写真: 宮崎、堀切峠。AMIとノエルの後ろ姿
出発


1

 卒業式は、4週間前の結婚式の日と同じように、3階のミーティングルームで行われた。あの日と同じように、部屋には椅子が並べられている。同じような光景の中に、一つだけ違うことがあった。あのとき涙を流して私との出会いを喜んでくれたお姉さんが、今では私の大好きなママになったということ。私は部屋に入るときから、ぴったりとママの横についていた。アリスだってそうだ。おじさんがアリスのパパになったんだからね。
 「アイメイトと一緒にたくさん歩いて、積極的に社会参加しようと思います」
ママもおじさんも決意を述べて、周りの人たちから拍手と励ましの言葉が贈られた。
 おじさんとアリスは、その日のうちに石川県のお家に帰っていった。私とママはもう1日アイメイト協会に泊めてもらうことにして、その日の午後は、協会の近くに住んでるママの友達のところへ行った。
 私は久しぶりに嗅いだ人間の家庭の匂いにすっかり興奮してしまったの。周りを見ても、ママとお友達以外の人間は誰もいない。叱るとこわ〜い指導員さんもいないんだから、これはいい。そこらにあるものは片っ端からくんくんして、気に入ったものは口に入れて齧ってみた。
 「ノー(いけない)。」
 何度叱られても、私は探検を止めなかった。
 「ああ、どうしよう、ノエルが豹変しちゃったよ〜!」
ママが助けを求めるようにお友達に言った。
 「たいへんだね。がんばるしかないねぇ。」
お友達は涼しい顔でそんなことを言う。実はこの人も1ヶ月くらい前に訓練を終えたばかりの新米ユーザーさんなんだ。でも彼女のパートナーのルビーちゃんは、まるで何年も働いてるベテランみたいに落ち着きはらってたわ。
 「ほら、ルビーちゃんいい子だよ。ノエちゃんもいい子になろうね。」
ママが言ったけど、そのときの私は好奇心の塊になってたから、ママの言葉なんかちっとも耳に入らなかった。

 いよいよ宮崎に帰る朝。ワンツーに行くと、ちょっとお腹がゆるんでた。
 「ノエル、何か食べたんじゃないですか?ツーに紙みたいなものが混じってますよ。」
 ママは決まり悪そうにした。
 「折り紙を食べたかも知れません。」
そう、前の日遊びに行ったお宅で、ママとお友達が折り紙で遊んでいたのを邪魔してちょっと紙の切れ端をいただいちゃったんだ。別においしくはなかったけどね。
 「これからは気をつけてあげてくださいよ。」
悪いことをしたのは私で、ママは何度も止めなさいって言ったんだけど、指導員さんは協会での私しか知らないからね。
 結局お腹がゆるいということで、その日の私のご飯はいつもの半分以下に減らすようにと指示が出た。

2

 協会の玄関で皆に見送られて、私たちは車に乗り込んだ。指導員のNさんが吉祥寺の駅まで送ってくれて、そこからは見習い指導員のYさんという女性が電車で羽田空港まで一緒に行ってくれることになった。
 電車の中、ママとYさんはひっきりなしに話し続ける。私の躾や世話のこと、歩くときの疑問などなど、いくら話してもママにはまだ足りないらしい。
 でも時間には限りがある。やがて私たちは空港に着いてしまった。搭乗手続きを済ませると、あとは係りのお姉さんがママを案内してくれる。Yさんとはここでお別れだ。
 「じゃぁ、お元気で。東京に来られるときはまたアイメイト協会に寄ってくださいね。」
 「いろいろありがとうございました。」
 二人が握手をすると、係りのお姉さんが
 「さぁ、行きましょう」
と言って歩きだした。いよいよ私とママの二人きりになっちゃった。ちょっと心細そうなママ。私はといえば、例によって好奇心でわくわく、初めての飛行機に興味深々だった。
 (何をするお部屋かしら?)
まさかそれが乗り物だなんて思ってもみなかった。辺りをきょろきょろして、左側の部屋へ首を突っ込もうとしたら、客室乗務のお姉さんに笑われた。
 「ワンちゃん、そっちは機長室だよ〜。」
 お姉さんは親切に、ママにいろいろ話しかけてきた。
 「私が乗るときに盲導犬がいっしょになったの初めてなんです。いろいろどうしたらいいとか、言ってくださいね。」
 「はい。でも実は私も今訓練所を出てきたばかりで、あまり分からないんです。」
ママがそんなことを言った。

