卒業 1
いよいよ訓練が終わりに近づくと、私たちの訓練コースは、協会の周りから、吉祥寺駅付近に替わった。協会の車に乗って現地まで行く。1歩外に出ると、そこはもう人通りの覆い繁華街で、皆が私たちに注目しているみたい。アーケードを歩く。微妙にカーブを描いた歩道を通って、大きな信号を渡った。 その次は駅。 「切符」 AMIさんの命令で、券売機のところへ歩いていって機械に向かって顔を上げる。 高校生くらいの女の子が二人、私を見つけて 「あっ、可愛い!!」 って叫んでた。 そして改札へ。自動改札で、切符を入れるところへ向かってまたまた顔を上げる。 「へぇ、こんなこともできるんだ?すごい。」 AMIさんは感心して、切符を改札に通すのも忘れそうになった。 電車の乗り降りの練習は、ちょっと緊張したな。でも大丈夫。電車とホームの間へAMIさんの足突っ込ませるようなことはやらかさずにすんだわ。 協会まではバスで帰った。 「小さいのに、偉いですねぇ」 知らないおばさんがAMIさんに話し掛けてきた。誰が小さいって?私はもう1歳11ヶ月。人間で言えば二十歳過ぎの大人なのに、身体がちっちゃいから子犬と思われたんだわ。 次の日はデパートに行った。エスカレーターの練習ってことで、8階だか9階だかのペットコーナーまで、ぐるぐる回って上ったわ。ペットコーナーでは、並んだケージの中から子犬たちが皆で私に向かってキャンキャン叫びまくった。AMIさんは、私に、ブラッシングのときに使う金属製の櫛を買ってくれた。いくらAMIさんが犬好きだといっても、店中の子犬たちに甲高い声で吼えまくられたらたまらない。 「もう、耳がおかしくなりそう!」 と言って、早々と下りのエスカレーターに向かった。 下りのエスカレーターはちょっと怖い。動いてる段段に足を踏み込むのも怖いけど、下を見てるのも、できればやらずにすませたい。だけどまたまた1階まで延々と、乗っては立ち止まり、降りてはまた乗っての繰り返しだったわ。尻尾を後ろ足の間にはさんでなんとかがんばったけど、1階に着いて車に戻ると、どっと疲れが出た。 2 いよいよ訓練も終わりに近づいた。さて今日は何かな?と思っていたら、車に乗るとき、いきなりハーネスをはずされた。 「1時間以上かかりますから、ハーネスはずしてあげて。」 いやな予感。遠いとこって、まさか横浜の獣医さん?世界に獣医さんくらい怖いものはないわ。獣医さんに比べたら、前の日のエスカレーターなんか、半分も怖くないかもね。 でも予感は的中したの。 「はい、付きました」 車のドアが開いて、外に見えたのは、間違いなく動物病院の玄関。そして、病院臭い空気。 「ゴー(進め)」 AMIさんが行ったので、しかたなくのろのろと歩き出した。どんなときでもAMIさんの命令には従わなくちゃね。 でも、ドアのところまでが限界だったは。私は足がすくんでほとんど歩けなくなっちゃったんだ。アリスが尻尾を振りながら、おじさんを待合室の椅子へ誘導していく。本当に、アリスはなんて勇敢なのかしら。やっとのことでAMIさんは椅子にたどり着いた。私は椅子の下に潜り込んだ。 (どうか私のことは先生が忘れてくれますように。) 猫を抱っこした女の人が診察室から出てきて、AMIさんたちに話かけた。 「おりこうですねぇ。男の子と女の子ですか?」 私はアリスより身体が小さいし、アリスはすごく堂々としてるから、男の子と間違えられたんだわ。 女の人がお薬をもらって玄関を出て行くと、アリスが診察室に呼ばれた。 (よかった、私じゃなくて!ほんとに忘れていてくれるかも知れないわ。) と思ったのもつかの間、すぐに私が呼ばれてしまった。 「さぁ、行くよ。カム」 (命令には従わなくちゃ…) でも、だめだわ、腰に力が入らない。助けて! 結局私はAMIさんに抱きかかえられるような感じで診察室に入ったの。診察台の上で、私の心臓は破裂しそうにバクバク鳴った。立ってと言われても、座ってと言われても、AMIさんに支えてもらわないと身体が骨無しみたいにぐにゃぐにゃだった。 「ノエル、ねぇ、君はこれから人を支えて歩かなくちゃならないんだよ。君が支えてもらっててどうするんだい?」 先生がそう言って笑った。 (そんなこと言ったって、私あなたが怖いんだもの。) 体中チェックされて、狂犬病のお注射をして、やっと恐怖の時間が終わった。AMIさんとおじさんは、その後しばらく、獣医さんから、私たちの健康管理についてのお話をしてもらってたので、私はまた椅子の下へ潜って待ってたの。 