3. 心の変化

ハーネスをつけて、一人でステイをするノエル
1

 アイメイト協会の消灯時間は午後10時。1日の訓練で疲れた訓練生たちはけっこうすぐに寝てしまうらしく、やがて辺りはし〜んとなる。
 私も9時半に最後のワンツーをすませると、あっという間に眠くなって、Amiさんよりも先に寝てしまうのが普通なんだけど、その夜だけはなかなか眠れなかったの。10時にAmiさんが部屋の灯りを消してベッドに入ってしまってからも、何度も寝返りをうってはもぞもぞと動いてたわ。さっきの服従訓練のときのショックが、いつまでも心を離れない。思わずふ〜〜っと大きなため息が出た。
 「ノエルちゃん?」
 眠っているとばかり思ってたAmiさんが、そっと置きだしてきて、私の背中に手を置いた。
 「大丈夫だよ。明日は二人っきりで練習しようね。そうしたらバッチリできるようになるから。だから心配しないでねんねしていいよ。」
 そう言って、私が眠りに着くまでずっと私の傍で背中を撫で続けてくれた。

 翌日もまた服従訓練の時間がやってきた。
 まずは、おじさんとアリスが部屋の真ん中に出た。アリスは本当に堂々としているわ。ちょっと得意げにさえ見えるくらい。少しぐらい失敗しても、叱られても、まるで気にしないで、次の動作に移っていく。気の弱い私には、ぜったい真似できないよ。
 「じゃぁAmiさんやりましょう。」
 おじさんとアリスが席へ戻ると、Sさんが言った。Amiさんがリードを握って立ち上がる。たちまち私の心臓がバッコンバッコン鳴り出した。Amiさんがそっと囁いた。
 「お部屋で練習したとおりにやればいいんだからね。大丈夫だよ。」
 Sさんはまず、私のハーネスをはずさせてから、
 「緊張してるから、ちょっと遊んであげてください。」
 と言った。Amiさんは、私と向き合って座ると、「グッド、グッド」と言いながら、胸や首を撫でてくれて、それから立ち上がると、リードを持ってくるくるダンスを始めた。
  びっくりしちゃった。すごく嬉しかった。
 リラックス、リラックス。ダンス、ダンス、ダンス!くるくる、くるくる…
 その後の私たちは、本当に楽しく訓練を続けることができたんだ。お部屋で二人で練習したからかな、Amiさんの声はすんなりと私の耳に届いたわ。
 「カム。ヒール(横につけ)。スィット。ダウン(伏せ)…」
 私の身体は、不思議なくらい、すいすいと命令に反応したの。
 「ノエ、いいぞ!グ〜ッド!」
 Sさんも誉めてくれる。
 昨日までのブルーな夜はもう終わり。私とAmiさんの距離が、その日1日でずっと近くなったみたいだった。

2

 一つ山を越えて、私たちの訓練は順調に進んでいたわ。Amiさんの歩き方も、ずいぶん上手になった。肩の力を抜いてハーネスを握って、右手を振りながら、私の動きに合わせてとても自然に歩けるようになった。とってつけたみたいな誉め言葉じゃなくて、本当に嬉しそうに誉めてくれるようになった。
 歩くコースは、最初の簡単なコースを終わって、歩道橋を渡るコース、歩道のない道を通るコースと進んでいったの。
 でも実は私、すごく苦手なことがあったんだ。それは、ドアや椅子を探すこと。「ドア」と言われたら、ドアのところへ行ってドアノブに鼻先を向けて教えなくちゃならないし、「チェア」って言われたら、座れる椅子のところへ行って、座席に顎をのっけて、ここに座れるよって教えなくちゃならないの。ほんとに、すごく難しいわ。今でもそんなに得意じゃないのよ。
 私は何度も何度も、ドアとチェアの練習をさせられた。それでもなかなかできなくて、、いやになっちゃう。

