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とある物語・・・

   INCANCELLABILE・・・消し得ぬ想い・・・

27、悲しきガルファニャーナの森(IL FINALE)

  その夜はパオロの家に泊まった。

  実はクラウディオに辞めることを伝える前日に一度、パオロが彼の荷物を取りに来たことがあって、それはあの忌々ましい会議から2週間ほど経ったある夜、クラウディオは彼を避けて外に出ていた、のことだったのだが、当然僕らは一杯引っかけて、積もる話を語り合っていた。 その時の彼は、幸か不幸か僅かばかりの力を回復していたため、事態転覆の機会を伺う余裕を見せ始めていた。そんな彼には僕が迂闊にも話してしまったネタ、それはクラウディオがパオロ追放の罪状に並べた陳腐な文句の数々、つまり、僕に2度にわたり掴ませた裏金のことであったり、あのイザベラが企画した彼女の家族のための豪勢なディナーの話の費用などのことはパオロに事態の逆転、耐え難い屈辱の消滅が可能かもしれない、という望みを与えてしまったらしく、そのためにも今夜、招待されたのであった。

  彼の家では、主人がいつもいることへのちょっとした安堵感こそ見えたが、やはりそれよりも今後の不安、7年もの勤労を、まるでタバコの火でも消すのかのようにあっさりと、しかも辺りを汚しまくって捨て去ったクラウディオへの恨み、そんなもので満ちていて、一緒に食事してても、なんだか居たたまれないものがあった。 幼いルクレッティアだけは、何事も関係ないって顔して、いつものごとくよだれを垂らしながら、丸めてしまいたくなるようなかわいらしい笑顔をしていた。 そうであって欲しいと思う。 こんなに素敵な笑顔が将来、こういうやり切れない思いによって泣き顔に変わることなく、育ってくれることが、ただただ大事な事な思えた、そんな夜であった。

  翌朝10時頃、僕らは"ヴィッラ・マーニャ"を旅立った。 目的地はルッカより更に30キロほど北上したところに佇む"カステルヌオーヴォ・ガルファニャーナ"、合計100キロちょいの長い道程、我々の失ってしまった"夢"の食堂の経営を仕切る親会社の本部がある町である。 ピサ県を縦断して走る国道439号線を突き抜けるのだが、途中20分程近道に用いた一度たりとも対向車に出会うことのなかった田舎道、なんと言えば良いのだろう、例えばキャンティみたいに奇麗に区画整理のされた何練もの葡萄の木々の奏でる華麗な風景があるのでもなく、シエナ県の田舎部辺りに良く見られるような一連に立ち並ぶ杉の木の作り上げる優雅な園があるわけでもない、そしてなんとトスカーナの象徴でもあるオリーヴの木々すらも見えずに、替わりにそこに広がるのはただの"田園風景"、だが、奇麗であった。

  ポンテデッラを通過し、赤い城壁に囲まれる少し政治的な色のあるとても美しい観光地ルッカに着けば、今度はセルキオ川と並走する12号線を選び再び直進、立ち並ぶ岩石の間を抜けたあたりでそのまま川に沿い、445線に乗り換えると、濃く深い針葉樹林に包まれた渓谷がその涼しげな姿を見せ始める。 イタリアに来てからこの様な本格的な渓谷を見たのは初めてで、突然、日本にいるかの様な錯覚に陥り、長いこと思いも、いや、思い出そうともしなかったことが頭をかすめ、不思議な想いに胸を駆られたりもしたが、もっぱら僕の頭の片隅にくっついて離れなかったのはクラウディオのことであった。

  ただの一度も僕に対して声を上げることもなく、絶えず僕を称賛し続けた男、確かにあそこを辞めるにあたって、後半苛立ちは見えたが(前半はおそらく給料上げ工作とでも思っていたらしい)、それでも始終紳士で通してくれていた。 個人的に恨んではいない、いや、むしろ好きだった男を葬り去りに、今僕はここにいるのである。 でも実は正直言って、パオロに勝ち目があるとは思っていなかった。 会社はクラウディオの側にある、いっても砕け散るだけだろう、そんな気がしていた。 ただパオロ、彼の、そして家族の嘆き、憤り、そして屈辱、そんなことを考えると断れなかったことと、この怒りを吐き出さねばどうにかなってしまいそうなパオロの意地、男にとって時には何事にも替えられない大切なもの、を守り抜くため、そしてあの会議の時に、議論を挟むべきだった、と悔やむ気持ちから、協力にOKしたのである。 そう、まだ終わってはいなかったのだ、あのおぞましい戦争は。

  町に着くと既に昼時だったので、近くのレストランでまず食事をし、お互いビール2本ずつ飲み、そして立ち上がった。 時が来たのである。 車を停車し階段を上れば、パオロの顔に気が付いた受付の女性のひどく驚いた顔。 パオロが用件、つまり公聴会を開いて欲しいとの旨を告げると、その女性は、すっかり慌てふためいた様子。待つようにと一言残して後ろに下がる。そう、こうして不意打ちをしたのは、電話では、なんだかんだ言われて日程を決め損じる節が見られたからである。 つまり、少なくとも歓迎はされてない訳だ。 しばらく、15分ほどだろうか、経ってから一人の上役そうな女性が現れ、後1時間ほどは予定が詰まっているから、その後でも構わないかを聞かれる、仕方が無い、承諾する。 パオロに言われるまま外に出て、深い森の持つ独特の湿った風のそよぐ木陰を二人で散歩した。

