日没して、なお雲を赤く染め上げる頃──
大地に生きるモノたちは昼と夜の境を感じ、あるものは眠りにつき、あるものは活動を始める。
世界は、夜を我が物とする動物たちの天下となる。
強い光を放つ太陽に代わり、東の空からは真円に近い月が、優しい光を放ちつつ昇る。
その月を守るかのように、星たちが周りを彩り始めていた。
日中は爽やかな風を送りだしていた大気も、こうなると少し肌寒い風へと代わる。
自然の様相が変わる時、黄昏──
「…………ぅ……」
次第と闇に染まる世界に、小さな呻き声がもれた。
美樹が目を開く。
まだわずかに明るい空が、かろうじて黒い影のようになった山を映し出していた。
「……あれ……?」
まだ意識がハッキリしていないのだろう。虚ろな瞳で、暗い景色を眺めている。
「あ……そうだ、崖に滑り落ちて……」
仰向けになっていた体を起こそうとして、麻痺していた神経が一気に反応する。
「あぅ……!」
痛みが、美樹の頭を覚醒させた。
美樹は動くことが出来ず、仰向けのまま右手を動かしてみた。
握ったり、開いたり、そのまま腕を天にかざしてみる。
暗くて良く見えないが、大きなダメージは負っていないらしいことは解る。
一度、右手を降ろし、今度は左手を確かめてみようとした。
しかし、こちらは動かすことが出来なかった。
手首の辺りが凄く痛い。動かそうとすると、骨の髄から脳天へと響くような痛みが発生した。
「………………!」
声にならない呻きをもらし、どうやら折れている、という事実が脳裏に浮かんだ。
痛みにしばらく全身が硬直する。
その後、時間をかけながら体を動かしていくと、自分の怪我の状態が解ってきた。
やはり、左手首は骨折した可能性が高かった。足は捻ったのだろうか……動かせない程でないにしろ、ズキズキと痛みがある。背中や胸も、かなり強い打撃を受けたようだ。
そして、頭には血がついていた。
今は乾いていて出血は止まっているようだが、動く右手で触れてみると、右頭部に切り傷らしきモノが認められた。
「……よいしょ…………」
意外と大した怪我でもなさそうだ。美樹は、左手をかばいながら上半身を起こしてみる。
体を起こすと、胸や背中が脈に合わせて疼く。
暗い紺色の林は、美樹にとって良い環境ではなかっった。
斜めから差し込む月の静かな光が頼りだが、木々が繁らせる葉によって遮られてしまう。
美樹は、左側の斜面から落ちてきたのだろう。石などが崩れて、美樹がいるあたりにも幾つか転がっていた。そして、右側は──
「………………!」
初めて自分の立場を知った。
右側は、美樹が倒れていた場所から数十センチ先、再び急斜面が闇へと続いている。あと一転がりしていたら、美樹はさらに重傷を負っていただろう。いや、死んでいたかもしれない。
ここは、崖の途中にある棚で、この場所で止まった美樹は運が良かった。
崖の近くにいると危ないと思った美樹は、足の状態を確かめながら立ち上がる。かなり痛みがあったが、歩けない程でもなかった。
足を引きずる感じで登り斜面近くの幹に背をかける。
ちょうど目線の先には、木の間から見える夜空があった。
もう、完全に日は暮れている。
あの時拾ったペットボトルは見あたらない。どこかに引っかかったのか、影になっていて見えないのか……今の美樹に、それを探す気力はなかった。
「…………どーしよう……」
日も暮れているし、自力で降りるのは無理そうだ。救助が来るまでここで待つにしても、水や食料はデイパックの中。見つけてもらえなければ、餓死するのは目に見えている。
体も冷えてきた。良い状況とは言えなかった。
今さらながら、ペットボトル拾いという行為に後悔している美樹だった。
「あったかいスープでも欲しいよ〜……」
こんなことがなければ、今ごろありついていただろう夕食に想いを馳せていると、
ガサッ……
「……え?」
何かが、美樹の場所に近づいてきている。
ガサッ……ガサッ……
音のする方向を見ていても何も見えない。見えないことが、かえって美樹に恐怖を与えた。
「な、何が来るの……? キツネとか、サルとか……だったらいいな……」
期待を込めて呟いて、気持ちを紛らわせている。
ガサガサガサッ
木立が揺れるその辺りに、黒い大きな物体が動いている。
その両の瞳がキラリと光ったように感じた。
見間違いであって欲しいと美樹は思った。
しかし、それで目の前の巨体が消えるわけではない。
「……クマぁ〜…………」
美樹はもう半ベソ状態。
悪いことが次々とやってきて、わざと美樹を困らせているかのようだ。
クマは低く呻って、美樹を観察している。
「か、神様ぁ〜……ううん、この際悪魔でも何でもいいから、誰か助けてぇ〜……」
少しずつ距離を縮めてくる巨体に絶えきれず、転がっていた小石を投げつける美樹。
それに少し驚いたのか、1度クマは動きを止めるが、美樹から目を離さずにそこにいる。
距離を取りながら左右にウロウロしているが……いや、少しずつ距離が近くなっている。
「やだぁ〜、来ないでよぉ〜〜!」
やはり恐怖には勝てなかった。思わず美樹は視線を外してしまう。
その瞬間を待っていたかのように、クマがいきなり襲いかかってきた!