 訓練が始まって1週間くらい経ったある日、Sさんが言ったの。
 「今日から協会の中をアイメイトと自由に歩いていいですよ。」
 それまでは、部屋から出るときは必ず指導員さんについててもらわなきゃいけなかったの。勝手に歩いて、せっかく習った歩行のやり方がおかしくなったら困るからね。
 夕方、Amiさんはお風呂を使うことにして、私にハーネスをつけて部屋を出た。お風呂は食堂の先を右に曲がった突き当たりにある。
 食堂の前に差し掛かったとき、Amiさんが何か言った。
 (そうだ、きっとドアって言ったんだわ。)
 私はそう思って、食堂のドアに近づいていったの。だって、私毎日のようにここで「ドア」の練習したんだもの。Amiさん一人で私を試してみるつもりなんだって思ったのよ。それならぜったい間違えずに、いいとこ見せなきゃ!
 バッチリ決まったわ。ドアノブに向かって、自信たっぷりに顔を上げて、得意げに尻尾を振ってみせた。
 「ああ、そうだね、ノエちゃんドアだね。でもお風呂行くんだよ。お・ふ・ろ」
 (何を言ってるの。ちゃんとやってんのに、こんなにバッチリできてんのに。Amiさんん、早く誉めてよ!)
 私はもう一度シャキッと顔を上げて尻尾を振ってみせた。
 「うんうん。お風呂、お風呂行こう。ライト(右へ)」
 すっかり困っているAmiさん。顔を上げてドアに張り付いてる私。
 「ノエ、お風呂だ」
 突然後ろにSさんの声がして、私は振り返った。
 (な〜んだAmiさん、お風呂行きたかったのか。ごめんごめん。)
 私は、くるりと向きを替えてお風呂のほうに歩いていった。
 なぜ勘違いしちゃったのかな。Amiさんの命令する声にも、すっかり慣れたつもりだったのに、我ながらちょっとがっかりしたわ。

3

 2週間が過ぎて、秋の風が吹き始めた。Amiさんに出会ってまだ半月なのに、なんだかずっと前から一緒にいたみたいな気がした。不思議だわ。もう、Sさんを待って廊下を通る足音に耳を澄ますこともしなくなってた。Amiさんの姿が見えないとき、たとえばお風呂の外でAmiさんの出てくるのを待ってるとき、すごくさびしくて、待ち遠しくて、じ〜っとお風呂のドアを見つめて過ごすようになった。
 (Amiさんは、本当に私のママになるのかしら?このままずっと、このお部屋で暮らすのかしら?)

 日曜日になると、Amiさんのところにいろいろな人が遊びにくる。アイメイト協会では、日曜だけが訓練生に面会が許されていたから。ときには私たちの部屋に6人もの人間がいたこともあったのよ。中には、自分も犬を連れてやってくる人もいて、犬の苦手な私はその度ちょっとビクビクした。
 「これがノエル。ちっちゃくて可愛いでしょ?すごいいい子なんだよ!」
 私を友達に紹介するときのAmiさんは、めちゃめちゃ嬉しそうだった。

 ある朝、いつものように
 「Amiさん、出かけましょう」
と声がかかったので、私はハーネスをつけて、るんるんで部屋を出たの。ところが、お出かけ前の軽い服従訓練の後、外に出るのかと思ったら、いきなり私は1階の犬舎の傍にステイをさせられたの。
 5分、10分と過ぎても、Amiさんは戻ってこなかった。私はひどく心細くなってブルブル振るえ始めたわ。声を出したらきっと誰かが叱りにくるから、ぐっと我慢してたけど、震えるのは止めようがない。ほんの半月前まで自分が暮らしてた犬舎のすぐ横なんだから、怖いはずないじゃない?って思うのに、ぜんぜんだめだった。そう、場所は関係ないんだ。私が震えていたのは、もしAmiさんが戻ってきてくれなかったらどうしよう?って思ったからだわ。
 Amiさんは15分か20分もしてから戻ってきた。そして震えている私を、よくがんばったねって、うんと誉めてくれた。本当に嬉しかった。
 (私、もうAmiさん無しではいられないわ。Amiさん、私のママになって!)
 私は心の声を伝えるために、Amiさんにぴったりと身体をくっつけた。
 「ノエちゃん。グッドグッド」
 Sさんが呼んでくれていた「ノエちゃん」という呼び名を、いつからかAmiさんも使うようになった。
 (ママ…)
 そっと心の中で呼んでみる。すてきな響きだわ。私は自分の心の変化に驚いてた。だけど、、なんだかすごく幸せな気持ちだった。


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