帰る時間になって、AMIさんがおいでと言ったので、私はまた診察室に行かなきゃならないのかと思って足を突っ張っっていやいやをしたの。あれだけ我慢したんだから、もう勘弁してほしかったんだ。 「違うよ。ドアだよ。」 ドアといえば玄関だ。な〜んだ、帰るのか。安心したら急に元気が出た。 (任しといて!私ちゃんとAMIさんを支えて歩くわ。) 1秒でも早くこのいやな場所から出るために、私はAMIさんをぐいぐい引っ張ってドアへ向かった。 3 卒業テストの日。 午前中にAMIさんからシャンプーをしてもらった。あんまり好きじゃないけど、終わった後は気持ちいい。 訓練中ずっとシャツとジーンズ姿だったAMIさんが、ブラウスとスカートに着替えている。なんだか別な人を見てるみたいで、私はAMIさんの手や足をしつこいくらいにくんくんした。 私たちは電車に乗って、テストのある銀座へ行った。銀座は私もその日が初めてだったんだ。前の夜に地図を見たわけでもない。出発地点でAMIさんとおじさんが指導員さんから道順の説明を受ける。二人はその説明をもとに、頭に地図を思い浮かべて歩き出す。私はAMIさんの言うとおりに歩いていけばいいだけだった。 それにしても、なんてにぎやかな通りだったのかしら。よくよく気をつけていないと、今にも人とぶつかりそうになった。 交差点をいくつか通り過ぎて、大通りを反対側へ横断すれば、もうあとはゴールへ向かって一直線。 「コーナー」 AMIさんの声に、私は横断歩道の縁に足を置いて立ち止まった。しばらくして 「ゴー」 と言ったAMIさんだったけど、2,3歩進んで引き返してしまった。 「まだ青じゃないよね?」 実は、私には赤や青の色の区別はほとんど分からないんだ。AMIさんが車や人の流れから判断して命令してくれなきゃ、勝手に信号を渡ることはできないの。それでも、AMIさんだって、目で見て命令しているわけじゃないから、判断がぜったい正しいとは言えないよね。もし「ゴー」って言われても、渡るのが危険だと思ったら私は動かずにいる。そこまでできなきゃ本当の盲導犬とは言えないわ。 私にもAMIさんにも、そのとき信号が本当は青だったのか赤だったのかは分からない。でもとにかく私たちは歩道に引き返した。渡り始める前と少し立つ位置がずれてたけど、きっとAMIさんには何か考えがあるんだろうと思って、私は素直に従ったの。 「ゴー」 再び命令が出たので歩きだしたけど、そのまま進めばさっきと違う方向になる。 (だけどきっとそれでいいんだわ。) 私は、スタートしてから辿ってきた道をさらに前進する方向に歩いた。 「ねぇ、なんか変じゃない?」 AMIさんが不安そうに言った。変なはずだよ、そのままではいくら歩いてもゴールに到着するどころか、どんどんゴールから離れていくんだから。 AMIさんは通りかかった人を呼び止めて 「三越デパートはどちらですか?」 と聞いた。その人は外国人だった。日本語で教えてくれたけど、AMIさんがお礼を言って私に 「バック。ストレート」 と声をかけると、その人も 「そう、Go straight.」 って言った。びっくりしちゃったな、アイメイト協会の外にも、そんな言葉を知ってる人がいたなんて! ゴールに到着すると、皆が拍手で迎えてくれた。 「お帰りなさい!どこ行ってきましたかぁ?」 どっと笑い声が起きて、AMIさんもつられてきゃははははって笑った。 4 その日の午後、AMIさんたちは一人ずつ理事長先生に呼ばれた。先生とAMIさんの声を、私はAMIさんの足元にダウンして聞いてたの。 「卒業テスト、どうでしたか?銀座で、どこか人と違うとこに行ったんじゃないですか?」 「はい、どこだか分かりませんけど、コースじゃないところへ行きました。」 きっとAMIさん、これが原因で卒業できなかったらどうしよう?って緊張してたと思うわ。 「で、どう感じましたか?」 「ノエルが道を教えてくれるわけじゃないのに、迷ってもなんだか不安がないんですね。ノエルが一緒に歩いてくれているだけで心強いと思いました。」 しばらくの沈黙… 「あのね、明日卒業式やります。ノエルをつれて宮崎に帰ってもいいです。」 「ありがとうございます!」 AMIさんの全身から、喜びが溢れ出したのが分かった。かろうじて嬉し涙を堪えてるって感じ。 2階の部屋へ戻ると、AMIさんは、私をぎゅ〜っと抱きしめて言った。 「やったよ!ノエちゃん、私たちがんばったよね。私、本当にノエちゃんのママになれたよ!いっしょにママのお家に帰ろうね。」 次へ 「ノエルの足跡」のトップへ トップページへ |