歩行指導

1

 翌日から、私はハーネスをつけてAMIさんと道路を歩いた。
 アイメイト協会の玄関を出て、右へ曲がって、しばらく歩いたら道を渡って、ぐるっと1周して帰ってくる。たったこれだけのことをするのに、歩き終わるころには、私もAMIさんもへとへとだったわ。だって、それまで私はSさんとすいすい歩いていたのに、AMIさんったらカチンコチンに緊張してるんだもの。ハーネスを握ってる左手も固まっちゃってるものだから、私の動きにうまくついてこられない。私が曲がり角で立ち止まったり、路上の障害物を避けて回り込んだりする度に、振り回されてよろけてる。私はいいことをしてるのに、なかなか誉めてももらえない。ときどき不安になって後ろを振り返ると、Sさんに「余所見はだめ」って叱られた。
 どうにかこうにか歩き終えて2階の部屋へ戻ると、AMIさんは私のハーネスをはずしてくれて、それからいきなり私をぎゅっと抱きしめた。
 「ありがとう、ノエルちゃん。すごいんだね!私、がんばってノエルちゃんのママになるからね。」
 あっけにとられて見上げると、AMIさんは涙ぐんでた。ほんとに、いったい、この泣き虫なお姉さんって誰なんだろう?私のママになるってどういうことなんだろう?喜んでいいのか何なのかさっぱり分からなくて、私はただAMIさんの顔をじっと見つめていたわ。

2

 歩行指導とは言うけれど、中身は歩く練習ばかりじゃない。朝起きてから夜寝るまでの全てが、これから始まる共同生活の練習なんだ。この4週間の間に、私たち犬と、使用者になる人間とがお互いを知り合って仲良くなること、それがすごく大切なんだね。
 
 朝起きると、AMIさんはまず私をワンツー(トイレ)に連れていってくれた。1回のグラウンドに出てハーネスをはずしてリードの端を握ると、
 「ワンツー、ワンツー」
と声をかけてくれる。なぜこんな変な言葉を使うのかって?ワンはおしっこのこと、ツーはうんちのことなんだけど、盲導犬っていろんなところへ行くでしょ?周りに人がいて、あからさまに「おしっこしなさい」とか言いたくない場合だってあるからね。
 私はAMIさんの周りをぐるぐる回って、ワンをする場所を探したの。私たち犬は皆、地面をくんくんして、ここだと思った場所に用を足すのよ。でももし私が勝手にAMIさんから遠く離れて用を足してしまったら、AMIさんは目が悪いんだから、私がどこでやったのか、ワンなのかツーなのか分からないよね。だからリードをつけたまま、自分の周りでさせることで、私の位置を確認することができるようにしてるってわけなの。
 だけど、AMIさんに出会ったばかりの私にとって、これはすごく恥ずかしいことだったわ。犬がそんな感情を持つなんてありえないと思うかも知れないけど、私たちもちゃんと、恥ずかしさの感覚を持っているのよ。
 ぐるぐる、ぐるぐる・・・回り続ける私。でもぜんぜん、ワンもツーもする気になれない。なんとか遠く離れた隅っこでできないかと、少しずつ円の外へ出ていったけど、AMIさんもしっかり後をついてきた。しかたがない、覚悟を決めて素早くグラウンドの隅にワンをすると、
 「グーッド、グーッド!」
とすごく誉めてくれる。嬉しさと、恥ずかしさとがまぜまぜになって、尻尾を振りたいけど、尻尾のほうがちぢこまって動かないみたいだった。

3

ワンツーの後は、訓練生の朝ご飯。もちろん私も一緒に食堂へ行く。将来AMIさんとレストランなどに入ったとき、ちゃんとお行儀良く待てる子になるためにね。
 食事の後はブラッシング。AMIさんと一緒に歩行指導を受けているおじさんも、アリスにブラシをかけながら、
 「美人になろうねぇ」
なんて声をかけたりして。私たちの周りには、まだ訓練中の子たちの犬舎があって、ブラシをかけてもらう私たちを恨めしそうに眺めている。中にはたまらなくなって鳴きだす子もいて、指導員さんに叱られたりしてた。私もついこの前までは、ああやって将来のご主人様と仲良くやってる先輩たちを眺めていたのにって、なんだか不思議な気持ちだった。

