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イタリアン・スタイルで行こう




まず始めに、このコーナーは私(註:土居昇用さん、経歴はコチラ)の「イタリア体験」に関する個人的なお喋りが書き連ねられたエッセイであることを断わっておかなければなりません。時には「日常的な何気ない事柄」、またあるときは短編的な「料理修業体験記」、さらには「食材」や「可笑しな人物との出逢いのエピソード」などであったりする、「楽しい話題」を中心に展開されていくものですが、第一回にあたる今回だけは、個人的に特別な日であることにもより、一人の「凄い男」との出逢いについて書かせて頂きます。


プロローグ 我が師"フルビオ・ピエランジェリーニ"に捧ぐ


 1997年後半のこと。イタリアに来てから「3件目の修行先」にあたる、とある有名リストランテを惜しまれながら後にした時、僕はひとつの重大な転機に面していました。自分の中での、イタリア語における上達、そして「イタリアという国で仕事をすること」に、ある種の「自信」を感じていたこの頃、それまであの手この手で引き伸ばしてきた「滞在許可証」の期限も切れ掛かり、そして、常に「正規採用」されていた故に得ていた「申し分のない給料」にも係わらず、度重なる移動や車の故障などにより底を突き始めていた財源にもあせりを感じていたために、「自由気まま」な料理修行生活に終止符を打ち、「長期間留まるだけの価値のある一軒」を見つけなければならない必要性から、「生活の安定」と「夢を探し続ける冒険」の選択をせまられていたのです。  

 11月、とあるキャンティ地区のリストランテを尋ねました。田舎のリストランテでは一般に閑古鳥状態が続くために、それこそ「休業」する店が大半の「冬のトスカーナ」において、優しき夫妻の操るこの郷土料理の名店にて、3週間のテスト期間を過ごし、破格の「給料」と、「法的な採用」、そして何よりも「愛情」に満ちた家庭的リストランテの「セコンド・シェフ」として迎えてくれるとの最高の待遇を提示して貰ったにも係わらず、「一年以上の契約」という交換条件だけが、僕の中の何かを揺すぶっていたのです。

 僕はその夫妻のことが大好きでした。人間としての素晴らしき「側面」に溢れた人達に囲まれ、奇跡的に美しいキャンティの里にて過ごす・・・これ以上の良い条件など有り得る筈がありませんでした。でも何故でしょう?おそらく、前店にてほぼ同じような料理の経験をしていたこと、そしてその女性シェフの繰り出す料理が「僕の捜し求めていた何か特別なもの」ではなかったことが要因であったのでしょう。「ここに残りたい」という願望に反して、さらなる「チャレンジ精神」が僕の中に沸き起こっていたのです。

 そんな11月末の事、少ない予約客に、のんびり従業員食を愉しんでいた我々の目に入ってきたものは、国営ニュース番組が特集したとある有名シェフのショート・プログラムでした。 あのリヴォルノ州南端はサン・ヴィンチェンゾの「リストランテ・ガンベロ・ロッソ」のオーナー・シェフ「フルビオ・ピエランジェリーニ」。当然、その名前は知っていたし、その伝説として語られる「パッサティーナ・ディ・チェーチ・コン・ガンベリ」という、爆発的な美味さの料理が引き起こした社会現象についても、耳にタコが出来るほど聞かされていました。そういえば、イタリアに着いて間もなくの頃、僕のイタリア語の成長に大きく貢献した先生「キキ」に対しても、いつもこう言っていました・・・「始めの一年間はしっかりとイタリア語を勉強することにして、対等に話が出来る自信がついたら、彼(フルビオ)のもとへ行くのさ。」・・・。太いその指で伊勢海老をわし掴みにする、不機嫌そうな彼の姿が放映されていました。・・・その時が来たのかもしれない・・・。

 そのキャンティのリストランテに決別を伝えることは辛いものでした。何よりもその女性シェフに対して、まるで「貴方の料理に満足出来ないから出て行く」とでも言っているかのような印象を与えてしまう事が、胸に痛く突き刺さっていたからでしょう。でも、彼女はこう言ってくれました。

 「Mi dispiace davvero, ma ti capisco. Ti ci vorrebbe un grande capo, non uno come me.(本当に残念だけど、解かる気もするわ、貴方には偉大なシェフが必要よ、私みたいのじゃなくてね。)」  

