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宣告
1
はるちゃんの新生活は順調みたいだった。ママの家族も、次第にはるちゃんのいない生活に慣れていったわ。私も初めの1ヶ月くらいは、おばあちゃんちに行くたびに、ひょっとしたらはるちゃんが帰ってくるんじゃないかと、夜9時頃になると外の音に耳を澄ましたりしてたけど、さすがに5月の連休を過ぎるとそんなことはしなくなった。 7月。改めてはるちゃんの結婚式が宮崎で行われたの。はるちゃんと旦那さんが一緒に帰ってきた。私は嬉しくて嬉しくて、二人に飛びついて家中走り回ったわ。 はるちゃんは白い着物を着てお嫁さんになったの。それからドレスに着替えたわ。すごくびっくりして、私は着物やドレスの匂いを嗅ぎまくってママに叱られた。 結婚式が終わると、またもとの静かな生活に戻ってしまった。 「旅行に行こうかなぁ」 突然ママが言い出した。 「ええ?止めておいたほうがいいんじゃないの?」 おばあちゃんが心配そうに言った。それもそのはず、このころのママは前にも増して元気がなくなってたんだ。 「でも今行っておかないと、これから行けるか分からないし。」 ママはこれから自分の身体にどんなことが起きるか、まるで予想してるみたいなことを言った。そして8月後半、私を連れて東京へ出発した。 旅行中のママはすごく元気だった。3泊4日の間、あちらこちらと歩き回ったわ。 卒業してから初めてのアイメイト協会。私は何もかも憶えていたわ。階段を上がるとすぐ右手の205号質が、私とママの過ごした部屋だ。私は何の躊躇いもなくその部屋へママを誘導しようとした。食堂やミーティングルーむには、あんまりいい思い出がなかったからね。 翌日はママがインターネットで知り合った人たちや、その人たちが一緒に暮らしてるワンちゃんたちと集まって過ごした。私は犬は苦手だけど、みんなに可愛がってもらってすごく幸せだった。 ママの昔からのお友達にも会ったりして、あっと言う間に帰る日になってしまった。そしてその後2年の間、ママは旅行に出かけることがなかったの。出かけられなかったんだ。 2 長くて暑い宮崎の夏もようやく過ぎて、ママの大好きな季節になった。澄み切った高い青空の下、風を切って歩くのは本当に気持ちいい。私は4歳。人間で言えば20台半ばってところかしら?やる気満々、若さとエネルギーで全身がパンクしそうなくらい元気だったわ。 だけど、そんな私とは反対に、ママは急激に弱っていくみたいだった。最高に気持ちいい晴れた日でも、ほとんど出かけない。仕事には行っていたけど、授業を1時間やって部屋に戻ってくると、すっかり疲れて椅子にぐったりと座り込んだ。生徒たちとは笑顔で話してたけど、家に帰るころにはもう、しゃべる気力もないみたい。帰り着いて服を着替えるとすぐに横になってしまった。ご飯も食べずに8時や9時まで眠っていることもあったわ。 私だってときには学校以外の場所へお出かけしたかったし、それが無理ならせめてお家の中で遊んでほしいと思った。でも決して我侭は言わずに我慢してたの。犬って、人間の皆さんが考えるよりずっと思いやりがあるのよ。ママの身体が辛いのを知りながら「お外へつれていって」なんておねだりすることは、絶対にできなかったわ。そのかわりに、私はそっとママの隣に横たわったの。ベッドに上がる気力もないのか、ママはそのまま床に寝転んでいることが多かったんだ。私はママにピッタリ体をくっつけてママが起き上がる元気を取り戻すまで寄り添ってたよ。 ママの病気は、慢性腎不全という名前だった。何かの原因で腎臓がダメージを受けて、次第に働かなくなる病気らしい。ママの場合原因は不明なんだけど、考えられるのは、子供のころに眼の治療に使った薬なんかの影響ではないかということだった。腎臓なんて、普通に元気で暮らしているうちは、どこに付いてるのか、何をしてるのか分からないくらいだけど、実はとっても大事な臓器なんだ。命を支えているって言ってもいいくらいにね。腎臓が働かなくなると、体に水分やいらない毒素が溜まって、重症になると死んでしまう。