  この日パオロは随分と昔のこと、特に彼が僕と同い年の頃のことを語ったが、その語り草は、かつて頭に来るほど、得意げに自慢していた時のそれではなく、苦労話や失敗談が主で、その目すらもかつて話すときは必ず相手の目を覗いていた時のそれには程遠く、ただただ宙を彷徨っていた。 無くしてしまった自信、確かに彼のそれは多少傲慢にも近いものがあり、ある種の人には我慢しがたいものであったのかもしれないが、今回の事で、彼もやはり、既に半世紀を生き人生のなんたるかをとうに承知しているだろう人物だけど、学ぶであろう。 彼は自信を取り戻すべきである、それが僕の願いであった。 さっさと済ませて帰ろう、それに出来る限りの手を尽くせば後は、時間が彼の気持ちを和らげるはずだ。 ただ、何か嫌な予感がしていた。 でもきっと何かの間違いだろう、この湿って肩にのしかかるこの風がいけないだけに違いない。

  後1時間、と言われてから、1時間半後、ついにお声がかかり足を揃えての入室。 その部屋では先程の格のある女性を中心に、二人の重役、あの会議に来ていたうちの二人、が腰を据えて待っていたが、その顔にはあの時ほどの威厳が見られない。そうだろう、事の状況がはっきり分かっている時とそうでない時には非常に大きな違いがあるものだ。 さて、まずパオロが自分への罪状に関する釈明を行い、僕に繋いだ訳だが、この時の彼は非常に冴えていて、後でクラウディオ追求に必要な要因は、自己の非をあっさり認め、僕のするだろう証言を生かすように巧みに導いていたのである。 僕は僕で、まず始めに出来るだけ厨房の支出の問題を責めるように心掛けた。 何故ならば目の前のこの二人は、経費削減でこの僕を表彰した張本人であって、その表彰されたばかりの人間が、パオロ退社後の状況の悪化を語れば、印象強いと見たからであって、実際かなりの効果もあり、そして最後に、切り札とも言えよう、裏金のことを語った。

  上手くいった、上出来だ、とそう考えていた。 実際、僕は既に半分腰を上げていて、家路に着こうとさえもしていた。 が、なんと、突然扉が開いたのである。クラウディオ、息を荒く吐き乱しその額には吹き零れるほどの汗すらも滲んでいたその彼は、もはや僕の知っている彼ではなかった。 あの始終クールで決めていた彼が、まさに気違いと化していた。 電話で呼び付けられたのであろう。 この遠い道程を彼の人生に於いて例を見ないほどの凄まじいカー・レースを繰り広げながらやって来たのであろう。 なんてこった、まさにこれだけは避けたかった。 身体中から血の気が一瞬にして引いて行くのが感じられた。 これから起こるであろう見るに耐え難い復讐劇に吐き気さえも込み上げてきた。 でもきっと、これが人生なのであろう。悲劇というものはいつも決まって一番好ましくない状況に揚々と手を振って訪れては、満面のおぞましいあざ笑いを浮かべながら、開始のゴングを高々と鳴らすものなのである。

  『Sei Brutto Figlio di Puttana Maledetto Bastardo!(この卑劣な忌々ましい畜生野郎!)』 尊敬と軽蔑、期待と失望、共感、不和、称賛、羨望、忍耐、譲歩、畏敬、そんなものを7年もの間心中に秘め続けてきた二人が、沸き乱れるその全ての感情をまさにこの一瞬に"醜態"という形に変え、砕け散った。 張り詰めていた空気が犇めく音を立てては"無"と化し、幾千もの悪態が飛び交う中、彼ら皆がクラウディオを押さえに掛かっていた。 言うべき事を言い終えた僕らは外に出され、醜い惨劇の起きたは小部屋はクラウディオへの事情聴取の舞台と変化し、後に残るのはこだまし続けるクラウディオの張り裂けかねない罵倒の声。 まるで姿を見せぬ凶大な悪魔からでも逃げるかのように退出する僕らを羽交いに締めかかるその声は正真正銘の脅迫であった。

  『Stai Attento a Incidente Stradale, Paolo, Stavolta Ti Faro? Proprio Fuori. Anche Te, Chika, Lo Sai Quanto Facile Mandare In Galera Uno Extra-comunitario Come Te? Andate In Curo!(交通事故には気を付けろよ、パオロ。 今度ばかりは本当に葬り去ってやるからな。 チカ、お前もだ、お前みたいな外国人、ムショに送るのがどれほど簡単か分かるだろう、くたばっちまえ)』

  僕たちは車に乗り、そして走りだした。 しばらくの間は、この見慣れぬガルファニャーナの直線的な森林が投げかける矢も得ぬ当惑感、この今にも押し寄せて僕たちをこの深い谷底に挟み消し去ってしまいそうな鋭角な傾斜が与える圧迫感、に胸を叩き殴っていた鼓動を収める事が出来ず、お互いまったくと口を開くことが出来なかった。 外では淡く湿った霧が視界を遠ざけ、空からは冷たい雨が零れて始めていた。  



  後日談だが、やはり会社はクラウディオ側にあったため、パオロは事態の逆転、地位への復活どころか、クラウディオからの諸費横領罪、名誉棄損罪、僕への偽証強要罪における起訴の取り下げと交換で本部での証言撤回を受け入れ、泣き寝入りを余儀なくされる。 そしてその後、しばらくの求職活動の後、彼の友人がフィレンツエで経営するお菓子製造店でなんと、コックとして見習いを始め、毎日汗を流す喜びを見つけたと言う。 そして、現在、僕は忙しい身なのでそう頻繁ではないが、たまに顔を合わすことがあれば、今でも"君は僕の息子同然だ"と、大事にしてくれる良き友である。 クラウディオは対照的に頭を剃っての反省と地区の総責任者からただのホテルのそれへの降格と僅かな処置に済む。 僕への起訴はなかった。
  

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