 「皆様、間もなく離陸いたします。シートベルトをしっかりとお閉めください」
アナウンスが流れる。私はハーネスをはずして、ママの足元に寝転んでいたんだけど、いきなりエンジン音がグォ〜〜ッ」と鳴り出して、思わず飛び上がりそうになった。
 「大丈夫。ねんねしてていいからね」
 大丈夫と言ったママの言葉を裏切って、巨大なお部屋がぐわっと上に舞い上がる。すごい音。こんな中でねんねしていいだなんて、ママはどうかしている!次第に私の好奇心は恐怖に換わっていった。全身に力を入れて、ママの足にぴったりわき腹をつけて目をギュッとつぶる。不安でたまらなくて、体が震えた。
 それでも1時間もそうしていると、なんとなく慣れてくる。やれやれと思っていたら、いきなり飛行機が下へ向かって飛び始めた。
 (何なのかしら?怖い!!)
 ママの足元にいる私には、空を飛んでるって感覚はほとんどない。ドキドキが早くなって、私は口を開けては〜は〜と喘いだ。
 「大丈夫、大丈夫。もうすぐ着くからね。」
 ママが前屈みになって撫でてくれる。飛行機はどんどん下へ向かっていく。
 突然、私のお腹の下で、エンジンがものすごい音を立てた。心臓が止まるほどびっくりした。反射的に飛び起きて、通路のほうへ走り出した。
 「あっ!ノー。カム。ダウン。」
ママがあわてていろいろな言葉を連発した。あわてながらも、実はママ、こういうこともあろうかと予想はしていたみたい。私は何歩も走らないうちに前へ進めなくなった。私の首のリードは、しっかりママに握られていたんだもの。
 私がママの足元に戻ってしばらくすると、飛行機はガタンと音を立てて滑走路に降りた。
 「ほら、着いたよ。怖かったね。もうほんとに大丈夫だよ。」
 本当に、初めてママと二人きりになった場所が飛行機だなんて、すごい冒険だったわ。その後今まで、私たちは何度も飛行機に乗ったわ。もちろん今の私は飛行機も平気。離着陸のときはさすがにちょっと緊張するけど、空の上ではのんびりと眠っていられる。

3

 宮崎の空は曇っていた。東京からたった1時間半で来ちゃうんだから、1200キロも離れているなんて、私にはまるで実感がない。それでも、周りの空気は都会とは違う匂いがしたし、風もなんだか温かくて、どこか知らない街へ来ていることは分かったわ。
 到着ロビーに入ると、一人のおばさんが出迎えてくれて
 「ノエルちゃん、いらっしゃい」
と言った。その声はママに似ていて、しかもまるで私のことを知っているみたいだった。
 それもそのはず、その人がママのママ、つまりこれから私のおばあちゃんになる人だったんだもの。

 ママのお家は、宮崎市の中心に近いアパートの3階だった。おばあちゃんたちとは一緒に暮らしてるわけではないらしい。
 部屋に入って私のハーネスをはずすと、ママは私にステイをさせて、下に停めてあるおばあちゃんの車へハウスの材料を取りにいってしまった。
 今着いたばかりの部屋に一人残されて、私は寂しさと不安でパニックしてしまった。立ち上がってみても、声を出してみても、ママたちは現れない。ほんの2、3分が、とてつもなく長い時間に思えた。
 鳴きながら周りを見ると、ぬいぐるみがこっちを見て座ってた。近づいてくんくんすると、ママの匂いがした。ぬいぐるみはスヌーピーだった。ママがこのスヌーピーを撫でたり抱っこしたりしてたのかは分からないけど、その匂いは私をますますパニックさせたわ。思わずスヌーピーの鼻に齧りついて、ぐいっと引っ張った。ぽろりと取れた。
 ようやくドアが開いて、ママとおばあちゃんが、ベニヤ板やら、敷物やらを抱えて入ってきた。私がもぎ取ったスヌーピーの鼻を見つけると、ママは本気で私を叱った。昨日までとは違うママだと思った。指導員さんから指示をされながら動いてたママも、私のいたずらにあわてるママも、もうそこにはいなかった。私の頼れるママ。私のたった一人の主人なんだと感じた。卒業式を終えてからの24時間で、ママが本当にママになったみたいだ。
 スヌーピーを齧ったこと、私は心から悪かったと思ったわ。ステイと言って、ママがそのまま戻ってこないなんてありえないのに、なぜあんなにパニックしちゃったんだろう?それは、ママと1秒だって離れたくないって気持ちからだったんだ。でも、ママを不愉快な気持ちにさせたり悲しませたりすることは、ほんとは私はいやなんだ。ママが本気で私のママになろうとしてくれているように、私もママをうんと幸せにする子供になりたいと思った。
 1997年9月26日、私とママの新生活への出発の日。


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