命を繋ぐために、今は人工透析といって、機会で血液をきれいにする治療が行われていて、ママも2000年4月からそれを受けているんだ。そのことはまた後で話すことにするけど、このころのママは、腎臓の機能が普通の人の3分の1以下というところまで落ちていたみたいだった。毎月病院へ行って血を採られていたのは、どれくらい毒素が貯まっているか調べていたってわけ。 夏頃から、ママは病院に行くのを怖がるようになった。どんなにドクターの指示をきちんと実行しても、食事などに気をつけても、病気の進行が速くて検査のたびショックを受けるからだった。一度壊れた腎臓をもとに戻すことはできないんですって。だから悪くならないように、できるだけ長持ちさせられるように、十分なエネルギーを摂ること、蛋白質を食べすぎないこと、体力を消耗しないことが重要なんだ。でも、蛋白質を減らしてカロリーだけ多くした食事は、ママの食欲を減退させたし、仕事に行けば自然体力をすり減らすことになるわ。そうしてママはどんどん重症に陥っていったの。 3
2000年になった。日本中、世界中が「ミレニアム」とか言って大騒ぎしていたけど、ママの家は静かだった。ママは皆と同じ御節料理を食べることもせず、腎臓病患者用のご飯で過ごしながら、のんびりしていたわ。はるちゃんも里帰りはせず、おじいちゃん、おばあちゃんと私たちだけのお正月だった。やがてお祝い気分が消えて普通の生活が戻ったころ、とんでもないことが起きてしまったの。何てことかしら!ママがインフルエンザにかかってしまったんだ。病気のため、すっかり抵抗力の弱ったママの体に、インフルエンザはあっけなく取り付いてしまったみたい。この年インフルエンザにかかったのは、学校中でママただ一人だったのよ。 私は例によって、ママのベッドサイドで何日も何日も過ごしたわ。心配で心配でたまらなかった。朝が来るたび、 (今日はもう良くなってるかな?) って思うのに、ママの具合は良くならないんだもの。自分で病気をやっつける力なんて、ママの体内には残っていなかったんだね。 結局九日かかってママはやっと仕事に出た。でもとても授業を何時間も続けられるような状態じゃなかったわ。 そして、ついに、ママの恐れていた日がやってきたの。 「残酷なことを言わなくちゃならないんだけど、あなたの腎臓はもう自力では役目をこなせない。だから、生きるためには、それに代わる手段を導入しなければならないんだよ。」 ドクターの言葉を、ママは表情一つ動かさずに聞いていたわ。この日が来ることは前から覚悟してたのだから、驚きでもなんでもなかったのだけど、実際に先刻されるってことは辛いことだわ。 先生は「腎臓に変わる手段」について丁寧に説明してくれた。血液透析や腹膜透析のこと。腎臓移植のことなどなど。そして、ママ自身がこの先どういう方法を選んで生きていくか決めるためにと、しばらく休養するために2月末から入院することになった。 「何とかなるよ。少なくとも今よりは楽になるはずだもん。」 ママは一緒に来てくれてたおばあちゃんに向かって笑って見せた。 でもそんな強いママの上辺だけの強さは、家に帰って私と二人きりになると崩れ落ちてしまった。 「なんで?なんでなの?どうしてこういうことにならなくちゃならないの?!」 叫びに近い声で言ったかと思うと、どっと涙があふれ出た。床に突っ伏して泣きじゃくるのを、私は黙って傍に座って見つめているしかなかったわ。他に何ができるって言うの?世界で一番好きな、私の大切なママが悲しみの底であがいているのに、私にはな〜んにもできないんだ。ただただ傍に寄り添ってあげる以外にわ。 (ママ。泣かないでよ。元気出して。) 私がママの涙をペロペロしてあげたら、ママは私を抱きしめてますます号泣した。 ずいぶん長い時間、ママは泣きつづけてた。やがて立ち上がって顔を洗ってくると、やたらすっきりした表情になって言った。 「しかたないよね、神様が決めたことだもん。とにかく、命が無くならなかったことを喜ばなくちゃね。」 次へ 「ノエルの足跡」のトップへ トップページへ |