をかけ回してみれば、普通に開けることが出来た。
左右に伸びる廊下に出た美樹は、耳を澄ませてみる。
また声が聞こえた。どうやら、下の階から響いてきたようだ。
なぜか、足音を忍ばせながら階段へと向かう美樹。
この聖幽戯館、見た目は古い木造の洋館なのだが、歩いても全く軋まない。自らの足音と、話し声だけが小さく響いてくる。
階段を一段一段、一歩一歩、ゆっくりと降りて行く。
美樹は、どうやら盗み聞きをしようとしているようだ。気付かれないようにと、すごく慎重になっている。
階段を降りると、そこは玄関ロビーだ。声は、向かって左側の一室から聞こえてくる。
ここまで来ると、話し相手の声も少し聞こえてくる。
「だから、どうして人間を留めるようなマネをしたのか聞いてるの!」
最初から聞こえていた声が、ハッキリ聞こえるようになった。
(この声って……門の所で会ったあの子かなぁ……?)
美樹は、羽衣をまとった少女の、少し威圧的な態度を思い浮かべた。
(……あたしが出ていくと怒られそう…………)
とは思いながら、引き返すという選択肢は浮かんでこなかった。
美樹は声が聞こえる扉へと、そっと近づいてみる。
「人間も自然の一部。私が拒むのは、平等ではないでしょう」
どうやら、この聖幽戯館のトップ、歩のセリフだ。厳しげな口調が特徴的で印象に残っていた。
扉は、半開きになっている。どうりで声が良く聞こえるわけだ。
美樹はその隙間から、そっと部屋の中を覗いて見た。
(あ、暦ちゃん……それに、さっき部屋に来てた……えっと……そう、茂さんと泉さんも。何かの相談かな……あ、もしかして、あたしのことだったりして?)
部屋では、望が歩と向き合って立ち、その2人を暦、茂、泉の3人が取り巻くように視線を送っている。暦だけは、ソファに座っていた。
「自然を管理する母神の長である私は、平等に接する義務がある」
「…………そうだね。でも、せめて私に一言断ってくれてもよかったんじゃない?」
望の語感に諦めがみられてきた。
どうやら、話に段落がつきそうだと感じて、泉は望の肩に手を置き、
「ま、いろいろ言いたいことはあるだろうけど、ひとまず本題を片付けてからにしよう、望」
「その本題だけど、延期しない?」
望の提案に、反応さまざまなれど一同が驚いた。
「珍しいですね、望がこの話題から離れようとするのは。やはり、人間がいるのが嫌なんですか?」
小首をかしげたように茂が言うと、なぜか暦が視線を落としたようだ。
「当然でしょ。だいたい、この話があの人間に聞かれたらどうするの?」
「彼女なら眠っている。心配はないはず」
歩の回答は早かった。それゆえに、望もそれ以上の抗議はやめたようだ。
(ところが、起きてたりして)
ちょっとだけ、美樹はワクワクした。
と……一瞬、歩が美樹の方を見たような気がして……何事もなかったように、
「ともかく、計画の進退を練りましょう」
『本題』とやらの促しを進めた。
(バレたかと思った……)
冷や汗ものの美樹だったが、よせばいいのにその場を去ろうとしない。話の内容が気になっていて、それどころではないようだ。
母神……自然を統率する神様たちの話を聞けるチャンスなんて滅多にないのだから。
「そうそう、さっさと話して終わらせよう」
察するに泉はあまりヤル気がなさそう。放課後の生徒会を短く切り上げて帰りたがっている生徒をイメージさせる。
そして、暦の横に並んで座ってしまった。
背の高い泉が横に座ったことで、暦との身長差が際立った。
茂は、暦を挟んで反対側に立ったまま位置を取る。まるで、2人で暦を守っているかのような陣形だ。
その3人に向き合うようにして、歩と望。
美樹は、ちょうど横側からその陣形を眺める格好になっていた。
「それで……」
最初に口を開いたのは望だった。
「実行することになったの? 人類抹消計画」
さらりと、信じられない単語が飛び出した。少なくとも、美樹にとっては。
「そんなに結論を焦るなよ、望。歩の言葉、ちゃんと聞いてたのか? 進退を練るんだ。実行するか、中止するかは、これから決めることなんだって」
「そうですよ、望。なにせ、これだけ大きな改革作業なんです。慎重に決めていかなくては」
望の勇み足に、2人の母神がブレーキをかけようと、即座に立ちはだかってくる。
しかし、望も負けはしない。こちらも即座に、機嫌が良いとは言えない表情で。
「茂はそうだろうね、この計画に反対してるわけだし。泉は泉で傍観的だしさ」
「あらら、えらい言われようだな」
「私は別に反対というわけではないですよ。ただ、全滅はやりすぎではないかと……」
望とは逆に、こちらは笑っていた。
(全滅……って、そんなことホントにやるつもりなの……? ていうか、出来るのかな、そんなこと……)
話の内容のスケールの大きさに、美樹は正直なところ実感が湧かなかった。全人類を全滅させる……そんな芸当が出来るはずがないと、どこかで先入観が働いているのだろうか。
しかし、話をしている5人の表情……望は不機嫌そうなものの、暦は普通に見える。出会って間もないが、そう見えた。歩は、美樹はほとんど話したことがないので良くわからないが、暦と同じように静かに場を見守っている感じだ。茂と泉にいたっては、笑っている。
つまり、誰一人として、慌てるようなそぶりも、戸惑いの色も見せない。
シミュレーションゲームで、次にどの行動をしようか……そんなノリにも見える。
冗談で言っている……相手が人間ならそうだろう。しかし、目の前で話しているのは人間ではない。自然界の王、母神たちだ。
(……そのぐらいのこと、簡単に出来るってこと……?)
