学校というところ


1

 宮崎に来てからたった三日しか経っていないのに、私の周りでは本当にいろいろなことが起きたの。次々に新しい人に会った。みんな私を見ては大喜びしたわ。
 「可愛いねぇ」
 「すごいねぇ。おりこうだねぇ。」
誉められるたび私はめちゃくちゃ嬉しかった。でも私よりママのほうがもっと嬉しそうだったね。
 「ほんとにいい子なんですよ〜。」
 平気でそんなことを言って、まるで私を自慢してるみたいなんだ。
 (きっと今日もすごく楽しいことがあるに違いない!)
月曜日の朝も、私は期待でわくわくしてたわ。でもなぜか、ママはあんまり楽しそうじゃなかった。
 私はママに
 「ワンツーしなさい」
と言われてお風呂場へ行った。この二日間、わたしはこのワンツーにだけは、うんと苦しめられたんだ。というのも、ここは街の大通り沿いのアパート。毎日毎日わたしがワンツーをしても許される場所は、建物の外にはないらしい。それでママは、お風呂に置いたペット用トイレでしてちょうだいと言うのだけれど、これまでずっとアイメイト協会のグラウンドで用を足していたわたしには、家の中でそれをするのは、人間が考えるよりも難しいことなの。24時間以上かかって、やっとワンだけ出た。ママは半分目を潤ませてわたしを誉めてくれた。でもやっぱりツーはだめ。お腹が苦しいくらいなのに、どうしてもだめ。
 「ああ、今朝も出ないね。でももう時間がないから、さぁ行こう。したくなったらちゃんと教えるんだよ。道でしちゃだめだからね。」
ハーネスを付けて、私たちは出発した。
 (さぁ、今日はどこへ行くのかなぁ?誰に会うのかなぁ?)
 自然に尻尾が揺れてくる。「可愛い」って、「お利口」って言われることが、こんなにうれしいなんて、今まで知らなかった。

2

 バスに乗って、それから少し歩いて、着いたところは「学校」だった。途中で、私と同じようなハーネスを付けた、黒い犬をつれた男の人に会った。その人と黒いワンちゃんも「学校」へ入っていった。
 「おっ、来ましたね。先生のは白い犬なんですね。」
 入り口でママが靴を履き替えていると、いきなり一人の男の人がやってきて言った。わたしはご挨拶代わりに尻尾を振ってみせた。でもその人はわたしに、お利口とも可愛いとも言ってくれないで、何か真剣にママと話し始めた。それにしても、ママに「先生」なんて呼び名があったとは知らなかった!先生と呼ばれる人を、わたしは獣医さん以外に知らない。でもママはどう見ても獣医さんではない。人間の世界には、いろんな「先生」がいるらしいわ。わたしが一人でこんなことを考えている間も、二人はずっと難しい顔をして話を続けていた。
 「今工事中ですからね、部屋を確保するって言ってもですねぇ…。廊下に場所はいちおう確保してありますから、そこに置いてくれるといいけど。」
 「だからそれじゃ生徒がぶつかったりするし、勝手に触ったりされたらいろいろ困るんですよ。」
 「ですから、檻を持ってきていただいて…」
 「それは、できません!前から、それだけはできないと言っているではないですか!」
 ママの声がちょっと高くなった。いったいこの二人、何をこんなに議論してるんだろう?
 やがてママは
 「とりあえず職員室に入りますので」
と、まるで怒っているような口調で言って、私を横へ呼んで歩き出した。

3

 それからの時間の、なんて長かったこと!何てさびしかったこと!後で聞いた話だけど、学校というのは、人間の子どもたちがお勉強をするところなんだって。そして、そこでお勉強を教えている人が先生。ということは、私にとっての「学校」はアイメイト協会で、「先生」は指導員のSさんだったってことになるのかな?ママがお勉強を教えている学校の生徒たちは、ママと同じように、目の不自由な子どもたちだ。朝学校へ向かう道で会った黒いワンちゃんのパパも同じく先生だ。黒いワンちゃんは、パパが授業をやっている間中、廊下の隅っこでケージに入って過ごしてるらしい。学校の偉い先生たちは、ママにも私をケージに入れておくようにと、ママが訓練を受ける前から言っていたみたい。
 「あなたは今までだって、学校の中は一人で歩けたのだから、犬は廊下においておきなさい。盲導犬にも主人を待つ訓練は必要でしょう?授業に連れて行けば生徒の気が散って良い影響はありません。」
 でもママはこの言葉には断固反対をしてきたんだ。
 「一人で歩けるとか歩けないとかは関係ありません。盲導犬はわたしたちの目ですから、いつも一緒にいるのがあたりまえ。どこの世界に、建物に入るからと言って目を取り外しておく人がいるでしょう?ここは視覚障害のある子どもたちの学校です。その学校で、盲導犬が正しく受け入れていただけないとは、何ということでしょう!」
ってね。もちろんわたしたちに「静かに待つ」ということは、必要な訓練だけど、それは1日檻に閉じ込められてむりやり待たされることじゃない。仕事をしている主人の側で、迷惑にならないようにじっとしていることだ。そして私には、それができる。だからママは、わたしをケージに入れることは断固承知しなかったわけ。でも、ママがどんなに説明しても、私を連れて授業へ行ってもいいという許可は出なかった。それどころか、わたしは職員室にさえ入れてもらえなかったのよ!
 「工事中ですからね。とりあえず工事が終わるまでは男子更衣室に置いてもらいましょうか。」
 というわけで、私は1日一人ぼっちで、その男子更衣室とかいう部屋にステイをすることになってしまった。男子更衣室って、男の人が着替えに使う部屋なんだって。わたしは女の子だ。それでも私は犬だからかまわないみたい。だけどママは女で、しかも人間だ。授業のない時間など、わたしと一緒にいたくても、男の先生が入る用があるかもしれないと思うと、なかなか長くはいられない。
 ママが出ていった後、私はさびしさのあまり、声を出して鳴いてしまった。建物の反対側から、がたんがたん、バリバリと、工事の音がひっきりなしに聞こえる。心細くて、体がぶるぶる震えた。授業の合間に様子を見にきたママに、私は顔をすり付けて、どこへも行かないでって頼んだわ。ママは私を抱きしめて言った。
 「ごめんね。さびしいね。いつかぜったい、学校の中でも一緒にいられるようにしてみせるからね。ノエちゃんも良い子でいたらみんな分かってくれるからね。」
 そう言ってママはまた出ていってしまった。  夕方、やっと帰る時間になった。わたしはうれしくて、うれしくて飛び跳ねた。ママはいつものようにおちついて「静かに」って言いながらハーネスを付けてくれたけど、ママだって、本当はぜったいうれしかったと思うわ。だって、わたしを置いて授業に行くときは、あんなに悲しそうな顔をしていたんだもの。  お家に帰って、すぐにご飯をもらった。とってもおいしい!それからハウスにどてっとひっくり返った。ああ眠い...。わざと「ふぁお〜ん」と声を出して、大きなあくびをしたら、ママにおもいっきり笑われちゃった。だって、1日緊張して、ぜんぜんお昼寝できなかったんだもの。


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