初めての離れ離れ

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 あの日を思い出すと、今でも悲しくなる。
 2月23日まで仕事をしていたママは、後のことを他の先生たちにお願いして3時頃家に帰ったの。それから荷物を持っておばあちゃんの家に。そこで二晩泊まったわ。
 25日の朝、ママが出かける仕度をしていたから、私も一緒に行けるものと思っていたのに、ふと気がつくとママがいなくなってたの。一度もお留守番なんてしたことのない私が一緒に行きたがって騒ぐといけないから、そっと出ていきなさいって、おじいちゃんが送り出してしまったんだ。ママもそれがいいと思って、おじいちゃんに私の相手をさせておいて、自分はおばあちゃんと出かけてしまったんだわ。でも、おじいちゃんもママも、まだまだ私のこと知らなかったと言うしかないわね。犬ってそんなに分からずやじゃないのよ。
 「きっと帰ってくるから、いい子にして待っててね」
と言われたら、ちゃんと待っていられるんだから。あのときママがそうしてくれていたら、私はずっとママを信頼することができたのに。おかげで私は今でもママを百パーセント信じることができない。「ステイ」と言われると、不安で不安でたまらなくなる。またママが私をおいていっちゃうんじゃないかって。
 とにかく、おいていかれたことに気づいた私はたちまちパニックになってしまったわ。おじいちゃんの呼ぶ声も無視して、家中を走り回ってママを探したの。
 (どこにいるの?ママ!ママ!ママ!)
 心細くて鳴き声を出した。鳴きながら何度も何度も家の中を回った。お部屋のベッド、テーブルの下、お風呂やトイレの中まで覗いてみた。でも、どこにもママはいない。ものすごく悲しくなって、玄関に座り込んで大きな声で「わおぉ〜ん」と鳴いた。
 「ノエル、心配するな。お母さん、病院に行ったんだから。お母さんが良くなるまで、ノエルはじいちゃんと留守番しようやね。」
   おじいちゃんはそう言ってから、
 「ほら」
と、ママのおいていったカーディガンを、私の前に差し出した。私はママの臭いのするカーディガンを持ってハウスにうずくまった。
 やがて夜になって、おばあちゃんが帰ってきた。ママが一緒かも知れないと思って玄関に飛んでいったのに、やっぱりママはいなかった。
 「ノエルを見てたら俺は涙が出たよ。」
 おじいちゃんが昼間の私の様子を話して聞かせると、おばあちゃんは私の頭を撫でながら
 「そうかぁ。さびしいねぇ。可愛そうに。」
って言った。
 おじいちゃんとおばあちゃんは、自分の部屋に私を連れていって一緒に寝ようと言ったけど、私はぜんぜんそういう気持ちになれなかった。ママの傍で眠りたい。そうじゃなかったら一人で寝るほうがいい。
 私が落ち着かないので、おばあちゃんがドアを開けて私を自由にさせてくれた。私は居間へ行っておじいちゃんの座椅子に上がりこんだ。もちろんママのカーディガンを持ってね。それでもなかなか眠ることができなかった。
 (ママに会いたい!)
長い長い夜だったわ。

2
 次の日の午後、おばあちゃんがまたまた出かける用意を始めた。
 「ノエちゃんも行くよ。」
 そう言って私に洋服を着せて、ハーネスもつけようとする。
 (いったい何なの?)
 私はたちまちその場に固まってしまった。どこへ連れていかれるんだろう?ここで待っていなくちゃ、ママが帰ってくるかも知れないのに!おばあちゃんがリードを弾いて外へ連れ出そうとしたので、、足を突っ張って抵抗した。でも私は小さいから、あっけなく連れ出されて、車に乗せられてしまったわ。
 車は大きな建物の前の駐車場に停まった。なんだか見覚えがあるような場所だと思った。
 「ちょっと待っててね。」
 おばあちゃんはそう言って、私だけ残して建物のほうへ歩いていってしまった。とっても不安だったけど、大人しく待っていたわ。
 ずいぶん待たされた気がしたけど、本当は2,3分だったかも知れない。おばあちゃんが戻ってきてドアを開けたの。その次には、とても信じられないことが起こったのよ。
 「ノエちゃん」
って声がして、おばあちゃんの隣にママがいたんだ!夢を見ているのかと思って、何度も何度もママをくんくんしたわ。間違いなくママだ。思わず、「ふう〜〜ん」と声が出た。
 「一緒に行こう。おいで。」
ママがリードを弾いて車から出るように誘った。私は勢い良く歩き出したわ。
 建物に入って思い出した。
 (そうだ!病院だわ。)
 そこは2年前におじいちゃんが入院していたのと同じ病院だったんだ。私たち盲導犬は、人間の目として働いている間は病院にも一緒に入ることができる。でも、たとえハーネスをつけていても、本来のユーザーが一緒でなければ盲導犬とは言えない。おばあちゃんはこのことを師っていたから、私がちゃんと咎められない形で病院に入ることができるように、まずママを病棟から連れてきたというわけだったの。
 4階の病棟に上がると、みんなが私を歓迎してくれた。ママのいるお部屋には、50歳くらいのおばさんと、80代のおばあさんがいた。二人ともママから私のことは聞いていたみたいで
 「ああ、来た来た!待ってたよ〜。」
と、さっそく傍に寄ってきた。部屋の前を通りかかる患者さんや看護師さんも、みんな立ち止まっては私に挨拶をしてくれる。ただ一人、ちょっと偉い看護師さんだけが気難しい顔をしていたわ。
 「ロビーで会うだけじゃだめかしら?」
 ママは驚いた。だって、この病院はずっと以前から盲導犬は病室にも入れてもらえていたんだもの、今になってこんなこと言われるとは思っていなかったんだ。そのことを話すと、偉い看護師さんは
 「そうですか。じゃぁまたみんなで話し合っておきます。今日のところはいいですが、犬の苦手な患者さんもいますから、気をつけてくださいね。」
って言い残して立ち去ってしまった。
 「こんなにおりこうさんなのに、失礼やわねぇ」
 「ノエルちゃんならいつでも来ていいよ。みんな元気が出るわ。」
おばさんたちが口々に言う。ママは嬉しそうだった。
 でもママと一緒の時間はあっという間に過ぎて、夕方になったので、おばあちゃんはママからリードを受け取って
 「さ、帰ろう。また来ようね。」
って言った。私はてっきりママも一緒に帰るんだと思っていたのに。
 (うそ!いやだよ、ママといたいよ。)
 リードを引こうとするおばあちゃんに逆らって、私はママの膝にしがみついた。
 「あら、一緒に帰ろうって言ってるよ。可愛そうにねぇ。」
おばさんがそう言って少し泣きそうな顔をした。
 「ごめんね。まだ一緒には帰れないよ。またおいでよ。」
ママもさびしそうに言った。
 その夜は前の夜よりもっとさびしかった。せっかくママに会えたのに、また一人で寝なくちゃいけないんだもの。
 夜中、私は寝ていた座椅子から滑り降りた。気が滅入って、いらいらしてたまらない。まるで学校の更衣室でステイをしていたときみたいに、無性に何かを壊してしまいたくなった。
 畳に爪を立てて引っかいてみた。バリッ、バリッと音がする。畳表が破けて藁くずが散らばった。だんだん掘ることに没頭して、ついに畳に大きな穴を開けてしまった。すっかり掘り疲れて眠りに落ちたのは明け方だった。

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