「きゃあぁぁぁ!」
もう美樹は右手で頭をガードし、うずくまるしかない。
「この若さであの世行きなんて! まだまだこの世に未練あるのにぃ! こうなったら幽霊になってでもこの世に居座って…………あれ?」
この世にさよなら、と走馬燈が見えかけた美樹だったが、なぜか来るべき衝撃が来ない。
気配は……ある。美樹のすぐそばにクマはいるはずだった。
おそるおそる、顔を上げてみる。
先程まで美樹に集中していたそのクマは、すぐ横まで迫りながら襲ってこない。美樹から瞳を逸らし、一点を睨んだまま動こうとしなかった。
ガサ……
その音にビクッと肩を揺らしたのは美樹だけではない。
クマもまた、強敵を目の前にした時のように後ずさりを始めていたのだ。
音のした方向──クマが凝視している場所には、美樹の目では何もないように見える。しかし、クマがこれだけ恐怖に怯えるのだから、何かあるに違いない。
「これ以上、何があるっていうのよ〜……」
茂みの向こう側に、影が見えた。
ガサガサ
その影が現れた途端、クマはいち早く撤退してしまう。動物のカン、ここに留まるのは得策ではないということだろう。
だが、美樹は動けない。
度重なる恐怖に、もはや体が言うことをきかなかった。
影が、美樹の近くにやってくる。
さっきのクマとは違い、ずいぶん簡単に……美樹など眼中にないかのような程ためらいなく近づいてきた。
すぐ近く、1メートルの所で影は動きを止めた。
視界が悪いこともあったが、恐怖で判断能力も低下していたのだろう。ここまで近づいて、美樹にはやっと影の姿を判断することが出来た。
(……女の子…………?)
黒っぽいワンピースを着た、小さな女の子だった。
幼げな瞳は不思議そうに、うずくまった美樹を見おろしている。
(なんで……こんな所に女の子が?)
女の子の姿を確認できて恐怖のピークは過ぎていた。とはいえ、このあり得ない状況に戸惑いを隠せない。事実になんとかつじつまを合わせようと、美樹は思考を張り巡らせる。
(あたしと同じように、迷子……にしては怖がってなさそうだし…………もしかして、幽霊だったりして)
女の子は一言も話さない。美樹がこれからどうするつもりなのか、じっくり観察しているようにも見える。
(何か話さないと……このままじゃ、精神的に辛いし。怪我して体中痛いんだから、心ぐらいはサッパリさせたいもんね……)
「怪我……してる?」
「…………え……?」
美樹が話しかけるまでもなく、女の子のほうから言葉を投げかけてきた。
「あ……そ、そうなの。崖から落ちて……」
「それなら、連れていってあげる」
「ど……どこに?」
年の割にしっかりした口調、物怖じしない態度……普通の女の子じゃないと勝手に思った美樹は、そのセリフに怪しさを感じていた。
それを知ってか知らずか、女の子は再び足を動かした。
「ついてくれば、分かる」
サクサクと腐葉土の上を歩いてゆく。
美樹は迷った。
このままここにいても、事態が好転する確率は低い。かといって、怪しげな女の子についていくべきだろうか……?
女の子は、茂みの影のあたりで足を止め、美樹の様子を伺っていた。
美樹についてきて欲しい……そう言っているように感じた。
それが果たして厚意によるモノかどうかは不明だが……
「ま、待って……今、行くからね」
痛む足で立ち上がり、女の子について行くことにした。
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