 初冬の寒気が激しく吹き差す大地をオンボロ車で、ただただ駆け抜けました。行き先はそう、彼の居る「サン・ヴィンチェンゾ」です。  

 大体、僕という人は「ちょっとした運試し」をする事が好きな人間で、ある意味では失礼にもあたることですが、当時、仕事場を変える際に、前もって電話を入れたり、手紙を送ったりはしていませんでした。イタリアでの最初の一軒の時から、毎回、「その場へ直接行き、そして門を叩く」、ずっとこのやり方でやっていました。この時もそう、サン・ヴィンチェンゾに着き、店を見つけては、ひとつ深呼吸をして、そして裏口の門を叩く。そこへいきなり現れたのは、真っ黒のロング・コートと、同じくひたすら黒いサングラスに包まれた、熊のような巨体の彼"フルビオ・ピエランジェリーニ"。

 今でも、忘れられません。彼に最初に言われた一言が、

  「Se mi prometti di non parlare agli altri il segreto della mia cucina che vedrai cui, ti do permesso di venire a imparare da me.(ここで見るだろう私の料理の秘密を誰にも話さないと約束するなら、君に私のもとで学ぶ許可を与えよう。)」  

 もしそれが、彼の口から発されたセリフでなかったならば、気を悪くしていたかもしれません。しかし、彼の有名な「気難しさ」を前もってサンザン聞いていたために、別けなくすんなりと、それどころか「やっぱり彼だ」と可笑しくもすらあった「豪快」で「印象的」なひとことであったのです。  

 そして、3年の月日が流れました。「辛く厳しい」、だが同時に、「熱くも輝かしい」3年間でありました。  

 不思議なものです。それまでの人生のなかで、ひとつのところに1年以上留まった経験を持たぬ、僕という人間が「3年」という記録を打ち立てた場所が、絶対的にその内容の一番キツかった彼のもとであったなんて。いや、きっとそれ自体が理由であったのでしょう。「有名な店を経験すれば、長く働けば出世の口実になる」といった俗な理由からではなく、ひとりの男としての彼にただただ、惚れこんでいたことが、最大の要因であったのです。

 誰かを崇拝するだとか、従うといったことを知らず、説得力のない上司や、上者面する年配者に噛み付きすぎていた当時の僕に対して、3年間、朝から晩まで、毎日肩と肩を並べては二人で最前線へ繰り出していたにも係わらず、僕を失望させる事のなかったひとりの男"フルビオ・ピエランジェリーニ"。時には口論をしたこともありましたし、仕事へのたるみから強烈な「渇」を頂いたこともあります。だがそれは全て、「雇い主だから」とか、「シェフだから」ではなく、「ひとりの男」として、僕を惹きつけて止まない魅力に溢れていた人であったからこそ、起こり得たドラマであり、彼にしてみれば「僕だけ」に与えた厳しい特権でもあったのでしょう。  

 最後の夜、いつものように話などする暇もないほど忙しい瞬間をあえて選んで(一種の照れ隠しで)、彼は言いました。

 「Siamo stati i due piu bravi del mondo.(私達は世界で最強のコンビだったよ)」  

 5つの小鍋を抱え、顔にはむせあがるほどの蒸気が立ち込めてくる中、賢明に涙を抑え、震えた声で、素早くこういい返したのことを覚えています。

 「Forse perche, ho cercato solamente aiutare a lei. E tutto qui.(多分それは、僕が求めていたことが、貴方を助けることであったからですよ。それだけです。)」

 それは本当に名誉な経験でした。もし仮に、戦国時代に生まれていたならば、確実に一城の主にのし上ったであろう、闘魂の男"フルビオ・ピエランジェリーニ"を助ける。

 30年の人生の中で、やっと出逢え、僕の中にあまりにもの多くの財産を残した「本物の男」。

 彼のもとを去った現在の僕のやるべきことはおそらく、そんな彼との3年間を無駄にしないこと、そして彼が誇りに思えるだろう人間になることなのでしょうか。そしていつの日か、また再びガス台に肩を並べることが出来るのなら、それ以上に光栄なことはないのでしょう。    

     
                                                 2001年6月18日     土居 昇用


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