 夜はミーティングルームでお勉強。犬の身体や病気のことについてのお話を聞いたり、翌日歩くコースの予習をしたり。そして、最初か最後に必ず服従訓練があったんだ。私、この時間がとってもいやだったの。
 服従訓練っていうのは、人間の命令に素早く従うようになるための訓練よ。座ったり伏せたり、呼ばれたらすぐに主人の傍へ来たり、言われたとおりの姿勢で待てをしたり、いろいろある。しかも命令は順番が決まってるわけじゃなくて、ポンポン次から次へと姿勢を変えさせられるんだ。なぜこんなことをするかって言うとね、盲導犬とは言ったって、主人をグイグイ引っ張って勝手にお望みのところへつれていくわけじゃないからなの。私たちは危険なところを避けたり、段差や曲がり角を教えてはあげられるけど、あとは主人の命令無しではどこへも行けない。使用者が頭に地図を画いて、その地図と実際の道路を照らし合わせながら命令を出しているの。だから、もし私が言われたとおりの命令を実行できなかったら、あっと言う間にAMIさんは迷子になってしまうし、危険な目に合うかも知れないわ。だから、歩くときにもきちんと安全に動けるペアになるために、服従訓練はすごく大切なんだよね。私だって、パートナーがSさんだったころには、ちゃ〜んとできたんだ。でも、出会ってどれほども経ってないAMIさんとでは、同じようにはできなかった。それに、私少しパニックしてたんだ。ず〜っとSさんにいろんなこと教わって、Sさんの言うことが絶対だって信じてきたのに、突然この知らないお姉さんに引き渡されて、この人の言うことを聞きなさいだなんて!なんだかSさんに見捨てられた気がして悲しかった。もちろんAMIさんは優しいけど、半年一緒に歩いてきたSさんにはかなわないし、命令語の言い方だって、声の感じだって、男のSさんとはぜんぜん違うもの。 でもSさんは赦してくれなかった。少しでも私が命令に遅れると、AMIさんに叱られた。っていうか、AMIさんは、これくらいいいじゃないって思ってても、SさんがAMIさんに「叱りなさい」って言うんだ。そして、それは、毎日続いたんだ。

4

 ついに私、服従訓練をボイコットすることにしたの。
 Sさんは私の動きが遅いと言って、何度も何度もやり直しをさせたの。AMIさんには、「ノエルの動きが遅いときはチョークしてください」って言ってね。チョークというのは、チェーンになった首輪へ、一瞬リードからショックを与えて犬の注意を飼い主へ向けさせる躾の方法で、これは盲導犬以外の犬にもやっている人がいるみたい。でもきちんと習ってやらないと、犬の首を引っ張って、やたらに力をかけてしまうことになる。AMIさんのチョークは、ひどくへたっぴーだったわ。だから私よけいに苦痛に感じてきちゃったんだ。
 (もういやだわ!)
 私は座り込んだ。そして、AMIさんとSさんが何を言ってもぺったり床にお尻をつけて動かなかった。それでもSさんは強引に訓練を続けたわ。足を踏ん張って抵抗しても、体重19キロの私が人間にかなうはずないよね。私はずるずる引きずられるみたいにしてAMIさんについていった。

 部屋に帰ると、私はハウスにうずくまった。AMIさんも私の傍に座り込んでいる。
 「ごめんね。うまくできなくて…うまく伝えられなくて…」
 訓練の間我慢していた涙が、AMIさんの目から、どっと流れ落ちた。
 (Sさんはどうして、あんなに私に厳しくするんだろう?どうして私を突き放すんだろう?ねぇ、あなたはどうして私のために泣いているの?AMIさん、教えて!)
 AMIさんのひざに顔を押し当てていると、悲しみと、AMIさんの温もりが一緒になって、じわ〜んと胸に広がってきた。


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