青い星のライン

戸惑い



1

 おばあちゃんの家の大切な畳を台無しにしたので、私はちょっとだけ叱られた。でも、ほんとにちょっとだけだったわ。おじいちゃんもおばあちゃんも、ママと離れていなくちゃならない私の気持ちを分かってくれたみたい。
 おばあちゃんが出かける支度を始めると、私はそわそわして玄関へ先回りした。前の日は行きたくないって抵抗したけど、もうそんなことしない。だって、おばあちゃんが行くところにママがいるんだもの、何があったってついていかなきゃって思ったの。
 その日はおばあちゃんが、ハーネスをつけた私のリードを引いて4階まで階段を上った。駐車場まで迎えにくることだけでも、そのときのママにはきついことだったから、今度はおばあちゃん、出かける前に病院に電話を入れていたみたい。
 部屋に行くと、ママはベッドで眠り込んでいた。私は布団の間から鼻を突っ込んで、ママの手に当てて驚かしてやったわ。
 「うわぁ、なんだノエちゃんか。ああびっくりした。」
目を覚ましたママがそう言って起き上がる。そこへ昨日の主任看護師さんがやってきた。
 「あれから話し合ったんですが、盲導犬はAMIさんに必要なパートナーということで、とりあえず一緒にいてもOKということにしました」
 どうやら入院生活の間中ずっとママと一緒にいていいってことみたい。これにはママのほうがびっくりだったわ。だって、前の日までは、入院生活どころか、お見舞いにきてちょっと部屋で過ごすことさえ問題みたいに言っていたんだからね。とにかくありがたい決定だわ。
 とはいうものの、ずっと一緒にいれば、ママは私の世話をしなくちゃいけなくなる。私はワンツーをするし、ご飯も食べる。ブラッシングだって、しないですむはずはないし、毎日ベッドの下でじ〜っとしてるのは、歩くの大好きな私にはとてもストレスになる。
 「ありがとうございます。でも私は十分この子の面倒見れないから、やっぱり昼間だけ連れてきてもらって、夜は母に見てもらうことにします」
 こうしておばあちゃんの家と、ママのいる病院とを行ったり来たりする生活が続くことになったの。
2

 それから五日間は平和に過ぎたわ。私はおばあちゃんと一緒にママに会いにいったの。
 ところが、3月に入ると、私はなぜか連れていってもらえなくなっちゃったんだ。おばあちゃんが出かける支度を始めると、私は玄関に先回りして、一緒に行きたいってアピールしたのに、すぐにおじいちゃんが
 「ノエル、おいで。あんたはじいちゃんと留守番よ。」
って言うの。
 (やだよ〜。ママのとこ行くもん!)
 がんばっておばあちゃんの後を追おうとする私を、おじいちゃんはすばやく捕まえて、自分の車椅子の肘掛に繋いでしまった。
 (もうママのところへは行けないのかな。ひょっとしたら、私はおじいちゃんとおばあちゃんの子にならなくちゃいけないのかしら?)
 ついに私はそんなことを考え始めた。私、意外とこういうことは諦めが速いんだ。ママに初めて出会ったときも、まさかこの人がその後自分の主人になるなんて分からないから、しばらくはもとの主人だった指導員のsさんのことばっかり探していたけど、それだって1週間とは続かなかったわ。忠犬ハチコウみたいに10年も帰らぬ主人を待っているなんて、私にはきっとできないと思うよ。同じ犬でも私たちみたいな種類の犬は心の切り替えが速い。これは盲導犬にはある意味大切なことなんだ。育てる人、訓練する人、一緒に暮らす人って次々主人が変わっても、私たちはなんとかその状況を受け入れて生きていける。ハチコウみたいな日本犬には、絶対にそんなことは耐えられないと思うよ。だから日本の犬はいくら頭が良くっても盲導犬にはなれないわ。
 (おじいちゃんとおばあちゃんの子になるのなら、二人の言うことを聞かなくてはだめだわね。)
 私は気持ちを切り替える決心をした。
 お留守番をするようになって四日目、ようやくおばあちゃんが
 「今日はママのとこに連れていってあげるよ」
と言った。いくらおばあちゃんたちの言うことを聞く決心をしていても、ママに会えるのはすごく嬉しいから、私は張り切って車に乗ったわ。
 ベッドの上で、ママは起き上がって手紙を書いていた。見ると左手首が包帯でグルグル巻かれている。どうしたのかしらと思うとまず鼻を近づけてしまう私。
 「あ、お鼻はだめ。ここ手術したんだよ〜」
 ママがそう言って、私の顔の届かないところへ左手を引っ込めた。
 「そうだよノエルちゃん。そのお手手はママの命綱だから、守ってあげるんだよ。」
 ママの向かい側のベッドのおばさんが言った。
 ママが受けた手術は、手首の動脈と静脈を繋いでシャントというのを作る手術だった。これは、人工透析をするために必要なもので、シャントというのは、静脈に動脈の勢いのある血が流れるようにする通り道だ。この通り道が壊れてしまったら透析ができないし、透析ができなければたいへんなことになる。だから左手がママの「命綱」なのね。
 ママは右手を伸ばして私を撫でてくれた。
 「久しぶりだね。」
 私はママを見上げた。
 (私、おばあちゃんの子でいたらいいんだよね?)
 ママには私の考えてることは分からないみたいだった。
 「ノエちゃん、どうしたの?久しぶりなのに、今日はあんまり喜んでくれないんだね。」
 帰る時間になった。おばあちゃんが私のリードを握って立ち上がる。私もサッと立ち上がった。
 「またね。」
 ママが言ったので少し尻尾を振って答えて、そのままおばあちゃんについて歩き出した。先週までのようにママにしがみついたり、後ろを振り返ったりはしなかった。だって、私はおばあちゃんの言うことを聞くって決めたんだもの。ママはさびしそうだったけど、しかたないわ。私たちは二人の主人に同じようには仕えられないもの。
 1週間、2週間、ほとんど変化のない毎日が過ぎていった。私はおばあちゃんに連れられて、ほとんど毎日ママに会いにいったわ。その度にお部屋のおばさんたちが喜んで迎えてくれた。
 「ノエちゃんは私たちの元気の元だよ。」
 一人のおばさんがそんなことを言った。でも、そのころのママは、すっかり元気がなくなっていた。私が行くと嬉しそうにはしてるけど、すぐにぐったりとして、ベッドに横になってしまった。