だから、話題に似合わず和やかな雰囲気になるのだろうか?
考え込む美樹を尻目に、母神たちの会話は続く。
「まずは暦。あなたの意見を聞きたい。人間を配下に置く立場としての意見を」
今まで静かに座っていただけの暦は、その場から動くことなく、視線だけで周囲の母神たちを一回り。これから話すということを皆に伝えているような、そんな一息を入れ、
「私は、ずっと動物たちの魂を管理してきたけれど……人間は今までになく奔放。私の考えていたものとは、大きく変わってしまった」
少し寂しそうに話す。
「自分の管理下でありながら、人間の繁栄のスピードを予想できず、制御しきれなかった……私の責任です」
責任を感じているのか……暦は言うと目を伏せた。
美樹は、なんだか悪いことをしてしまったような気がしてしまった。
「まったく……」
半ば呆れたような言葉は望の口から。先程までの言い合いを見ていて、また嫌味含みになるかと思えば、そうではなかった。
意外と、気遣いがあるように感じた。
「確かに、人間が増えすぎたのは暦の責任かもしれないよ。でも、人間がやってきたことは人間の責任。暦が責任を感じることなんてないんだからね」
「でも……」
小さな声。しかし、全員の注目を集めるには充分だった。
「やっぱり、人間が大勢死ぬのは、見たくない」
制御できないまま現在に至った人間。それでも、暦にとっては自分の子のような存在。諦めきれないのか……それが精一杯の気持ちだった。
暦は、人類抹消計画に反対しているのだろうか……?
「まー、気持ちはわかる。私だって、勝手に水を汚されて悔しい思いしてるからなー。自分の配下をいじられるのはイヤなもんだ」
「私も、随分と森を失いましたし……」
一見、共感しているように見えるが、暗に人間の身勝手さも示していた。
自然を勝手にいじった人間を、今度は自然が人間をいじって何が悪い。
セリフの裏には、そういう意味合いも隠れていそうだ。
「しかし暦。このままでは、自然はやがて変化の方向を変えざるを得なくなる。ここまで育ててきた自然を作り直すのがどれだけ大変なことか……あなたになら分かるはず」
「そう! 今さら摂理なんて変えられないんだからね」
歩のセリフに便乗して、ここぞとばかりに望は正論を並べはじめた。
「第一、自然を管理し、守っていくのが、私たち母神の役目でしょ? その自然を破壊している人間を消して、何の不自然があるっていうの?」
どうやら、これらの言葉のほとんどは暦に向けられているようだ。
「ルールを破ったものには罰を。これは、自然だけじゃない。人間のルールにもあるモノだったね。人間に罰を与える存在が私たちしかいない以上、これは当然の行為。もっと早く実行すべきだったんだ」
扉の陰から聞いていた美樹にも、その言葉は衝撃的なものだった。
具体的に何がどうなっているのか、それこそ分からないものの……人間がおこなってきた行為が、自然にどれほどの影響を与えてきたのか……。望の発言も、ただの好き嫌いからのセリフとは思えなかった。
(人間は、自然から見れば厄介者……ってこと?)
頭では理解できるものの……いや、実際、環境破壊のニュースを見るたび嫌になる自然派の美樹は、最初からわかっていたはずの内容だ。それでも、こうしてハッキリ言われると……いい気分はしない。
(自然を守ろうとする人だって、大勢いるのに……)
カタッ
「!?」
思わず、爪を壁にあててしまった。
部屋の中の母神たちの目が、瞬時にこちらへと向けられる。
(しまった……)
慌てて隠れても、もう遅い。
「お前は!」
望の、明らかな怒気をはらんだセリフが、美樹の耳に届いていた……。
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