3

 とうとうまた桜の季節が巡ってきてしまった。学校では新学期が始まっているころだけど、ママの具合は悪いままだった。
 そんなある日、病院に着くと、おばあちゃんは4階の病室ではなく、3階の奥にある大きなお部屋のほうへ歩いていったの。何をするところなのか分からなかったけど、看護師さんが出てきて
 「もうすぐ終わりますからね。ノエルちゃん、ママは元気になるよ」
って言ったんだ。
 「上の部屋で待っときます。」
 おばあちゃんはそう言って、いつもの4階へ向かった。
 1時間近くも経ったころ、ママが帰ってきた。なぜか車椅子に乗っている。
 (あ、ママこんにちは!)
 いつものようにすり寄って、ママの手の臭いを嗅いで、思わず後図ずさりをした。
 (しまった!人違いだったかも!?)
 ママの臭いが違う。私たちは目よりも鼻に頼る動物だからね、見かけがママでも臭いがそれらしくなければ、きっと違う人なんだって思ってしまうのよ。私が知っているママの臭いは普通の人とはまるで違っていたの。それは病気の臭いっていうのかしら?きっと人間には分からないと思うけど、もし人間もその臭いを嗅ぎ分けられる鼻を持っているとしたら、きっとあまりいい臭いとは言わないと思うわ。といっても、犬の私は、それこそがママの印だし、特にいやな臭いだとは感じていなかったんだけど。
 そんな病気の臭いを体中から発散してたはずのママが、今日はまるで普通の人に近づいたみたいな、臭いの薄い人になっていたの。そのうえ車椅子に乗ったママなんて見たことなかったから、私すっかり驚いちゃって、ママに近寄れなくなってしまったわ。上目遣いに見上げながら、べったり床に伏せてしまった。
 実はその日、ママは初めての透析を受けていたんだ。腎臓病が重くなって、悪いものが血液の中に貯まりっぱなしになると、人間も動物も生きていけない。だから腎臓の代わりに機械で血をきれいにしてあげるんだ。しかも、それをしたからといって、腎臓が良くなるわけじゃないから、透析は2・3日に一度延々と繰り返される。ママの臭いが変わったと私が感じたのは、たぶん透析によってママの体の中から悪いものがいっぱい外に出されて、普通の人の状態に近づいていたからなんだね。食事をすればまた毒素が血液の中に貯まるから、二日もするとまたママは病気の臭いに戻る。もちろん今では私もその臭いの変化こそがママの特徴だと考えるようになっってるから平気だけど、慣れるまでは本当に戸惑ったわ。
 初めての透析治療でかなりぐったりして車椅子で部屋へ戻されてきたママだったけど、しばらくベッドに横になっているうちに、だんだん元気になってきた。やがて起き上がると、床に下りて
 「ノエちゃん、屋上に行ってみようか?」
と言う。ママが私を病室の外に誘うのは、ちょっと久しぶりだった。それまでのママはひどく具合が悪くて、寝てばかりいたんだから。
 (おばあちゃん、行ってもいい?)
 例によってまずおばあちゃんに目で尋ねてみた。おばあちゃんは笑っている。
 屋上に出ると、ママは洗濯物干し場のコンクリートの段に座って私の背中をなでながら言った。
 「きっともうすぐお家に帰るよ。長く待たせてごめんね。」
 なんだかすごく安心って気持ちになったわ。風がとっても温かだった。

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